P10 epilogue
「ままー。お月さまがまんまるだよー」
「そうだねえ。大きくてまあるいねえ」
繋いだ手を勢いよく振りながら、娘は楽しそうに大きな声で幼稚園で教えてもらったばかりの歌を歌い始め、私もそれに合わせて口ずさむ。
五月の熱くも寒くもない、心地の良い風の吹いている夜。私――國見保葉は近所のコンビニまでの道を五歳になる娘と一緒に歩いている。なんでもない日常。
結局、私は自殺すること無く生きている。自分の凡庸さや両親への迷惑だとか友人との距離感に悩んでいたくせに、平凡に大人になって、その頃の友達の紹介で出会った男性と結婚して、娘が産まれてもう五歳。私は先日、三〇歳を迎えた。
特に華のある人生ではないけれど、これといって大きく沈むような出来事もない。幸せかと問われれば首を傾げるけれど、不幸かと問われれば少し考えてから首を横に振る。凡人なりの人生。
「まま? どうかしたの? どこか痛いの?」
「え? ううん。大丈夫よ」
娘が心配そうな顔で見上げるので、私は笑顔を作って返す。五歳の娘に心配されるくらいに、私はひどい顔をしていたんだろうか。
月が綺麗な夜は、どうしても思い出してしまう。
これまで出会った中で、一番綺麗な女の人。
ずっと待っていたけれど、ナオさんは私を迎えには来てくれなかった。あれから一度も連絡すらくれなかった。
だから彼女がどうしているのか、私は知らない。私の知らないところで一人で自殺したのかもしれないし、彼女の想い人とよりを戻したのかもしれない。案外、シホノさんと別れたけど、そのままなんとも無く生きているのかもしれない。
もし、ナオさんが迎えに来てくれて、一緒に逃げていたら、私はどんな生き方をしていたんだろう。今よりも幸せで華のある生き方をしているんだろうか。ナオさんと女同士で一緒に生きていくなんて、辛いことも沢山あっただろう。でも、今よりもイベントに満ちた生き方をしているかもしれない。平凡な生き方を選んだ今の私には想像もつかない。
遠くで電車の走る音が聞こえた。大きな川に架かる鉄橋の上を大きな音をたてながら見慣れた電車が走っていく。車両の中には仕事帰りらしい疲れ気味の人たちが何人も乗っている。
私は走り去る電車の窓を、目を凝らしてじっと見つめる。ナオさんと一緒にハネムーンに向かう、あの頃の少女だった私が乗っている気がして。
そんな事あるはずがないのに、少女の姿を探してしまう。もしかしたら、今更になってナオさんから連絡があるかもしれないと期待しているのか、スマートフォンにはナオさんの連絡先が消せないままに残っている。家族や今の環境を捨ててまで駆け落ちするなんて、ありえないのに。
ナオさんが私に掛けた魔法は、まだ解けていないのかもしれない。
びゅううと、風が強く吹いた。
手をぎゅっと握ると、娘は「どうしたの?」と不思議そうにこちらを見た。私は「なんでもないよ」と努めて笑って返す。自分がどこかに行ってしまわないように、連れて行かれないように強く、強く娘の手を握る。
案外、平凡も悪くないものだよ。
まん丸の大きな月に向かって語りかけるけれど、返事は返ってこなかった。
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