第5話 <蝕>(2)
シャルロットの現在の仕事は、修道院本館の清掃である。
回廊で石造りの床を掃いていたシャルロットは、ふと中庭に目を向けた。
均一に整えられた芝生と十字の小道には、朝の光がさんさんと降り注いでいる。若草色に輝く明るい中庭に、昨夜のおどろおどろしさは微塵も感じられない。
(実は、昨晩のことは夢の中の出来事だったとか)
まるで別世界のように雰囲気が異なるため、シャルロットはついそんなことを思った。
しかしその考えは、すぐさま打ち消されることとなる。
「シャルロット!」
あまり聞き馴れていない声が、シャルロットの耳を打った。
床に向けていた視線を上げると、前方からやって来るエティエンヌの姿が見えた。シャルロットは箒を動かす手を止め、近づいてくる少年を眺めた。
白色と金色をまとう彼の姿は、日の光のもと、益々きらめいているかのように見える。
新しくできた友人が実在するとわかり、シャルロットは安堵した。
「あ、今は話し掛けない方がよかったかな」
文字通り飛んできたエティエンヌは、シャルロットの持つ箒を見やって眉を曇らせた。
今は労働時間中なので、私語は極力慎むべきだ。しかし運良く、シャルロットたちの周りには誰もいない。
しおれた花のようにしゅんとした彼を突き放すことは、シャルロットにはできなかった。
「いえ、少しでしたら大丈夫ですよ」
「本当!?」
一瞬にして元の明るさを取り戻したエティエンヌに、シャルロットは頬を緩めた。
「はい。……あ、そうだ。ちょうどあなたに聞こうと思っていたことがありました」
「なにかな?」
「エティエンヌは、この修道院の伝説を知っていますか?」
シャルロットがそう言った刹那、エティエンヌはわずかに顔を強張らせた。
しかしシャルロットが疑問に思うより前に、エティエンヌはにこりと笑った。
「うん、知っているよ。初代国王が<蝕>の一体を、ここの聖堂で討ったという話でしょう?」
その<蝕>の名を、ベリルと呼ぶ。
ベリルは一本の角を持つ巨大な狼で、当時小さな都市であったコベーンを荒らし回っていた。
まだ王として立つ前のエティエンヌ王は、その惨状を目の当たりにし、胸を痛めた。すると神からお告げがあり、聖剣ルテアリディスを授けられる。
ルテアリディスでベリルに致命傷を与えたエティエンヌ王は、狼を海に投げ入れてコベーンに平和を取り戻した。
ベリルが退治された舞台が、修道院がなかった頃のここの聖堂であったと言われている。
「どうしてそんなことを聞くの?」
エティエンヌは、どことなく探るような眼差しをこちらに向けてきた。
「ただの好奇心です。エティエンヌなら、当時のことを詳しく知っているのかな、と思いまして」
「ああ、そういうことか」
エティエンヌはほっとしたように、全身から力を抜いた。
「……僕は直接見たわけじゃないけど、王がベリルを討伐したのは本当の話だよ」
「そうなんですか」
歴史というよりはお伽噺として認識していたので、実際に起こったことだと言われると不思議な気持ちになる。
シャルロットが他の質問をするより先に、エティエンヌは素早く口を開いた。
「あのさ。シャルロットは、<蝕>のことをどう思ってる?」
「どう、とは?」
「怖いとか、退治されて当然だとか、そういうこと」
「ううん」
シャルロットは顎に手を当てて考えた。
「……正直なところ、よくわからないです。伝説上の存在とばかり思っていたので、ぴんと来ないというか」
「そっか」
「でも、そうですね。聖典に書いてあることを思えば、少し哀れに思います」
エティエンヌは、不可解な言葉を聞いたかのように眉根を寄せた。
「哀れ? どうしてそう思うの?」
「彼らを生き返らせるために、親であるヘリオト神が命を絶ったからです。私だったら、とても辛いと思います」
<蝕>に、思いやりの気持ちや慈しみの気持ちはなかったのかもしれない。
しかし、もし彼らにも母親に対する愛情が存在したのなら、彼らはどんな気持ちで目覚めたのだろう。目の前に横たわる血濡れの母親を目にして、なにを思っただろう。
――シャルロットは生まれてから間を置かずに、産褥熱で母親を失った。そのせいか、自分と彼らを重ねているのかもしれなかった。
「もしかすると、そのまま生き返らない方が彼らは幸せだったのかも。……ただの憶測ですけれど」
他の修道女にこのことを話せば、それは異端の考えだと唾棄されることだろう。思うがままにしゃべったシャルロットは、そのことに気づいて居心地が悪くなった。
ちらっとエティエンヌをうかがうと、彼は惚けたようにこちらを見つめていた。
「エティエンヌ? どうかしましたか」
「あ、ううん。なんでもない」
エティエンヌは首を横に振ると、目を細めた。
「……そんな風に思う人間も、世の中には存在するんだ」
「え?」
「シャルロットは、不思議な子だね。いつも僕の予想を上回ることをする」
「そうでしょうか……?」
特にそう言った自覚のないシャルロットは、首を傾けた。
「うん。君と話せて、本当によかった」
エティエンヌは顔を綻ばせた。
見ているこちらの心まで明るくなる、向日葵のような笑顔だった。
シャルロットが思わず見とれていると、彼は突如はっとした表情になった。
「あ、人が来るみたい。僕、もう行くね」
「え、ええ」
「仕事の邪魔してごめんね。また後で!」
エティエンヌはそう告げると、風のように去って行った。シャルロット以外の人間とは、あまり出くわしたくないのかもしれない。
シャルロットが気を取り直して掃除を再開すると、背後から靴音が聞こえてきた。
振り返ると、曲がり角から金髪の青年が姿を見せた。
「ごきげんよう、マリユス司教」
「ああ」
会釈すると、平坦な声が返ってきた。
コベーン統括聖庁所属の司教、マリユス・エルヴェシウス。彼は、聖女選定における監督役である。聖女候補たちの様子を見るため、度々この修道院までやって来る。
白刃のように冷たい美貌のマリユスに、一部の聖女候補たちは熱を上げていた。
聖女候補たちが聖女になりたがるのは、地位によるものだけでない。マリユスと同じ職場で働けるという点も、大きな要因となっていた。
しかし、彼女たちとは違い、シャルロットはマリユスのことが苦手だった。
「話し声がしたが、誰かと話していたのか?」
無表情のマリユスに問われたシャルロットは、伏し目がちに「いいえ」と答えた。
「独り言です。騒がしかったのなら、申し訳ございません」
マリユスはシャルロットに一瞥をくれると、「私語は慎め」とだけ言って去って行った。
シャルロットはマリユスの姿が見えなくなると、知らず緊張していた肩の力を緩めた。
(あの人の、目)
シャルロットはマリユスの青い瞳を思い返した。
透き通った海のように美しい瞳。皆はそれを褒めそやすが、そこに滲んだ感情には気づかない。
彼はいつでも、路傍の石を眺めるようにこちらを見る。あの眼差しを向けられるたび、お前は無価値な存在なのだと突きつけられている気がした。
シャルロットはため息をついた。マリユスのことを頭から追い払うため、彼女は今度こそ清掃に集中した。
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