海のほとり 芥川龍之介

ノエル

青春の、まろびつつ惑いながらも進む、若きウェルテルの悩みもかくやと思われんばかり……。

ぷるーとさんの巧みなご書評に触れ、得体の知れないインスピレーションが湧き出て読んでみたく思ったこの作品。芥川作品については、このサイトに挙げた数点の掌説くらいしか知らないわたしではあるが、なぜかそれまでとは違う芥川の息遣いを感じた。そしてその言い回しの巧さに舌を巻くとともに、これまた村上春樹の息遣いと同様なものを感じ取ってしまったのだ。

まずは、そのタイトルからして『海のほとり』などという乙女チックなネーミングと来る。まあ、大学を卒業したばかりの、それもこれから就活しなければならない青年たちの物語だから、それなりに背伸びした物言いに幼さが漂うのは致し方ないとしても、あのシニカルな芥川にしては、ちとセンチメンタルにすぎないか。

とまれ、その描写力は村上のそれに勝るとも劣らない。一例を挙げてみよう。


……雨はまだ降りつづけていた。僕等は午飯をすませた後、敷島を何本も灰にしながら、東京の友だちの噂などした。

 僕等のいるのは何もない庭へ葭簾の日除けを差しかけた六畳二間の離れだった。庭には何もないと言っても、この海辺に多い弘法麦だけは疎らに砂の上に穂を垂れていた。その穂は僕等の来た時にはまだすっかり出揃わなかった。出ているのもたいていはまっ青だった。が、今はいつのまにかどの穂も同じように狐色に変り、穂先ごとに滴をやどしていた。


どうだろう。どこかで嗅いだ匂いがしないだろうか。いまも言ったように書名が『海のほとり』だ。これを文字れば『海辺のカフカ』にも通じるではないか。もちろん内容こそ異なるものの、喚起するイメージとしては一般受けのする、懐かしいテイストを宿しているのは間違いないのだから……。

何よりも驚嘆するのは、この小説が村上春樹が『ノルウェイの森』を書く、はるか60年以上前の大正4年に書かれたものだと知れば、なおさらにその斬新性というかコンテンポラリーぶりに瞠目させられるだろう。その言い回しの妙は、今日の文体そのものなのだ。

『ノルウェイの森』も死がそこはかとなく漂う小説だったが、この小説もまた青年たちの心の裏に死がうっすらと佇む小説だった。ただ、村上のそれとは違い、死の様相はまだ具体化されておらず、漠然とした伝聞体における比喩として暗示されているだけだ。

いま少し、その様相を見ておこう。


渚はどこも見渡す限り、打ち上げられた海草のほかは白じらと日の光に煙っていた。そこにはただ雲の影の時々大走りに通るだけだった。僕等は敷島を啣えながら、しばらくは黙ってこう言う渚に寄せて来る浪を眺めていた。


ここにはまだ、死の影はないが、将来を見通せぬ不安がある。能天気なように見せながら、内心は確固たるものではなく、おぼろげなまだ見ぬものへの躊躇がある。その不安が頭をもたげてか、「僕」の友人のMが訊ねる。「君は教師の口はきまったのか?」

「僕」が「まだだ。君は?」と訊ね返したとき、「僕か? 僕は……」と言いかけたMの言葉は海水着に海水帽をかぶった少女二人のけたたましい足音と笑い声に言いさしのまま、かき消されてしまう。言いよどんだその心中には、半ばどうでもいいやという諦念のようなものがわだかまっている。

どこか心の奥底に、どうあがいたって、なるようにしかならないという、一種の諦めのようなもの、つまりはあの少女たちのように無邪気に生を謳歌する気分にはなれないという薄墨が網膜を覆っている。漠然とした不安。それは、この年頃の少年少女たちにはありがちな不安なのだが、なにか特別なことのことのように思え、それを感じることが自分自身を特別な存在にするにも似た、いわば不遜な思案でもあるのだ。

「僕」は魚籠を下げ、赤褌をしめた二人の「ながらみ取り」とすれ違う時、「ああ言う商売もやり切れないな」と思い、「何か僕自身もながらみ取りになり兼ねない気がした」のであった。

ながらみというのは、ニシの一種で、それを採るには「何度も海の底へ潜り、澪に流されたら、十中八九は助からない」。そんな危険な職業が、ながらみ取りという職業なのである。

そのながらみ取りの幽霊がこの浜に出たというのだ。実際のところはそうではなかったのだが、その話を地元民から問わず語りに聞いたあと、「僕」は深い思いから眼醒めたように、前を歩くMに呼び掛けて言う。

「僕等ももう東京へ引き上げようか?」


青春の、まろびつつ惑いながらも進む、若きウェルテルの悩みもかくやと思われんばかり……。ふたりの、淡い「卒業旅行」はこのようにして終わりを告げたのである。


出典 https://www.honzuki.jp/book/295951/review/264499/

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