第一章 想い出は霞む

第1話 故郷


「暗い……何も見えない……音もしない……苦しい、怖い」

「落ち着け、海斗。本当に音は聞こえないか、暑さや寒さは? 痛みはないか」

「わからない……わからないんだ、痛い、頭が割れる……うぅっ! 」


 椅子に身体を預け、もたれるように座る一人の青年。リラックスするように目を閉じていたが、やがて顔をしかめて両手で頭を抱えるとうなり始めた。


「無理だな、今日の所はここまでにしよう」


 パチン!


 青年の顔の前で指を鳴らす白衣の男。音と同時に電気がついて部屋が明るくなる。

 

「ごめんなさい、思い出せそうな気がしたのに……」

「無理することはない」


 頭痛は消えたのか、苦しげに歪んでいた表情は緩み、青年は椅子からゆっくりと立ち上がる。


「珈琲でも飲むか」

「はい、支度します」


 キッチンカウンターの奥へと消えていく青年を、白衣の男は眺めている。


「不思議なものだな。珈琲の淹れ方だけは覚えているのか」

「はい、砂糖は4つでしたね。こうして、よく作っていたような気がします」

「そうか……」


 白いマグカップを2つ持った青年は白衣の男にカップを渡すと、自分も向き合って座る。


「この街はお父さんの故郷なんですよね」

「そうだ、この家で生まれ育った。お前も10歳くらいまではここで暮らしていたが、やはり憶えていないか」

「そうなんですね……すみません、憶えていなくて」

「焦る必要はない。ゆっくり思い出していけばいい」


 親子で珈琲を飲む朝のひと時。多少のぎこちなさはあるものの、父を見る瞳には尊敬の眼差しが見てとれる。


 しばらく黙って珈琲を飲んでいた二人を、リンと跳ねるような鈴の音が遮った。


「仕事だな。海斗、催眠療法は心と身体に負担をかける。ゆっくり休むといい」

「ありがとうございます」


 立ち上がり、白衣をひるがえす背中をじっと見つめるその青年は……あの日、壊れたはずの草野海斗。そして白衣の男は、草野英嗣だ。


 ふわりとした柔らかい髪はあの頃より少し伸びたけれど、遥を熱く見つめていた瞳は相変わらずワンコのように、人懐っこい輝きを放っている。


「休めって言われてもなぁ……」


 そう呟きながらカップを洗うと、キョロキョロしながら二階へ向かう階段を見つけ、上がっていく。部屋を探しているのだろうか……またいくつかの似たような扉を開けては閉めて、最後の扉を開けると安心したように中に入っていった。







「柿田さん、どうしました」

「いやぁ、悪いねぇ、朝早くから。先生どうしてるかと思ってよぉ」


 痛そうに腰をさすりながら待っていた老人は、何かを重そうに提げている。


「早く持ってけってうちのがうるせぇんだよ。昨日から大変だったんだ、草野先生んとこの坊っちゃんにあげるんだって。何でもこないだ良くしてもらったみてえで」

「まんじゅうですか、お気遣いありがとうございます。海斗が喜びます」


 袋を受け取った英嗣は中身を確認して机に置くと、穏やかな笑みを浮かべ、老人に座るよう促した。


「先生も立派な跡継ぎがいて安泰だなぁ。格好良くて優しいって、ばあさん達が噂しとるよ」

「今は手伝ってくれていますが、跡を継ぐ気などないでしょう。それより腰が痛むようですね」


 見抜かれて気恥ずかしい様子の老人を診察台に促すと、英嗣は髪をかきあげる。


「いやぁ~、無理して草なんか刈っちまったもんだから痛めちまって。でも大したことないんだよ、先生に診てもらうほどのもんじゃあ」


 腰をさするように触診を始めた英嗣。医師としての厳しさだろうか、一瞬にして顔つきが変わる。


「いつからですか」

「えっ、あぁ、昨日の夜だったかな」

「昨晩、眠れなかったでしょう。こいつはちょっと厄介かもしれません。すぐ奥さんに連絡を」

「えっ、せ、先生……そんなに悪いのかい」

「救急ですか、こちらコード199833草野です。至急搬送お願いします」


 救急要請を済ませると、不安げな老人にただ一言告げる。


「大丈夫です。世の中には僕より名医がたくさんいます」


 不安を取り去るように微笑みかけると救急車両が到着し、あっという間に老人は運ばれていった。


「手遅れ……かもしれんな」


 見送った英嗣は感情のない声で呟くと、診察室へと戻っていく。その表情は今までのどれとも違う虚しさが、漂っている。


 人は己の運命を知らずに産まれ、そして死ぬ。最期の瞬間などあっけないもので、長く患う者もいれば、笑顔で出掛けていったのが最期……という事もある。


 部屋に戻り、冷めた珈琲を飲み干す。


 草野海斗……子供の頃から生意気でうるさくて苦手だった。関わらぬよう遠ざけていたのに、朝のあの時間だけはいつも珈琲を作って持ってきた。


 あの女の考えそうなこと……魂胆など分かってはいたが、その時間だけは居てやってもいいと受け入れていた。


 二人になってからも変わらない日課。ずっと、こいつが大人になり出ていくまで続く……そう諦めていた暑い、夏の朝。


 海斗は死んだ。


 あの老人も、それと同じ。


 どんなに時代が進んでも、治療法が増えても人は死ぬ。


「運命……だな」


 知ったような素振りで呟く英嗣も、人生という物語に於いては己の運命を知らぬ、ただ一人の人間に過ぎない。


 恐らく、そんな事にも気付いていないのだろうけれど。







 そして、またある朝。


 リビングで珈琲を飲む英嗣と海斗。今日は、呼び出しに邪魔されることもない。


 時折、海斗が気遣うような視線を送るけれど、英嗣は気にする素振りもない。


 “草野医院に行くと死ぬ”


 妙な噂は近所を駆け巡り、草野医院に近寄る者はいなくなった。あんなにもてはやされていた海斗にも、もう誰も声を掛けなくなった。


 父さんは何もしていない。


 そう信じて疑わない海斗。もちろん、今回は何もしていない。それどころか医師として腰痛からまれにしか起こらない重病を察知し、早急に対処した。


 英嗣の対応は正しかった。


 それなのに、主の急死を受け入れられなかった老人の家族はその怒りを、英嗣に向けた。


「えぇ、まずは500……いや1000だ。先日の話、お受けしましょう」


 誰もいない草野医院、診察室で何やら聞こえる声。英嗣の口端がまた不気味に上がる。


 誰と話しているのか、その企みはわからない。けれど、とにかく英嗣と海斗が揃ってこの街に戻ってきている事だけは……確かだ。


 今度は何をするつもりだろうか。


 海斗は、遥やこの街で起きた事を本当に全て忘れてしまったのか。


「仕事……探さなきゃな」


 ベッドに横たわり呟く海斗の様子からは、遥を探そうとする様子もない。


 “何度作り変えられても、英嗣にされた事だけは決して忘れない”


 強い心で遥を愛し、父親の英嗣に立ち向かった草野海斗はもうどこにも……いないのかもしれない。

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