第11話 想い迷う


 季節は初夏に向かおうとしていた。


 二人の想い出の公園は、今日も緑鮮やかに葉をそよがせて、思い思いに過ごす人々を見守っている。


 池の周りを走る海斗、その姿は遥と出逢った頃のまま……とても記憶がないとは思えない程だ。きょろきょろと何かを探しながらスピードを緩めると、あのベンチに腰掛けて水を飲む。


 二年の時が過ぎ、何もかもが元通りに見える朝、そこに遥の姿はない。



「はるちゃん、最近、公園行かないね」

「うん、公園はもういいかな。ほら、走ってるだけも飽きちゃったしね。じゃあ、行ってきます! 」


 その遥は公園に通うのをやめた。最近は射撃場で練習をしてから、仕事に通う日々を送っている。


「はるちゃん……大丈夫かなぁ」


 これまでの寂しげな様子とはまた違う主の変化、出掛けていく遥をタマは心配そうに見守る。


「ごめんね。もう……会わないって決めたの」


 遥は家を出て車に乗り込み、流れ出した景色を眺めながら、ぽつりと呟く。その瞳は涙こそ流れていないけれど、泣いているように見える。



 バババババッ、バンッバンッ!


 そして射撃場。無数の破裂音が響き、的を破る。


 海斗、仕事、そして続いていく自分の道……考え始めたら収まりがつかなくなりそうな問題を、次々と撃ち抜く。


「遥様、おめでとうございます。2級トップ合格です。公式戦に参加出来ますがエントリーされますか? 」

「ありがとう、でもやめておきます。誰かと競おうとは思ってないの」

「でも今回の成績なら優勝間違いなしですよ」

「私は、心を整える為にやってるから」

「わかりました。遥様にとって射撃は自分との闘い、なんですね」

「そう……ですね。明日も同じ時間で予約を」


 そう言って予約を取ると、足早に射撃場を後にした。次は仕事だ。


 今日も薄暗い管理二課に入ると、本棚からメモリーの入ったケースを取り出してきて、ディスプレイの前に座る。


 動画を見始める遥……何かを考えているのか、それとも考えないようにしているのか、瞬きさえせず見入っている。


 見つめるその画面に映る講義、その中にはこれまでの時間、歴史、遥にとってここで過ごした全てが込められていた。







 そうして遥が追憶の旅路を辿っていた頃、海斗は新たな一歩を踏み出していた。


「デスクは好きに使ってくれ、場所は特に決めてないんだ。うちはフリーアドレス制でね、そうそう、出勤したら荷物はロッカーに片付けて」

「はい」


 白く開放的な空間、どこからか響く子供達の声。街外れにある小学校、やっと見つけた新しい職場は初めてだらけで緊張する。


「おぉ、葵!! ちょっとこっちに来い」

 

 校長が手招きで誰かを呼ぶ。向こうからやってきたのは、長い髪をふんわりと巻いた女性だ。


「葵、紹介するよ。今日から来てくれることになった海斗だ」

「草野海斗です、よろしくお願いします」


 頭を下げると巻き髪の女性は、ニコッと歯を見せて笑う。


「海斗ね、よろしく!! 」


 勝手に手を握り、ぶんぶんと振り回すように握手をする。元気な人だな……こんな人ばかりだったらどうしよう……その勢いだけで緊張が増す。


「しばらくは二人で行動して色々教えてもらうといい。そういえば、海斗はいくつだったか」

「26です、今年7に」

「おぉ、そうか。それならちょうど葵と同い年だな、似合いのカップルになりそうだ」

「やだ、気が早いってば、ねぇ! 」


 否定もせず豪快に笑う姿は、俺より強そうに見える。


「よしっ! さっそく校舎を案内してあげる、行こっ! 」


 どこに行くのかもわからないまま、その勢いに引っ張られるようにして、手を引かれる。離したくても強く握られて離せない。


「あー! 葵だ、誰その人? 」


 通りがかりの子供達に声を掛けられてやっと手が離れた。


「海斗っていうの、また挨拶に行くから楽しみに待ってなさい」

「は~い」


 生徒と話す葵さんは、さっきまでと違い優しく微笑んでいる。いかにも先生という感じだ。


 “草野君”


 瞬間、ハッとした。


 “かわいいですね、笹山さん”


「海斗? どうかした? 」

「すみません、ちょっと……」


 ふらつき、思わず壁に手をついてバランスを取る。見えるビジョン、見せられていると言った方がいいのかもしれない。

 

「遥……」


 浮かんだのは、あの笑顔。


 サラサラの短い髪、潤みがちな大きい瞳、控えめな微笑み……どうしてだろう、泣きたいような、心がキュッと締め付けられるような気持ちになる。


 歩いたんだ、彼女ともこんな風に。


 緊張と不安を優しく和らげてくれた。つい口からこぼれ出た名、心の奥深くにいる俺は、彼女のことを遥と呼んでいる。


 “私達、一緒に働いていたんだよ”


 きっと違う。

 

 それだけではない。俺にとって彼女は……。


「本当なんだね」

「え? 」

「記憶障害、だっけ」


 我に返ると、葵さんが俺を見ている。


「早く思い出せるといいね」

「はい……すみません」

「謝ることないよ、あ、あと敬語とか使わなくていいから、葵って呼んで」

「はい……」


 こんな会話を彼女ともしたのかな。その時、どんな表情だったんだろう。どんな……感情だったんだろうな。


 会いたい。


「左側の棟が低学年の教室で右側が高学年ね。図書室とか音楽室は職員室の上の階ね」

「はい」

「担当科目は? 」

「英語です」

「それ何? メモとってんの? 」

「はい……忘れないようにと思って……」

「ふ~ん、マメなんだね」


 校舎を歩きながら続くたわいない会話。緊張する……マメというのがどういうことかはわからないけれど、とりあえず流した。


 新しい世界には知らない事がたくさんある。

 

 今日ここに来るまでにもバスの乗り方を間違え、支払いもせずに怒られているし、初対面の人間と話してわからない言葉もたくさんあるし……うまくやっていけるのかわからない。


「ふぅ……」


 そうしたあれこれと葵という教師の勢いに少し疲れた昼前、一通りの案内を終えた俺に、校長がお茶を淹れてくれた。


「美味しいですね」

「そうか、君にもこの味がわかるか。ニルギリという茶葉を使っていてね」

「ニルギリ? 」

「あぁ、レモンティーにするならダージリンやディンブラが一般的なんだが俺はこれが好きなんだよ、現地から特別に取り寄せているんだ」

「そうなんですか……」


 なんだかよくわからないけど、美味しい。


「そうそう、少ししたらレモンは出した方がいい。苦味が出るからな」

「出すってカップからですか? 」

「あぁ、こんなふうにスプーンですくってな」


 いつもコーヒーばかりだから知らなかった。こんな飲み物があるなんて。


「あ!! また紅茶なんか飲んで! のんびりティータイムなんかしてる暇ないんですよ、とっとと仕事してよ! 」

「仕事だよ。これから色んな手続きがあるんだ」

「だったら早くやっちゃって!! 」

「お~、葵は相変わらず怖いな、じゃあ書類持ってくるからちょっと待っててくれ」


 校長に葵さん……騒がしくてまだ馴れないけれど、こんな雰囲気の中で働くのもいいかもしれない。一人の部屋で閉じこもっているよりずっとマシ……そう思う。


 遠くから聴こえる賑やかな声に、ふと窓の外を眺めた。


 ボールを蹴っては追い掛け、四角いネットに入れている。転んでもまた起き上がってボールを追い掛けて。


「熱心に眺めてるな、サッカーは好きか」

「え、あ、はい……」

「そうか! ちょうどコーチを探していた所なんだ。やってくれるか」

「コーチ……ですか? いきなりそんな」

「頼んだよ! あー、肩の荷が降りた、助かったよ」


 安心した様子の校長に断ることが出来なくて引き受けてしまった。


「サッカー……か」


 楽しそうだと思って眺めていただけ、ルールも知らなければやったこともない。もちろん、残っている記憶によれば……だけれど。


 これから忙しくなりそうだ。


「じゃあ、また明日な」

「明日からよろしくお願いします」


 帰り道、歩いていると街路樹が騒がしい。


 公園の緑を思い出す。


「遥……」


 今、どうしているだろう。まだ疲れが取れないのか、それとも……もう会いたくないと思われてしまったんだろうか。


「会いたいな……」


 ため息をついて空を見上げながら、明日も公園に寄ろうと考えていた。







「海斗……」


 遥も、その名を呼んでいた。


 大きい瞳が見つめる先には笑顔で話す海斗の姿が映っている。


「会いたかった……ずっと」


 あの頃よく着ていた服、真剣な眼差し、テーブルの隅に置かれたぶ厚いメモ。そのどれもが愛おしい、遥はそんなふうに画面の中の海斗を見つめる。


 待ち望んだ再会の時、でもそれは突然開くドアの音に遮られた。


「社長……」


 遥は画面を消し、慌てて立ち上がる。何も言わず近付いてくる社長に不気味な気配を感じる。


「あの……どうかされましたか」


 震える声で問い掛ける。答える気配はなく、表情さえも部屋の暗さに紛れて見えない。


 怯える遥に逃げ場はなかった。

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