この怪異は誰のもの?
イゼオ
第一章 橘氷魚は怪異に出会う
第1話 猿夢奇譚①
普段はそれなりに利用客がいる駅だが、どういうわけか今日に限っては誰もいない。加えて、なぜか薄暗い。振り返れば、無人の待合室には明かりが灯っていなかった。
売店にも、立ち食いそばのカウンターの前にも、人の姿がない。
自分が住んでいる街の、
おかしいなと思いつつ、氷魚は視線を線路に戻す。
ぶつ、っとスピーカーから耳障りな音がした。
「まもなく電車が参ります。その電車に乗ると、怖い目にあいますよ~」
そんなアナウンスが流れた。緊張感がない、気の抜けた声だった。
内容も言い方もふざけたアナウンスだ。現実ではまずありえない。
そこで氷魚は思った。もしかしたら、これは夢なのかもしれない。だとすれば、この状況にも納得できる。
本か何かで知ったのだが、夢を見ている最中に夢だと気づくことは稀にあるらしい。
落ち着いて自分の状態を確認すると、寝る時に着ていたスウェット姿だった。ますます夢だという確信を深める。
どうせならこんな不気味な駅じゃなくて、きれいでやさしいお姉さんが出てくればいいのに。
15歳の健全な男子高校生として
顔がついてるとか、変なのが来たらどうしようと恐れたが、いたって普通の電車で安心した。文字通り、夢見の悪いものは見たくない。
いつもそうするように、1番前のドアから先頭車両に乗り込む。氷魚は、正面の窓から進行方向を眺めるのが好きだ。前に進んでいる感が味わえるのがいい。
氷魚が乗り込んですぐに電車は走り出した。車内は生暖かい空気で満たされていた。
夢のはずなのに、奇妙な質感のある空気だった。氷魚は気味の悪さを感じながら車内を見渡す。氷魚の他にも乗客がいた。
見える範囲で9人、ロングシートに座っている。全員見覚えがある顔だ。
氷魚が通っている高校のクラスメイトだった。
パジャマやスウェット、ジャージを着ていて、なぜかみんな顔色が悪い。乗ってきた氷魚に気づく様子もなく、生気のない目で
夢だし、まあいいかと氷魚は進行方向に視線を向けた。
運転席は黒い霧がかかったみたいになって中が見えないが、窓から外を見ることはできた。
薄暗いが、見覚えのある光景が流れていく。この辺りで一番大きな都市、
「次は活け造り~、活け造りです」
少しして、そんなアナウンスが流れた。やはり緊張感のない、気の抜けた声だった。
活け造りって、どういうことだろう。そんな名前の駅、聞いた覚えがない。
不意に背後から悲鳴が聞こえた。氷魚は慌てて振り返る。
一番後ろに座っているクラスメイトに、どこから現れたのかぼろを着た小人が迫っていた。
餌を取り合う凶暴な猿みたいな顔をした小人は4人いて、手に大きな刃物を持っている。
クラスメイトはもがいているが、見えない手で押さえつけられているかのように席から立ち上がることができない。
いい加減な担任が、いつまでたっても決まらない委員長に出席番号1番だからという理由で無理矢理任命したのだ。
あまり話したことがないクラスメイトだが、もがく姿は夢とはいえ痛ましい。
小人たちは歯をむき出して凶悪な笑みを浮かべる。カウボーイとスペースレンジャーのおもちゃが活躍する映画にいたシンバルを狂ったように打ち鳴らす猿みたいだと思う。
そして小人たちは薊目がけて刃物を振り上げて――
目が覚めたら、自室のベッドの上だった。当たり前のことに
とりあえず汗を吸った下着を取り替えてさっぱりする。制服に着替えるのはいつものように朝食の後だ。
自室を出た氷魚は1階に降りて下着を脱衣所の籠に放り込み、キッチンに向かった。
「おはよう氷魚、今日は早いのね」
料理をしていた母が背中を向けたまま言った。顔も見ないのに氷魚だとわかるのがいつも不思議だ。
キッチンに入ってくるのが父でも姉でも母は顔を見ずに当てる。母の特技の一つである。みんな足音はたいして大きくないし、特徴もないと思うのだが、どうやって判断しているのだろう。
「うん、おはよう」
氷魚はもごもごと挨拶し、キッチンカウンターの前にある自分の椅子に座った。橘家の食事はダイニングテーブルで取る決まりだ。
「おはよ」
テーブルには先客がいた。姉の
「おはよう」と氷魚は返事をする。
水鳥は新聞を読んでいた。
水鳥は父よりも早く起きて新聞を読む。ニュースはネットやテレビで十分だと思うし、そもそも新聞の何が面白いのか氷魚にはわからない。
姉曰く、『面白いから読んでいるわけではない。読むと賢くなったような気になるから読んでいるだけだ』とのことだ。大学生の
ちらと氷魚を見た水鳥は軽く目を
「どうしたの。顔色が悪いけど」
「ちょっとね」
怖い夢を見たからだなんて、口が裂けても言えない。高校生にもなってとからかわれるのが目に見えている。それに、あの夢の内容を誰かに話すのは気が進まなかった。
この上なく生々しい夢だった。薊の絶叫は今も耳にこびりついているし、鮮血も目に焼き付いている。
――鮮血。
そう、あの小人たちは薊に刃物を突き立てたのだ。それから――
人がなっていい形じゃなかった。生命に対する
氷魚は口元を押さえる。車内のアナウンスで流れた『活け造り』の意味を理解した今、もう生涯魚の活け造りは食べられないと思う。それほどまでに真に迫っていた。
なんであんな夢を見たのだろう。薊に恨みなんてないのに。
「大丈夫?」
水鳥が心配そうに尋ねる。
「平気だってば」
「あら、本当に顔色が悪いわね。風邪?」
氷魚と水鳥のやり取りが気になったのか、振り向いた母は氷魚の顔を見て眉をちょっとひそめる。脱衣所では鏡を見なかったが、どうやら自分はよほどひどい顔をしているようだ。
「食欲もあるし、大丈夫」
嘘だった。食欲なんてこれっぽっちもない。何かを口に入れるなんて今の状態では拷問に等しい。喉はからからだったが、水すら飲みたくない。けれども朝食を抜いたら、母と姉はもっと心配するだろう。それは嫌だ。心配はかけたくない。
「学校、休む?」
「いや、行けるよ。ご飯食べたら元気になるって」
「そう……。無理はしないでね」
「しないから、安心して」
氷魚は意識して笑顔を作る。今日は朝からいくつ嘘をつけばいいのだろうと思いつつ。
人間、やろうと思えばできるものだ。無理矢理朝食をお腹に詰め込んだ氷魚は身支度を済ませると家を出た。
曇り空の下、自転車で15分かけて県立
入学祝として姉に買ってもらったまだ新しさが残るスニーカーを下駄箱に突っ込み、学校指定の上履きに履き替える。
誰の趣味なのか、
ださい、かっこ悪いという声も多いが、氷魚は割と気に入っていた。足裏の感触が心地いいのだ。
ここの卒業生の姉が言うには、大事に履けば1年半は持つらしい。
が、氷魚の場合、ゴールデンウィーク明けくらいに、サンダルに埋め込まれている磁石を盗まれるという被害にあったため、早々に買い替えるはめになっていた。磁石がないと履いていて据わりが悪いのだ。
氷魚以外にも何人かクラスメイトが被害にあっていたが、犯人の目的はわからずじまいだった。単なる嫌がらせか、それとも磁石を集める趣味でもあったのか。
盗まれたのが上履きそのものではなく磁石だけだったためか、学校は本腰を入れて調査してくれなかった。税込1980円は決して安くはないと思うのだが。
「おはよう、橘」
歩き始めたところで、声をかけられた。振り返ると、中学からの友人である
「って、おまえ、顔色が悪いけど、大丈夫か」
屋名池は一瞬で笑みを引っ込め、気遣うような表情になった。今日は朝からいろんな人に心配をかけていて、申し訳なく思う。
「おはよう屋名池。大丈夫。ちょっと寝不足なだけだよ」
「ならいいんだけど。やっぱり
鳴城高校には普通科と、大学進学に特化した特別進学科がある。氷魚の所属は後者で、屋名池は前者である。
「うん、大変だね。ついていくだけでいっぱいいっぱいだ」
勉強がきついのは事実だった。
真面目に授業を受けてはいるが、特進科での氷魚の成績は中の下だ。姉と違って要領の悪い自分は、やはり塾に通わなくてはダメなのかと思っている。
「そっか。おれ、落ちてよかったかもな」
屋名池は
特進科を受けて落ちた受験生は、自動的に普通科に割り振られる。普通科も定員があるが、よほどのことがなければ落ちないと言われていた。
2人で特進科を受けて、氷魚は受かり、屋名池は落ちた。氷魚は心中複雑だったが、屋名池はさほど気にしていないようだ。
「おれは屋名池がいなくて寂しいけどね」
並んで歩きながら、氷魚はつぶやく。
「友達、できないのか」
「できない」
「相変わらず内気なんだな」
「そう簡単には変われないよ」
地味な中学生だった氷魚は、高校生になっても地味なままだ。高校デビューなんて、別の世界の話のように思う。
中学校の時は屋名池がいてくれて、本当にありがたかった。たまたま席替えで近くになって話すようになった屋名池とは、共通の趣味があるわけではないのだが、妙に気が合った。
「もったいない。おまえはもうちょっと積極的になったほうがいいよ。友達作りだけじゃなくて、いろんなことに」
「いろんなことって、たとえばどんな?」
「そうだな、好きな子とかいないのか。特進科には女子がいるだろ」
昔男子校だった名残で、普通科には男子しかいないが、特進科には女子もいる。完全な男子校でもなく、かといって完全共学というわけでもない、半端な立ち位置だ。
女子の数は特進科1クラスの40人中大体10人くらいだ。
女子の場合、落ちても普通科に入れないので、ほぼ推薦入学である。一般受験をする剛の者は氷魚の姉くらいだろう。しかも滑り止め無しで受かった。落ちたらどうするつもりだったのか。
エリート感あふれる特進科の女子だが、制服はえんじ色でデザインもやぼったいのであまり評判が良くない。姉もぶーぶー言っていた。近くの女子高の制服の方が圧倒的にかわいいので、制服重視の女子はそちらに流れる。
ちなみに男子は普通科、特進科両方とも昔ながらの黒の
「あぁ、いや、どうだろ」
好きな子、と訊かれてもすぐには思いつかない。
自覚はないが、自分みたいなのを草食系というのだろうか。単なる
「彼女がいると楽しいぞ。って言っても、おれはふられちゃったけどな。まあでも、今はバイト先の子といい感じなんだよ」
「それはよかった」
「だな。っと、んじゃな」
階段に差し掛かった。屋名池は手を挙げて自分の教室に向かっていく。
「うん。じゃあね」
塞いでいた気持ちが、屋名池と話したおかげで少し楽になった。
屋名池と別れた氷魚は2階に上がる。
1―4までが普通科で、教室は1階にある。
1―5の教室は2階だ。隣は2―5で、反対側の廊下には2―1から2―4までの教室が並んでいる。そのため、同じ階を歩く時は先輩とすれ違う機会が必然的に多くなるので、ちょっと緊張する。
1―5の教室に入った氷魚は、真っ先に薊の席に目を向けた。担任が面倒くさがりなせいで席替えもされていないので、出席番号1番は窓際の1番前の席だ。
空席だった。
否応なく夢を思い出して胃の辺りが重くなる。不安がじわりと胸中に広がる。
時刻は8時15分過ぎ。薊がいつ登校してくるか
大丈夫、あれはただの夢だ。もう少しすれば、薊はいつものように登校してくるに違いない。氷魚は祈るようにそう思う。
しかし、朝のホームルームが始まる時間になっても薊は姿を見せなかった。教室に入って来た担任教師の
「
「どうしてですか」
反射的に声が出た。教室の4分の3くらいの視線が氷魚に集中する。ほとんどが好奇の視線だった。それもそのはずで、教室での氷魚は発言も少なければ友人もいない。珍しく思われるのは当然だった。
氷魚は顔が熱くなるのを感じる。
「――体調が悪いそうだ」
式見が答えるまでに少しだけ間があった。何かがひっかかる。赤面を自覚しつつも、氷魚は重ねて尋ねる。
「風邪か何かですか」
「詳しくは聞いてない。なんだ橘、おまえ、薊と仲が良かったか?」
委員長かつ社交的な薊はクラスの中心的存在で、友人も多い。しかし氷魚は彼の友人に含まれていなかった。
「……いえ。ただ、気になっただけです」
「そうか。まあ心配するな。明日には来れるだろう」
「先生、ら抜き言葉。国語の先生なのに」
誰かが指摘する。教室に笑いが広がり、空気が
「うるさい。ほら、いいから号令」
「はーい」
副委員長の
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