第6話 <剣の聖女>を目指す理由(2)
それから間をおかずに、中年の修道女は夕食を持ってきてくれた。
食後のお茶には、さっそくバレリアンが出された。至れり尽くせりで、シャルロットは恐縮した。
邪魔をしては悪いと思ったのか、ベリルは声を掛けてこない。
食事を終え、お茶の包みをもらって部屋に帰ってから、ベリルはようやく口を開いた。
「シャルロット。僕、怒っているんだからね」
シャルロットが寝台に腰を下ろすと、ベリルは腕を組みながら彼女を見下ろした。
「無理しちゃ駄目だって言ったのに。どうして自分の体を大事にしてくれないの?」
眉を吊り上げたベリルに、シャルロットは肩をすぼめた。
「……すみません、ベリル。まさか、寝不足であれほど具合が悪くなるとは思っていなくて」
「寝不足を軽く見ない方がいいって言ったじゃないか」
「そうでしたね……」
シャルロットと同じ年頃に見えて、ベリルは遥かに長い年月を生きている。
年長者の言うことに素直に従い、昼寝をしておくべきだった。
「君が施療院に運ばれていくのを見た時は、今度こそ心臓が止まるかと思ったよ。……君が目覚めるまで、ずっと不安だった。このまま目を開けなかったらどうしようって」
ベリルは泣き出すのを堪えるように、唇を噛んだ。
――想像以上に、彼は自分を案じてくれていたらしい。
辛そうなベリルに、シャルロットの心は痛んだ。
「心配を掛けてしまって、本当にすみませんでした」
ベリルは首を横に振ると、なにかに気づいたように顔をしかめた。
「……いや。君がそうなったのは、たぶん僕のせいだよね。君みたいな普通のお嬢さんが、あんな光景を見て平静でいられるはずがない」
「それは……」
図星を指されたシャルロットは口ごもった。
ベリルの凄惨な姿を目の当たりにしておきながら平気だったとは、口が裂けても言えなかった。
狼狽するシャルロットの様子に、ベリルは沈んだ顔になった。
「君のこと、責められる立場になかったね。ごめん、シャルロット。僕のせいで、こんなことになってしまって」
「それは違います、ベリル」
シャルロットは咄嗟に否定した。
「確かにあなたの本体を見た時は、恐ろしかったです。でも眠れないのは、それだけではなくて……色々と、考えてしまうからです。この修道院のことを」
「でも僕の姿を見なければ、そうやって色々考えることもなかったはずだ。君はなんの疑いも持たず、平穏な毎日を送っていたはずなのに」
「……それはいいことなのでしょうか」
「え?」
ベリルは目を見開いた。
「あなたの正体を知らず、苦しみも知らず、毎日のうのうと暮らしていた方が良かったのでしょうか。……私はそうは思いません」
シャルロットは真剣な面差しでベリルを見上げた。
「確かに今の私は、精神的に追い詰められているかもしれません。ですがそれでも、私はあの日、聖堂の地下へ下りたことを欠片も後悔していません。苦痛を伴うものであったとしても、あなたの本当の姿を知ることができて良かったと、心から思っています」
「シャルロット……」
ベリルは一瞬くしゃりと顔を歪めると、困ったように微笑んだ。
「君は、僕のことを甘やかしすぎだよ」
「そんなことはないと思いますけど……」
「そうだよ」
ベリルは優しく言うと、一変して悲しげな表情になった。
「君は僕に対してこんなにも気を配ってくれるのに、自分に対してはそうじゃないね。……君は、聖女になる理由を恩返しがしたいからだと言っていた。でも僕には、どうしてもそれだけだとは思えない。なにかもっと切実な理由で、必死になっているように見える。なんだか、なにかに追い立てられているみたいに」
思いも寄らないことを言われて、シャルロットは瞠目した。
(ベリルには、そんな風に見えていたんですね)
自分では、全く自覚のないことだった。
エランジェル女子修道院に、育ててもらった恩を返したい。その一心で、<剣の聖女>に選ばれるべく精一杯務めを果たしてきた。
それに嘘偽りはないと、胸を張って言える。
しかし一方で、自身の<剣の聖女>への執着心は、確かに並々ならぬものがある。
その理由は自分でもよくわからず、シャルロットはもやもやした。
難しい顔で考え込む彼女に、ベリルはあたふたとした様子で言った。
「ごめん! こんなこと言ったら、また眠れなくなっちゃうよね。もうおしゃべりは止めにしよう」
「あ、待って下さい」
すぐにでも立ち去りそうなベリルに、シャルロットは急いで声を掛けた。
「あの、ベリル。……嫌じゃなかったら、なんですけど」
「うん、なに?」
「私が眠るまで、傍にいてくれませんか。その……眠るのが怖いんです。毎日のように、悪夢を見るので」
「もちろんだよ!」
ベリルは勢いよく承諾した。なぜか満面に笑みを浮かべている。
「シャルロットが僕を頼ってくれるなんて! ふふ、嬉しいなあ」
うきうきとした様子のベリルは、「さ、早く横になって」と寝台を叩いた。
それほど喜ばれるとは思っていなかったシャルロットは、当惑しながらも蝋燭を吹き消し、寝台に横たわった。
「すぐには眠れないので、お話してもいいですか」
「うん、元からそのつもりだったよ」
「ありがとうございます」
施療院にいた時よりも外は暗くなり、室内も暗闇に包まれている。
まだ目が慣れていないが、ベリルはどうやら枕元近くに浮かんでいるらしい。
ベリルの存在が心強く、シャルロットは微笑んだ。
「私、真っ暗闇が怖いんです」
考えるより先に、シャルロットの口は動いていた。
「夜中に起きると、闇の底に沈んでいるようでとても不安になります。眠る時と、起きる時は平気なのですが」
「そうだったんだ。……どうして怖いと思うの?」
耳に心地の良いベリルの声は、子守歌を聞いているかのように安心できる。
そのせいか、今まで胸に秘めていたことを、シャルロットはすんなり口に出すことができた。
「エランジェル修道院に引き取られる前、私は父に捨てられました」
「えっ?」
「捨てられた時が月のない夜だったんです。父はそこで待っていろ、と言って山中に私を置き去りにしました。私は父の言葉を信じて、その場でずっと待っていました。暗闇の中、ずっと」
シャルロットは目を伏せた。
話していると、あの時の絶望感が胸に蘇ってくる。父につけられた心の傷は、未だ治ることなく血を流し続けているのだった。
「それからは、すっかり暗闇が怖くなってしまいました。実を言うと、不眠気味なのはそのせいもあるんです」
「……そっか。ごめん、嫌なこと思い出させちゃったね」
「いいえ。ベリルには聞いて欲しいと思ったんです」
どうしてか、ベリルにはありのままの自分を知って欲しいと思った。
そんなことを話しているうちに、シャルロットは天啓を得たかのように理解した。自身が、聖女になるべく必死になる理由を。
「……私が聖女になりたいのは、また捨てられたくないという思いが根底にあるのかもしれません」
思えば自分は、いつだって必死だった。
品行方正で、聞き分けの良い子供であろうとした。礼儀作法や教養を教えられれば、すぐに吸収し、聖典などは丸ごと暗記してみせた。
そうすることで、シャルロットは修道女たちに己の存在価値を示したかった。もう二度と、捨てられることのないように。
「地位と名誉ある聖女になれば、もっと認めてもらえる。そうすれば、見限られることはない。……そんな思いがあったから、<剣の聖女>になることに固執していたのかもしれないです」
目の前の霧が晴れたかのように、ようやく己の気持ちがはっきりとわかった。
口に出してみて、シャルロットは清々しい気分になった。
「……君を育てた修道女たちは、君に対して厳しかったの?」
今まで黙って聞いていたベリルは、静かに尋ねてきた。
「いいえ! 皆さんとても優しかったです。時には厳しいこともありましたけど、それは私を思ってのことですし。エランジェルの修道女たちは、皆私の母親のようなものです」
「そう。それなら、心配することはなにもないよ」
「え?」
シャルロットは、思わずベリルを見上げた。
暗がりの中で見るベリルはぼんやりとした白い煙にも似て、ますます幽霊じみて見える。
彼は穏やかな声音で続けた。
「修道女たちが君を見限ることは、ないと思うよ。修道女たちは、君の母親代りなんだろう? なら彼女たちも、君を本当の子供のように思っているはずだ。認めるとか認めないとか関係なしに、君のことが大切なんじゃないかな。――君が、蔑ろにされてきたと感じるのなら別だけど」
「そんなことはありません! 彼女たちは実の父親よりも、私を慈しんでくれました」
「だったら、修道女たちを信じてあげなきゃ。君が聖女にならなかったとしても、修道女たちは受け入れてくれるよ。それが、本当の家族というものだから」
「か、ぞく」
生まれて初めて聞いた言葉のように、シャルロットは繰り返した。
――ベリルの言う通りだ。なぜ今まで、その考えに至らなかったのだろう。
父親から受けた仕打ちのせいで、修道女たちからの好意を信じ切れていなかったのかもしれない。
「そう。だからもう、頑張らなくていい。無理する必要なんて、ないんだ」
ベリルの言葉は、シャルロットの胸にすとんと落ちた。
優秀だと褒められたことはあっても、頑張らなくていいだなんて、誰にも言われたことがなかった。
「それにね、シャルロット。ひとつ言っておきたいんだけど」
「はい」
「万が一、君が育ての親に見限られたとしても、僕がいることを忘れないで。僕には君が必要だ。見限ることはしない。絶対に」
ベリルは床に膝をつき、シャルロットの頬を撫でた。
ひんやりとした空気が、頬にだけ当たっているような感覚がした。
ベリルはシャルロットの頬を両手で包むと、拳ひとつ分ほど空いた距離まで顔を近づけた。
「君がいない生活なんて、もう考えられない。考えたくもない。それぐらい君を必要としているんだって、覚えておいて」
まるで、熱烈な愛の告白を聞いているようだった。
間近に迫ってはいるが、暗がりではベリルの面立ちはわからない。けれども、彼が真っ直ぐにこちらを見ていることはわかった。
ベリルの視線に射貫かれたように、身動きがとれない。
シャルロットの顔はみるみるうちに熱くなっていった。
「あ、あの、ベリル! ち、近い、です」
「あ、ごめん。つい」
ベリルはあっけらかんと言って手を離した。
シャルロットは思わずベリルに背を向けた。
早鐘のような鼓動が、いやに耳に付く。一際火照った頬に手を当てて、シャルロットはぎゅっと目を瞑った。
恥ずかしい思いと、嬉しい思いがない交ぜになって、どう反応すればいいのかわからなかった。
(ベリルは、私を必要としてくれている)
そう胸中で呟くと、先ほどとは種類の違う熱が、全身にじんわりと広がっていった。
心が浮き立ち、どこまでも飛んで行けそうな気がする。
シャルロットは自然と頬を緩めていた。
「シャルロット、どうしたの? ……もしかして、怒った?」
シャルロットが背を向けたまま黙りこくっているせいか、ベリルはおろおろとした様子で声を掛けてきた。
「怒ってないですよ」
シャルロットは慌てて寝返りを打ち、ベリルと向き合った。
「その……そんなことを言われたのは初めてで。戸惑っていたというか」
シャルロットははにかみながら言った。
「……ありがとうございます、ベリル。とても嬉しいです」
ベリルはほっとしたように息をついた。
「それならよかった。じゃあ、もう無理はしないね?」
「はい」
念を押すベリルに、シャルロットは頷いた。
「無理はしませんけど、<剣の聖女>になることは諦めていませんからね」
「それはやっぱり、恩返しのために?」
「はい。建前のように聞こえたかもしれませんが、それも私の本心ですから。これからは、適度に頑張ることにします」
「そう。それなら僕は、君が無理しすぎないよう、見張っておかないとね」
「ふふ、お願いします」
シャルロットは顔を綻ばせた。
ベリルとの会話で、シャルロットは今まで悩んでいたことに対する、ひとつの打開策を思いついた。
(<剣の聖女>になれば、この修道院が抱えている事情がわかるかもしれません。ベリルが囚われている理由も)
修道院やコベーン統括聖庁、ひいては<白き鏡>教に対する不審の念が、消えてしまったわけではない。
だが教団でも地位の高い<剣の聖女>は、秘密を探るのにもってこいの役職だ。これを利用しない手はない。
いつ捨てられるのかと怯えるのは、今日で終わりにしよう。
明確に定まった第二の目的のために、シャルロットは力を尽くそうと心に決めた。
しかし今できることと言えば、明日に備えて眠ることである。
「シャルロット、眠くなってきた?」
「いいえ、全く」
シャルロットは苦笑いを浮かべた。眠気が訪れるどころか、目が冴えてしまった。
まだまだベリルには、付き合ってもらう必要がありそうだった。
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