第5話 記憶
そうして遥は海斗を忘れると決めた。自宅に帰って仮眠を取ると、タマに心配されながら着替えてまた仕事へと出掛けていく。
同じ朝、そんな遥の事など知らない海斗は、いつものリビングで父の英嗣と催眠療法に励んでいた。
「目を閉じ、心を落ち着けろ。ゆっくり深呼吸する……そうだ、吸って……吐いて」
目を閉じて、ゆっくり長く息を吸い込み、吐き出す。父さんの声に導かれていると、眠気が押し寄せてくる。
「お前は今から記憶を巡る旅に出る。荷物はない。さぁ、列車に乗り込むがいい」
列車……言われた通り駅のホームを思い浮かべる。そこに停まっているのはやけに古くて茶色い列車だ。
「列車が動き出した。ゆっくり……徐々に速度を早め、ホームの外に出ていく。窓の外にどんな景色が広がっている」
窓の外を見てみる。
「夜……だ。何もない、暗くて静かな夜」
「夜か、周りは? 誰か乗っているか」
「いや、俺一人……」
周りと言われて窓から目を離す。座席が並ぶ車内、俺の他には誰もいない。この世界はなんだろうか……俺は、なぜ子供なんだ。
「誰か入ってきた。制服を着た……車掌? 俺を見て哀れんで通り過ぎていった。もう一度、窓を見る……血!! 血だ!! 何で、血だらけなんだ! 頭が、頭が割れている! 」
「わかった、海斗。そこまでにしよう、戻ってこい! 」
指の鳴る音で戻ってきた。元の世界……いつもの薄暗いリビング、目の前にいる白衣姿の父さん。
ここは本当に……俺のいていい世界だろうか、俺は……。
「やはり、事故の時の衝撃が記憶を遮っているようだな」
ため息をつくと、父さんはキッチンに向かう。放心状態の俺……頭痛は次第に収まっていく。
「父さん……」
「今日は苦しかったな」
「俺は、その事故で本当に……助かったんだよね」
返事はなぜかない、聞こえていないのだろうか。そのうちキッチンからカップを持った父さんが戻ってきた。
「父さん……」
「海斗。確かにお前は助かった、だが、かなりの期間眠っていたのも事実。記憶がないだけでなく、幻覚や幻聴があって当然なんだ」
「幻覚や幻聴……」
「あぁ、少し催眠療法は休んで気分転換するといい。過去よりも、お前にはこれからがある」
「これから……? 」
「あぁ、仕事をしたいと言っていただろう」
珈琲を飲む手を止めて、父さんが何かを差し出す。
「お前の履歴だ。記憶が混濁していて覚えていないようだが、語学が堪能で教育の分野に関心を持っていたらしい」
「教育? 父さんの後を継ぐ気は無かったのか」
「あぁ、そうらしいな。仕事選びの参考にするといい」
「父さん、ありがとう」
「いいんだ。今日は用事があるから出掛けてくる、お前もたまには外に出てみるといい」
父さんは無表情のままだけれど、声に優しさを感じる。
「わかった、気をつけて」
「あぁ」
白衣を椅子に無造作に掛けると、父さんは出ていった。
珍しい、スーツを着た背中を見送る。
外に出てみるといい……か。確かに身体もなまっているし、たまには散歩ぐらいしてみようか。
父さんが着続けている白衣は少し臭い。洗濯に回して新しい白衣を出すと着替えて外に出た。
外に出ると、陽射しが眩しく感じた。でも慣れてくると心地良い。
家を出て、あてもなく歩き始める。どこに行ったらいいのかわからない、この街に来て確か3ヶ月だと父さんが言っていた。
“遥……遥……”
どこからか、また聴こえるあの声。間違いなく俺の声なのに、覚えのない、遥という言葉。どういう……意味だろうか。
「はるか……」
口に出してみると、なぜか口元が緩む。嬉しい……のか?
空を見たくなった。立ち止まって見上げると、水色の空に白い雲が流れている。
この間、道ですれ違ったあの人……俺を見て、驚いている様子だったな。目が大きくて、かわいい人だった。
「すみません」
「あ……ごめんなさい」
道端で立ち止まるなんて明らかに邪魔だった。不審な顔つきで通り過ぎていく人に申し訳なく思う。
どこかゆっくり出来そうな場所はないかな……探し求めて更に歩くと、小さな森のように木が生い茂るのを見つけた。
なんとなく惹かれて歩いていく。
車が何台か停まっている所を抜けると、途端に視界が開けた。木が舗装された道に沿って生えている。
木がざわめいた。
何か、言いようのない感覚が身体中を駆け巡り、動けなくなった。
なんだろうか、これは。
身体がざわついて熱い。
何か、頭が……ふらついて思わずしゃがみ込む。
“遥!! ”
いつもの声が悲痛に満ちた叫びに変わった。残像のような、景色と違う物が見える。
池……淡い色の空、それに……柱?
それに手が、温かい。
柔らかい、誰かの手が触れているような温もり。
俺はここを知っている。
そんなはずはない、でもどこからか、そんな確信が湧いてくる。
息を吸って立ち上がる。
今までどこか、この世の物ではない気がしていた、自分が何者かわからなかった。でも今なら、少しわかる。
俺は草野海斗だ。
確かにここで生きてきたはずだ。
その場所が、記憶に残るのがどこかわかる。
舗道と池を隔てる草達を掻き分け、池の前まで来ると周りの景色が一望出来た……あそこだ。
記憶と同じ茶色の柱と屋根に囲まれたあの場所……懐かしい、すごく懐かしくて、ずっと会いたかった、そんな言葉がどこからか浮かんでくる。再会、それはこんな気持ちなのかもしれないと初めて思う。
走った。
思いのまま、衝動に任せて。
走って池を半周、ぐるっと周った先にあった。階段を一歩ずつ踏みしめながら登り、真ん中にぽつんと佇む白いベンチを見つけた。
寂しそうだ。
“海斗……海斗……”
聴こえる。
とても心地良い、あの声。
座ると、余計寂しい。
なぜか右端に寄って座る自分に気付く。
ここに誰か……誰かがいたような気がする。
隣を見る、誰かがいるように。でもそこには、誰もいない。向こう側の景色が広がっているだけだ。
向きを直して池を見つめる。
知っている、確かに……でもこの3ヶ月の記憶の中にはない、記憶の破片が俺の中にある。
子供の頃の記憶だろうか……違う、もっと近い、記憶な気がする。でもそれならなぜ、父さんはこのことを教えてくれなかったんだろう。
知らない……のだろうか。
静かで、心の羽根を広げられるような心地よさに目を閉じる。
“お前を、許さない……何度作り変えられても、それだけは忘れない”
地鳴りのように脳内に響き渡る声。
これも俺だ、伝わってくる憎しみと悔しさ、無念……誰に向けた言葉か、わからない。
でもわかる、ものすごい怒り。
俺は何者かに拘束されていたのか……何故だ。瞼の裏に浮かぶ映像は暗く不鮮明で、どこかさっぱりわからない。
目を開く。
元の景色だ……薄水色の空、鮮やかに黄緑の輝きを放つ木々、そよぐ風に揺られる水面。
さっきのビジョンは何だったのか……よくわからないまま立ち上がると、ぐらつくほど猛烈な眠気に襲われた。
変なものを見たからだろうか。
興味を惹かれ、辿り着いたのどかな公園をもう少し散策しようと思っていた。でも無理そうだ。
元の道を引き返す。
今まで気づかなかったけれど、自宅は公園のすぐ裏手にあったらしい。木々が鬱蒼と生い茂り、薄暗い方へと歩いていく。
父さんに聞いてみよう。
何かわかるかもしれない、淡い期待と重い頭を抱えながら、自宅に帰った。
「父さん、俺って子供の頃……ここに住んでいたんだよね」
夕食の時間、英嗣の機嫌を見計らいながら海斗は問いかける。めったに食事をしない英嗣の数少ない好物、ハンバーグに舌鼓を打つ英嗣は、海斗の狙い通り機嫌が良かった。
「どうしたんだ、急に。何か思い出したか? 」
「ん……そういうわけじゃないんだけど、大人になってからこの街に来るのは初めてだよね? 」
「あぁ、もちろんだ。お前も覚えているだろう、ここに来る前にいたあの国で治療をし、ずっと暮らしてきたんだ」
いつもより饒舌な英嗣を少し、違和感を覚えながらも海斗は納得した素振りを見せ、それ以上は聞かなかった。
「気分転換は出来たか」
「あぁ、すぐ近くにあんな綺麗な公園があるなんて知らなかったよ」
「そうか、あそこに行ったのか」
一瞬、英嗣の目の色が変わったのを、海斗は見過ごさなかった。そして英嗣も、海斗の記憶が戻りつつあることを察知していた。
「思ったよりも早いお目覚めだったな……海斗」
以前、海斗を拘束していたあの暗い地下室で一人、英嗣はあの頃のようにほくそ笑んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます