第4話 海形大地・1

 海形大地は生まれてすぐに親に捨てられた。

 捨てられた場所は公園の女性用公衆トイレ。

 発見者の話によるとトイレの個室が血塗れになっていたらしく、大地がそこで産まれたのは疑いようがないとのことだった。


 それから大地は三歳まで乳児院で育てられるも、当然のように親は引き取りに来ず、里親になってくれる人間も現れなかったため、日本有数の富豪である九宝院くほういん財閥が経営する児童養護施設――希望のそのに入所することとなった。


 希望の園は、大地にとってはまさしくその名の通り、希望に満ちあふれた場所だった。

 園の大人たちは皆優しく、大地と同じように園に入所した子供たちも、喧嘩はあれども皆仲良しだった。


 だから大地にとって家族とは、希望の園にいる皆のこと。

 顔も名前も知らない親のことなど、気に留めようともしなかった。


 小学校に上がると、親がいないことをからかってくる奴や、希望の園のことを悪く言う奴が出てきたが、その頃にはもう相当にヤンチャだった大地は、そういった手合いを上級生下級生関係なく力尽くで黙らせた。

 それゆえに生傷をこさえることが多かったものの、概ね幸せな日々を送り……小学三年生になった頃に――九宝院椿つばきと出会った。


 どうやら椿は大地と同い年らしく、小学三年生にもなってろくに友達をつくろうとしない娘のことを心配した九宝院夫妻が、友達の作り方を学ばせようと思い、彼女を希望の園の子供たちと引き合わせることにしたのだ。


 自分たちの家である、希望の園を運営する夫妻の頼みだから――などという考えに及ぶような賢しい子供は少なかったが、それでも、夫妻が希望の園によく顔を出してくれる優しいおじさんとおばさんであることは認識していたため、子供たちは夫妻に協力して椿の友達になろうと意気込んだ。


 けれど、椿は夫妻が考えていた以上に難物だった。

 希望の園に着いてすぐに椿は夫妻の目を盗み、姿を消したのだ。


 夫妻は勿論、希望の園の大人も子供も必死になって椿を捜した。

 大地も口ではめんどくさいだの何だの言いながらも、九宝院夫妻こと優しいおじさんとおばさんのために椿を捜し……見つけた。

 事前に夫妻のスマホで確認した写真の見た目どおり、ブラウスとロングスカートに身を包んだ黒髪の少女を。

 その少女が、建物上階にあるベランダからとはいえ、一足で屋根の上に飛び移る姿を。


 控えめに言って下手くそなジャンプで、あんなにも高く飛んで見せた少女に大いに好奇心を刺激された大地はすぐさまベランダへ向かい、屋根の上によじ登った。

 見つかるとは思っていなかったのか、屋根の上ではしたなく胡座をかき、履いていた靴をいじくり回していた少女は、大地を見て目を見開いた。


 そんな少女に構わずズカズカと歩み寄り、隣に座る。

 少女はちょっと嫌そうな顔をしただけで、逃げる素振りを見せることはなかった。


「オマエ、〝つばき〟だろ?」


 写真とそっくりなので確認の必要はないかもしれないが、念には念を入れて訊ねてみると、少女は諦めたように首肯を返した。


「オレは海形大地。それより見てたぜ。オマエが屋根の上にとびうつるところ」

「……見間違いではないのか」


 椿が初めて口を開く。

 つっけんどんとした物言いとは裏腹に、声音は年相応に可愛らしかった。


「ごまかそうたって、そうはいかないぜ。こう見えてもオレ、視力検査に一回も引っかかったことがねぇくらい目がいいからな」

「こう見えてもどころか、見たとおりの気もするが……」


 呆れたように言う椿に構わず、大地は彼女の手の中にある靴を指でさす。


「なぁなぁ。もしかしてそのクツか? そのクツのおかげで、あんなすんげぇジャンプができたのか?」


 その問いに、椿は意外そうな顔をした。


「どうして、この靴のおかげだと思った?」

「だってオマエ、今おもいっきりそのクツいじってるじゃねぇか」

「確かにそのとおりだが……それでも、単純にわたしのジャンプ力が凄いとか、そういう風には考えなかったのか?」

「ないない。だってオマエのジャンプの仕方、すっげぇ下手くそだったもん。あんなジャンプであんな高くとべるわけねぇって思って屋根の上に来てみたら、オマエ、クツいじってたんだもん。そりゃそのクツがあやしいって思うだろフツー」

「なるほどな……そういう着眼点の持ち主なら……」


 当人は気づいているのかいないのか。

 椿は何やらブツブツと言いながら、どこか嬉しげな微笑を浮かべていた。

 その笑みを見た瞬間、心臓の音がやけにうるさくなったことに大地は内心首を捻る。


(なんだこれ?)


 あまりにもドクンドクンうるさいせいで、正直鬱陶しい。

 その割に、なんだか無性に嬉しいような楽しいような気分になってくるのは、どうしたことか。

 いまだかつて経験したことがない感情に困惑していると、


「ところで、〝みかた〟と言ったか?」

「大地でいい」

「なら〝ダイチ〟……もしこの靴が、わたしが作った物だと言ったらどうす――」

「マジかッ!? すげぇなオマエッ!!」


 食い気味に大地。

 ストレートに賛辞されたことが嬉しいのか、椿は澄ました表情をしているものの頬は微妙に緩んでいた。

 そんな緩みを誤魔化すように「コホン」とわざとらしく咳払いをしてから、こちらに手を差し伸べてくる。


「知っているとは思うが、父様と母様がわたしに友達ができないことを心配していてな。君さえ良ければだが、わたしの友達になってくれないか? なってくれたら他にもわたしが作った物を君に見せてあげ――」

「マジかッ!? なるなるッ!!」


 またしても食い気味に応じながらも、差し伸ばされた椿の手をがっちりと握った。


 こうして大地は、椿と友達になった。

 そして、椿について色々と知ることができた。


 どうにも椿は、その気になれば今すぐにでも飛び級で大学に入れるほどに頭が良いらしく、友達をつくろうとしなかったのも、頭の良さゆえに同世代の子供と話が合わないという理由が大きいとのことだった。


 ならばどうして飛び級しないのかと訊ねると、彼女はどうやら目立つことが嫌いらしく、あえて「平均よりも上程度」の学力に抑えることで注目を浴びるのを避けているとのことだった。

 それを聞いた大地が「オマエ、本当に頭が良いな」と褒めると、椿ははにかみながらも、こう言ってくれた。


「そんなことが言える君だから、友達になれると思ったんだ」


 その言葉は素直に嬉しかったけれど、またしても心臓がうるさくなったのは、当時の大地にとってはやはり鬱陶しいものだった。


 椿との遊び場は基本、九宝院夫妻が彼女のために設けた研究室だった。

 どうやら夫妻は椿の頭脳が尋常ではないことを承知した上で、彼女の好きにさせているらしく、研究室の設備はその道の人間ならば垂涎すいぜんするほどに、本格的かつ最新鋭のものが揃えられていた。

 だから一口に遊ぶと言っても、その内容は子供のそれとはかけ離れていた。


 ある時は、初めて会った時に見せたジャンプ力を大幅に強化する靴を椿が改良し、大地がそれを装着して性能を確かめたり。


 ある時は、椿が開発した光学迷彩の装置を使って隠れんぼをしたり。


 ある時は、頭に「大」がつくような失敗作に大笑いしたり。


 およそ子供の遊びとは言い難いが、それでも大地にとって椿と一緒にいる時間は何よりも楽しい時間だった。

 希望の園と、研究室がある九宝院邸は町一つ分ほども離れていたが、自転車で毎日のように往復することが全く苦にならないくらい、楽しい時間だった。


 いや、この場合は楽しすぎたと言うべきか。


 椿と一緒にいることがあまりにも楽しすぎたせいで、大地が、彼女と初めて出会った際に芽生えた感情の正体に気づくのが遅れに遅れた。

 気づいたのは、出会ってから三年の月日が過ぎた頃。二人が中学校に上がってからのことだった。


 学区が違う上に、大地は都内の公立校に、椿は俗に言うお嬢様校に通っていたため、示し合わさない限りは下校時に出会うことはない。が、その日二人は偶然町中でバッタリと出会うことができたので、どうせだからとそのまま一緒に研究室へ向かうことにした。


 その途上、なんとはなしに見上げた夕陽が綺麗だったせいか。

 中学生になり、可憐さとともに凜々しさが増した椿の横顔が、夕陽以上に綺麗だと思ったせいか。

 ふと、深く考えずにこんなことを口走ってしまう。


「なぁ、椿。たぶんオレ、オマエのこと好きだわ」


 言ってから少しだけ後悔する。

 深く考えないにも程がある。

 というか、自分で言った言葉なのに、その意味をいまいち理解しきれていない。

 オマエ今言ったこと本気か?――と、自問してしまうほどに。


(まぁけど、いきなりこんなこと言ったところで「頭でもぶつけたか?」とか「熱でもあるんじゃないか?」とか言われるのがオチだろうな)


 と、心の中で予防線を張りながらも、今一度椿の横顔を覗き込み……「あ」と呆けた声を漏らしてしまう。


 椿の顔は、真っ赤になっていた。

 夕陽に照らされてなおはっきりとわかるほどに、真っ赤になっていた。


 その顔を錆び付いたドアが開くようなぎこちなさで、ゆっくりとこちらに向けてくる。


「だ、大地……ちょっとカラスの鳴き声がうるさくてよく聞こえなかったのだが、今何か言ったか?」


 頭の良い彼女にあるまじき頭の悪い嘘だった。

 なぜなら、大地が雑な告白をしている間、周囲には一羽のカラスもいなかったから。


 無理矢理すっとぼけようとする椿があまりにも可愛らしくて、それがかえって明確に大地に自覚させる。自分が椿に惚れているということを。


「訂正。『たぶん』じゃねぇわ」

「た、たぶんじゃないとは、どういう意味だ?」

「そりゃ、オマエのことがマジで好――って、おいッ!?」


 大地が答えようとしている間に、椿は唐突に走り出す。


「きょ、今日は予定変更ッ! 研究はわたし一人でやるからッ! き、き、君は一人で勝手に帰ってくれッ!」


 そんなことを言い捨てながら、脱兎の如く逃げていった。


 椿の足は相当甘い目で見ても並み以下なのに対し、大地の足は陸上部から何度も勧誘を受けるほどに俊足。

 ゆえに、走って追いかければ余裕で追いつけるわけだが、


「まぁ、あの様子じゃ下手に追わない方がよさそうだな」


 その後しばらくの間、露骨に避けられたり、ようやく顔を合わせられるようになったと思ったら告白については露骨にはぐらかされたりしたが、大地は決して事を急ぐような真似はしなかった。


 反応を見る限り間違いなく脈はある。

 だから焦る必要はない。

 何せ、自分と椿の関係はこれからも続いていくのだから。

 ゆっくり、じっくり、距離を縮めていけばいい。

 そんな大地の思惑は、最悪の形で崩れることとなる。


 一年後。二人が中学二年生になったある日。

 九宝院夫妻はに遭い、亡くなった。


 そして、その二ヶ月後。


 椿は、大地の前から姿を消した。

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