第41話 人魚の泉は冥府に繋がるらしいです

 ふとしたときに子供の頃に聞いた話を思い出す。そういうときは、たいてい疲れているときで、今目いまめの前にある現実を直視できないから、記憶の彼方かなたのおぼろげなおとぎ話に目を向けてしまう。


 人魚セイレーンの泉。


 この無駄にしげっている森の奥にあるとされている人魚の住む泉だ。人魚はとても美しい女の半身をしており、この世のものとは思えない歌声で、森に迷いこんだ者を誘いこむ。


 そして、人を食べる。


 外見だけならば神秘的で、むしろ会ってみたい気すらするのだけど、最後に食べられるというところで一気に突き放される。


 話を聞いたとき、しばらく女の人が怖かった。


 実際には、森の深いところにいくと帰って来られなくなることから、子供をおどかすためにつくられたおとぎ話。そう言われていたが、意外と人魚の目撃談は多い。


 俺も半信半疑だ。そもそも、なぜ水を必要とする魔物が、こんな森の中にいるんだという疑問があるし。


 けれども、どうせ死ぬならば、美人に食われて死にたい。


 死を選んだのは、積極的な理由ではない。いや、積極的な自殺というものがどんなものかわからないが、俺の場合は消極的、他に選択肢がなくなった、というものだ。


 しがない靴職人、見習い。


 町の靴屋で、弟子入りという形で働いている。親方は頑固がんこで厳しくて理不尽な、よく言えば職人気質しょくにんきしつな男で、わるく言えばクズだ。


 掃除や荷運びといった雑務を朝から晩までやらされ、靴づくりについては、ほとんど教えてくれない。いったい何のために、ここで働いているのかわからなくなる毎日だ。


 これも修行の内というのが、親方の口癖くちぐせだが、雑用のいったい何が修行なものか。


 ただきついだけの日々が続けば、心はくさる。すぐに支障ししょうをきたすわけではない。少しずつだ。泉に一滴いってきずつすみらす。毎日毎日。ほんの少しの量であっても、そんな日々が続けば、次第に泉は黒くにごる。


 黒さに気づいたとき、もはや、手遅れ。どうすれば元に戻せるのかわからず途方とほうに暮れる。


 ちょうど、そんな胸の痛みに麻痺まひしてきたときだった。


 好きだった子の結婚の知らせがきた。


 幼馴染だった。子供の頃には、よく一緒に遊んでいて、森を駆けまわってどろんこになって帰って、一緒に怒られて、一緒に泣いた。


 お互いを男女として意識するようになってから、少しだけ疎遠そえんになった。それでも、身内のような間柄あいだがらで、このまま大きくなったら、きっと結婚するんだろうなと漠然ばくぜんと思っていた。


 だけど、そう思っていたのは、俺だけだったらしい。


 手に職をつけたら、プロポーズしよう。そう思って、必死に修行にいそしんでいたのだ。そこに舞い込んできた彼女の結婚の知らせ。


 相手は、町の有力者の息子。いったい何を食べればそんなに太れるんだといえるくらにふくらんだ男で、親の威光いこうかかげることを恥じらうこともなく、絵にかいたようなむかつく金持ちのぼんぼん。


 よりによって、あんな奴と結婚するなんて。


 彼女の結婚の知らせを聞いたとき、ぷつりと糸の切れる音がした。これほど心を濁らせて、胸の痛みに耐えてまでして、いったい何のために仕事をしているのか。


 わからなくなった。


 死のう。


 今さらながら短絡的な思考だったと思う。けれども、必然だったのだろう。うつわの水が溢れたのだ。それだけのこと。


 

「しっかし、泉なんてありゃしないじゃないか。前に聞いた話では、この辺だと思うんだけどな」



 少し前にうわさになったのだ。この辺りに本当に人魚の泉があると。その噂を聞きつけて、冒険者が何人も村にやってきた。


 彼らの向かっていた方に、俺もテキトーに歩みを進めたが、やはりテキトーが過ぎたか。どこまで行っても、生い茂る木々。空の星がきれいなばかりで、大地の方には泉のいの字もない。


 まぁ、所詮しょせんはおとぎ話の中の話。


 魔物に襲われて生きたまま食われたりする死に方はごめんこうむりたい。このあたりで、首を吊って死のうか。


 そう思ったときであった。


 歌?


 聞こえてきたのは、人の歌声。


 はじめ風の音かと思った。もしくは獣の鳴き声かと。しかし、それにしてはあまりに呑気のんき



「これが、人魚の歌声?」



 想像していたものとはやや違っていたが、とりあえず、俺は歌の聞こえる方に足を向けた。歩いていくと次第にきりが出てきた。やけに生暖かい、これは、霧というより湯気のような。


 草木をかきわけて、俺は森の奥へと向かった。そして、しばらく歩くと、急に視界が開ける。明るさで一瞬、目がくらんだ。何か大きな宝石が目の前に現れたのかと思ったが、そうではなく、泉であった。



「本当にあったのか。いや、でも、これは泉というより」



 温泉?


 霧が濃いと思ってたが、本当に湯気だったようで、泉からゆらゆらと立ち昇っている。



「ふ、ふふーん、ふーん」



 そして、歌声。人をまどわすという人形の歌。しかし、何だかやけに野太いな。まるで風呂に入っているおっさんが鼻歌を歌っているかのようだ。


 不可思議に思いつつ、一歩前に出たときだった。


 人、だ。


 人が温泉に浸かっている。


 あと、歌っている。


 おっさんが。



「温泉はいい」



 やけにがたいのいいおっさんだ。冒険者か何かだろうか。僧帽筋と三角筋がくっきりと浮き上がっており、小さな獣ならば腕でくびり殺せてしまいそうだ。


 

「つい鼻歌を歌いたくなる。これは、なるべく温泉を天国に近づけようという人のごうなのではないかと思うんだ。天国には歌がつきものだからな」



 わけのわからないことをほざくおっさんの姿を目下もっかにおきつつ、俺はしごく当然のことをごくごく素朴そぼくに思った。



 ……あれ? 人魚は?

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