第8話 薔薇の花束とサシェ(2)

 薔薇の花束をもらったその日に、シャルロットはさっそくサシェ作りに取りかかった。

 まず、衣類を担当する修道女に頼み込み、麻布の端切れをもらう。

 それに毎日少しずつ刺繍を施し、小袋を作った。

 薔薇の花びらを二週間掛けて乾燥させ、小袋に詰めて赤いリボンを結べば、サシェの完成だ。


 不眠に効くお茶を飲むようになったからか、はたまた自分のすべきことが定まったからなのか、悪夢を見ることはなくなった。おかげで、シャルロットはサシェ作りに集中することができた。

 出来上がった翌日の昼、シャルロットはベリルにサシェを見せた。


「え! これを僕にくれるの?」


 シャルロットの髪色に似た亜麻色の小袋には、二輪の薔薇が刺繍されている。

 花びらの色は、サシェに入った薔薇のように濃いピンク色だ。

 シャルロットの掌に置かれたサシェに、ベリルは目を丸くした。


「はい。この前、眠るまで付き合ってもらったお礼に。本当は薔薇以外のハーブも入れたかったのですが、さすがに修道院のハーブを勝手に採るわけにもいかず……。刺繍ももっと凝ったものにしたかったのですが、あまり時間が取れなくて、簡単なものになってしまいました」

「いやいや、十分すごいよ!」


 ベリルはぶんぶんと手を横に振った。


「それから、サシェはこの部屋に置いても構いませんか? あなたの体がある場所へ持って行くのは、少々難しいので」

「もちろんだよ!」


 シャルロットがいささか申し訳なく思っていると、ベリルは大きく頷いた。


「でも、本当にもらっていいの?」

「ええ。もちろん、無理にとは言いませんけれど」

「無理だなんて! ありがたく頂戴するよ、せっかく君が作ってくれたものなんだし」


 ベリルは幸せそうに、柔らかな笑みを浮かべた。


「ありがとう、シャルロット。実は僕、薔薇の香りが一番好きなんだ。すごく嬉しいよ」

「それはよかったです」


 気に入ってもらえたことにほっとして、シャルロットは頬を緩めた。


「……本当は、お礼をしなきゃいけないのは僕の方だよね」


 ベリルはシャルロットをじっと見つめた。


「いつもありがとう、シャルロット。君が僕を見つけてくれたおかげで、今は毎日が楽しいよ。ここに囚われてから、こんなことは初めてなんだ。だから本当に、君には感謝している」


 シャルロットがサシェを置いている掌に、ベリルはそっと手を重ねた。


「君に返せるものはなにもないから、言葉を尽くすしかないのが悔しいけれど。でも、だからこそ何度でも言うよ」


 ベリルが一歩分、距離を詰める。

 手を伸ばせば触れられそうな距離に、シャルロットは小さく息を呑んだ。


「僕と出会ってくれてありがとう」


 愛しいものを見るように、蜂蜜色の瞳が細められる。

 自分だけに向けられた優しい微笑みから、シャルロットは思わず視線を逸らした。

 心臓が、痛みを感じるほど強く胸を打っている。

 

(私の方こそ、もっとしっかりお礼を言わなければいけないのに)


 ベリルの顔をまともに見れない今の状態では、とてもできそうになかった。

 朱に染まった顔が元に戻るまで、まだまだ時間が掛かりそうだった。



***



 昼時、祈りの時間を知らせる鐘の音が、修道院の敷地内に響き渡る。

 それを聞いてから、ベリルはシャルロットの部屋へと向かった。


「お邪魔しまーす」


 ベリルは壁をすり抜けて、シャルロットの部屋に入った。

 今の時間、シャルロットは聖堂で祈りを捧げている。

 そう理解していても、ベリルは常に一声掛けてから入室している。彼女がなんらかの事情で部屋に戻っている可能性も、ないとは言い切れないからだ。

 またシャルロットの着替えに出くわしたら、今度こそ彼女に嫌われてしまうかもしれない。それだけは、なんとしてでも避けたかった。


 シャルロットからは、彼女が部屋にいない間も好きに出入りして良いと許可をもらっている。それに甘えて、ベリルはシャルロットが部屋に戻ってくるまでの間、ここで待つことにしていた。

 ベリルは身を翻して、部屋の扉に向き直った。丸いドアノブに釣り下がったサシェを目にした途端、彼は相好を崩した。

 サシェに顔を近づけると、薔薇の甘く、華やかな香りがわずかに鼻腔をくすぐる。

 生花の時よりも、匂いはだいぶ薄まっている。しかし、それに物足りなさを感じることはなかった。

 匂いがどうであろうとも、シャルロットが自分のために作ってくれたことこそが、ベリルにとっては重要だった。


 扉の横に座り込んで、サシェのかぐわしい香りを堪能する。

 魂魄の状態では、本体にいる時ほど嗅覚が働かない。本来のサシェの香りがわからないのは、少しばかり残念だった。

 

 香を供えに来る歴代の修道院長たちの顔を、ベリルはふと思い浮かべた。

 修道院の中で唯一秘密を知る彼女らは、ベリルの世話もしなければならない。

 床に敷き詰められた赤黒い藁を替え、新しい巻衣を着せる。

 それがどんなに苦痛に満ちた作業なのかは、彼女たちの顔を見ればわかった。

 <白き顔の神>の敵である<蝕>の世話をするだけでも汚らわしいのに、流れ出る血の始末さえもしなければならない。

 地位が高いゆえに自尊心も高い彼女たちにとっては、屈辱的な仕事だろう。

 

 嫌悪、苦痛、恐怖。

 ベリルが聖堂地下に囚われてから人間に向けられてきたのは、そういった負の感情だった。

 だからこそ、驚いたのだ。

 <蝕>だと知ってなお、変らずに接してくれるシャルロットに。


『ベリル』


 花のように笑う少女が心に浮かび、ベリルはそわそわと落ち着かない気持ちになった。

 過去に出会った人間たちとシャルロットとでは、己が抱く気持ちに差異がある気がする。

 それがなんなのか、ベリルにはわからない。

 けれども、シャルロットを大切に思っていることだけは、はっきりとわかる。

 彼女に降りかかる苦難は、すべてこの手で打ち払ってやりたい。彼女には、いつだって笑顔でいて欲しいから。

 しかし、それに伴う力を、今のベリルは持ち合わせていなかった。

 

 ベリルは不意に、シャルロットが体調不良になった時のことを思い出した。

 よろけるシャルロットを抱きかかえて運んだ、マリユス司教。

 その情景を見た時のように、胸がちくりと痛んだような気がした。


(悔しいな)


 ベリルは膝を抱えてうなだれた。

 体を動かせてさえいれば、シャルロットを助けたのは自分だったかもしれないのに。

 自由の身になることは、とうの昔に諦めた。そのはずが、今はこれまでにないほど強く、解放されることを望んでいる。


(不可能だって、わかってはいるけれど)


 ベリルは深々とため息をついた。

 すると、心を波立たせるもうひとつの事柄が呼び覚まされ、彼は渋面を作った。


(聖女選定の期間は半年間。残り三か月ちょっとしかない)


 聖女選定が終われば、シャルロットはこの修道院から去ることになる。

 聖女に選定されればコベーン統括聖庁へ行き、選ばれなければエランジェル女子修道院に帰るのだ。

 別れの時は、刻一刻と迫ってきている。


(シャルロットがいなくなることに、僕は耐えられるんだろうか)


 色のない単調な日々を、鮮やかに彩ってくれたシャルロット。

 四百年余りを孤独に過ごしてきたベリルにとって、彼女はまさしく救いだった。


(離れたくないな)


 ベリルは膝を抱える腕に力を込めた。

 けれど、引き止めたところで、シャルロットは困ってしまうだろう。彼女は<剣の聖女>になるためだけに、この修道院に滞在しているのだから。


 ――彼女がここを立ち去る時、自分は笑顔で見送れるだろうか。

 それができるとも思えず、ベリルは現実から逃れるように目蓋を閉ざした。

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