第49話:兄の戸惑い②

暗闇の静けさの中、剣を振るう音が鳴る。


鳴っては静まり、また二度続けて鳴っては静まり、辺りの生き物は異変を感じて皆逃げ去ったのか、宵闇の森の中にあるのは静寂と剣の音のみだった。


縦に一振り、すぐさま横に薙ぎゆっくりと正面に構える。


踏み込んで突き。両側からの袈裟斬り。


防ぐ動作をしてからの振り上げ。そしてまた縦に戻ってくる。


剣を振るうフェイリオの前に敵はいない。これは、フェイリオが剣を握ったその日から繰り返してきた日課のようなものであり、今となっては気持ちを落ち着けるためにこなすルーティンへと昇華されていた。


揺るぎない剣筋を幾たびも振るうことで、自分の前にある迷いや悩みといった暗雲も同時に断ち切ることができるような気がするのだ。


「……どうして」


息が上がり、呼吸の回数が増えてくると、同時に内心から湧き上がってくる感情が言葉となって口から漏れ出す。


「どうして俺は……っ!」


息苦しさと胸苦しさが相まって、この場に他人がいれば、フェイリオの表情は見るに堪えない物だっただろう。それでも彼は、剣を振るうことをやめようとはしない。


今手を止めてしまえば、よりつらい感情が体を支配し身動きすらできなくなってしまうと、彼は悟っていたからである。


剣が風を切る音だけが響いていた暗闇の中に、フェイリオの荒い息遣いが混じる。実はつい先ほどから、潜むように、じりじりとフェイリオの元へ迫る何者かの足音が混じりこんでいた。


剣を振り上げたフェイリオのすぐ背後に、怪しく光る二つの目が浮かび上がった。


「フンッ!」


異常を察知したフェイリオが前に飛びのきながら、背後の何者かに向けて剣を振るった。だが彼の剣は、鉄とも木とも違う、固さとしなやかさを感じさせる感触の何かに衝突してはじかれてしまった。


「なっ!?」


思わぬ衝撃によろめきながらも、危なげなく着地したフェイリオは正面を見る。


そこにいたのは、両腕がそのまま大鎌になっている、巨大な昆虫型の魔物だった。


ゆらゆらと体を前後に揺らしながら、無機質な複眼は油断なくフェイリオの姿を数百にして映している。特徴的な大鎌には無数の棘が鋭く飛び出し、一度捉えたものは決して逃さない構造になっていることが分かった。


面倒なことになった、と思うと同時に、フェイリオはこの状況に一種の救いを感じていた。


少なくとも目の前の化け物と対峙している間は、余計なことを考えずに済む、と。


彼は巨大な化け物との戦いを、日常的に繰り返してきたルーティンの延長上として捉えていたのである。


大鎌の化け物はその場でゆらゆらと動いているだけに見せかけて、少しずつフェイリオの方へと近づいて行っていた。そうやって、射程距離に入ったとたんに一気に切り込み、獲物を捕らえるつもりなのだ。


フェイリオは当然、そんな化け物の魂胆に乗ってやるつもりなどなかった。だからと言って、力なき被捕食者がそうするように一目散に逃げ去ることを彼が選ぶはずもない。


次の瞬間、化け物の動きを待たずにフェイリオは一気に切り込んだ。


即座に反応し、フェイリオへと覆いかぶさるようにやってきた大鎌を、更にスピードを上げることでかわし、一気にその懐へと潜り込む。目の前に無防備な姿をさらしているその腹へと、思いっ切り剣を突き立てて貫こうとした。


「固い……甲殻?」


思いがけず強固な感触が返ってきて、フェイリオは眉を顰めた。遅れながらやって来た大鎌の追撃を、剣でいなしながら再び距離を取る。


フェイリオは夜目が聞く方ではあるが、この暗闇の中では化け物の外皮がどうなっているのかまでは判別がつかなかった。その見た目から、てっきり腹の辺りは柔らかい肉で囲まれていると思っていたのだが、そう一筋縄ではいかないようだ。


「クソ、どうしたら……っ」


今度は化け物の方から切り込んできた。相手は両手に鎌があるのだが、振るわれる時には常に両方同時で、かわしたり、いなしたりすることはさほど難しくはなかった。


上からやってくる鎌を、剣を横なぎにすることではじき返す。


両側から挟み込むように振るわれた時には飛んでかわす。


追撃は遅く、フェイリオは戦いながらもどう振舞えばいいのか考える余裕があった。そして、一つの結論に達する。


――目だ。


あそこなら装甲は無く、あっさりと貫けるはずだとフェイリオは思い当たった。


「ハアアアアアアッ!!」


思いつくが早いか、フェイリオは敵の大振りを飛んでかわすと、自分の姿を映す複眼の片方へと剣を振り上げた。


何の感情もなく光る化け物の目の玉からは、その心情を推し量ることなど全くできない。喜びなのか、恐怖なのか、戸惑いなのか、もしくは感情というもの自体魔物には存在しないのか。


だが、もし化け物の顔に表情という機能が備わっていたならば、間違いなくそこに浮かんでいたのは狡猾な笑みだっただろう。


剣を振り下ろす直前、フェリオの腹部を何か鋭利なものが貫いた。


「グアッ……し、尻尾!?」


傷はそこまで深くはないが、動揺は大きい。体勢を崩しながらフェイリオが見たものは、全く予想外の代物だったのである。


つい先ほどまでその存在が隠されていたかのように、全く主張がなかった尻尾の先には、針がその切っ先をフェイリオへと向けていた。


未だ空中にいるフェイリオ目掛けてすぐにまたやって来た尻尾の追撃を、何とか剣を振るって弾き飛ばすことで逃れる。


尻尾をはじいた勢いのまま地面に落ちたフェイリオに、今度は大鎌が遅いかかった。


「ぐ……っ!」


慌てて飛びのこうとするが、体の感覚が鈍くそれができない。瞬時に剣を間に挟み込むことで、鎌に捕らえられるのだけは避けることができた。


しかし剣ははじかれ、ついにフェイリオは攻撃手段を失ってしまった。更に、先ほど感じた体の鈍りは次第に強くなってきている。


このころには、フェイリオは化け物の尻尾から何か毒を貰ってしまったと悟っていた。


フェイリオは愕然とした。いつの間にか自分の状況がすっかり八方ふさがりになってしまっていることに。


――まさかこんな所で、こんな相手に……?


10年以上、剣の道に生きてきた。そこには崇高なる目的があったはずだった。


だがそれは理不尽な侵略によって失われ、何とか縋りついてでも失いたくなかった自らの矜持も、今こうして魔物一匹葬ることができない目の前の現実によって打ち砕かれようとしている。


自分の人生とは一体何だったのだろうか。自分は一体何のために今日まで生きてきたのか。


剣を失った今、やはり危惧していたような余計な思考が彼の頭の中を支配してしまっていた。


化け物の鎌が迫る。


だがフェイリオは、それを歓迎するかのように身じろぎ一つ取ることができなかった。


「フェイリオ!!」


自分の目の前に、一人の少女が滑り込んできた。暗闇の中に溶け込むような漆黒の毛並みを持つ彼女は、これまた黒く光る爪を尖らせて、化け物の大鎌を両手で抑え込んでいる。


「大丈夫か、おい!」


フェイリオは、初めて少女を見た時と同じ衝撃に頭を打ち震わされるようだった。


少女は素手である。化け物の方が体を震わして力を尽くしているというのに、少女はこちらを振り返って心配をする余裕すらあるようだった。


こんな光景在り得ない。


自分が目指した剣の極地。仮にそこに至ったとしても、このような芸当はできっこない。


なのに、どうして彼女は……。


「やはり……貴女、は……」

「フェイリオ!?」


体を鈍らせていた毒が頭の中にまで回ってしまったような、グルグルとした視界に堪えることができずに、彼は意識を手放した。

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