第40話 海斗の危機


 静かな朝だった。


 灰色のぶ厚い雲が街を覆う、重い朝でもあった。北からの風が強く吹きつけ人々を凍えさせる。


 遥達の元に、冬がやってきた。



 その日、遥と海斗は自室にいた。海斗はいつも通りの休日、父親に珈琲を淹れて朝食をとり、戻ってきたところだ。


 一方の遥は起きてから朝食もとらず机に向かい、一心不乱に勉強していた。仕事に励んでいた頃のどこか厳しさの宿る瞳、仕事を失くし相棒を失い茫然自失ぼうぜんじしつの日々。息ができないような寂しさを抱えながらも、周囲に助けられ進むべき道を見出そうとしている。


 風の音で窓が揺れる。


 二人は顔を上げた。


 同じように窓の先を見つめ、側にいない愛しい人を想う。


「遥……」

「海斗……」


 呼び合う声は届かないけれど、通じ合うように重なり合う。


『何……してるのかな』


 長く、頼りなく……心の底から求めているのに素直になれないできた日々は終わろうとしていた。どちらも優しい微笑みを浮かべ、端末を手に取る。


「あれ……」


 海斗は何かに気づき、端末を置く。


「煙……? 」


 二人の愛は煙に巻かれ、燃え盛る炎に遮られる。想いを伝え合うはずの通話はこの日、実現しなかった。


 ドアを開けた海斗は絶句する。そこに広がっていた景色は今までに見たことのない物。


 轟々と沸き上がるドス黒い煙、壁や天井を這って燃え上がる炎、鼻と喉を焼く熱風と強烈な刺激臭。それは容赦なく部屋に入ってきて呆然とする海斗に襲いかかる。


 海斗は慌てて部屋を出た。


 走り出すも既に周囲は火に覆われ、二階の一番隅で一人取り残されてしまった。


「くそっ……」


 暴れ狂う炎に巻かれながら懸命に進む。身をかがめ、腕で口元を塞ぎ、時折落ちてくる火の粉を払い……やっとの思いで辿り着いた階段は黒く焦げ火に負け、海斗の体重に耐えられそうもなかった。


 それでも海斗は覚悟を決めたように一呼吸置いて歩き出す。煙る視界、必死に目を凝らしながら燃え残っている所を選んで一歩、足を下ろす。


 燃え盛る炎の中、海斗は慎重かつ正確だった。しかし荒ぶる炎の勢いには勝てない。


 バキバキと激しい音と共に木が割れ裂けて、階段は脆く崩れ落ちていく。


 あと数歩……海斗が一歩足を下ろした時、そこに稲妻のような亀裂が入った。


 大量の燃えカスや炎の塊と化した木材と共に、海斗はバランスを崩し、落ちていく。







「忙しいのかな……」


 ため息と共に呟く遥。


「日曜日会えるんだから……我慢しなきゃね、タマ」


 まだタマに話しかける癖は直らない。静かなままの部屋を眺めてまたため息をつく。



「緊急情報、緊急情報。ただいま、大通公園付近で火災発生。有害物質発生の恐れあり、不要不急の外出は直ちに中止し、続報に注意してください。尚、窓を開けている方は閉め……」


 突然、街に異様な音が鳴り響き、遥の表情に緊張が走る。


 公園より風下にある遥の自宅では、草野医院の火災が影響して有毒ガス発生の恐れがあった。


「火事だって」


 心細くなった遥は家族の元へ。


「有毒ガス発生なんて怖いわね。和樹、仕事休めそう? 」

「夜勤に変えてもらった、親父達は? 」

「仕方ない、母さんに言って予定を変えてもらおう」

「そうね……」

「よかった、家にいられるんだね」


 家族が揃い、安堵の表情を浮かべる遥はまさか、草野医院が燃えているなど知る由もない。


「よし、久しぶりに映画でも見るか」

「そうね、せっかくみんな揃っているんだから栗生くりゅう君の新作見ましょ」

「俺はホーリーギャラクシアのがいい」

「まぁまぁ、ここはへっぽこお気楽出世街道でいいじゃないか」


 好みの違う家族のやり取りを嬉しそうに聞いている遥。本当は寂しがりなのに悲しむ姿を見せたくなくて、こもっていた彼女はまた一つ、日常を取り戻した。


「遥はお父さんの趣味わかってくれるよな」

栗生くりゅう君よね」

「ホーリーギャラクシア……テーマソングAyaだぞ」


 家族の視線が遥に集まる。


「全部観ればいいでしょ、時間はいくらでもあるんだし」

「よし! ポップコーン食べながら全部観るぞ! 」

「ピザもな」


 思いがけなく訪れた団らんの時間に、遥の表情は和らぐ。次の約束を心待ちにしながらリビングに溶け込んだ。







 有毒な黒煙と何色もの炎を出しながら燃え続けた草野医院は、駆けつけた消防によって消火されようとしていた。未だ燃え続ける内部、隊員達が入ろうにも入り込めない。


 そこに海斗は埋もれていた。


 火の付いた木屑が海斗の腕に落ちる。


 遥に選んでもらった思い出のカーディガンが焦げ、火が上がる。


「成功……だな」


 地を踏む足音、笑う声。


 燃える腕、動かない海斗を助けもせずその足音はどこかに消え去った。



 “地区にお住まいの皆様にご連絡します。先程の火災は無事に鎮火し、大気浄化も終了致しました。このあと雨が上がりましたら窓を開け室内の換気をお願いします。尚、外出は16時から……”



 映画鑑賞にも疲れが見え始めた笹山家に朗報が聞こえたのは、昼過ぎの事だった。


「よかった、もう大丈夫だね」

「間に合ったな」


 立ち上がる和樹。


「あら、夜勤じゃないの? 」

「たまにはサボりも必要だぞ、和樹」

「それを言うなら息抜きだろ」


 引き留める両親を一蹴し、彼はリビングを出て行った。


「まったく、付き合いの悪い息子だ。あれは嫌われるな」

「わかんないわよ、仕事かどうかなんて。夜勤とか言って女の子の所かも」

「兄貴に彼女? それはないでしょ」

「まぁ、いいか。次は遥の番だ。何が見たい? 」

「私? じゃあ……」


 このあと笹山家の映画鑑賞は夜遅くまで続いた。好みの映画を観ては感想を話し笑い合う……時に嫌がりながらも付き合う子供達も、それが自身の心の平穏に繋がる事をよく知っている。


 仕事に向かう和樹。


 宇宙に行きたい夢は叶わず、国の研究機関に勤める現実が時に苦しく悩んでいた。


 両親と笑い合う遥。


 拭いきれない罪悪感と自己嫌悪。家族や友人への気持ちを超える愛を、見つけてしまった。でもまだ心の何処かで、その両方を得られる方法を期待している。


 海斗がアンドロイドではない事を。


 “本日、正午頃、大通公園前の草野医院が火災により焼失するという事故がありました。焼け跡からは身元不明の焼死体が発見され、この家に住む草野海斗さんと連絡が取れなくなっている事から警察は、焼死体の身元が草野海斗さんであると見て捜査をしています”


 その日の夕方、地域のニュースとして小さく取り上げられたその情報を、遥が聞いていたとしたら、どんな反応をしただろうか。


 海斗の勤める学校でも流れたそのニュースは、関係者を動揺させ、みなこぞって海斗に連絡した。


「繋がったか!! 」

「ううん……繋がらない」


 焦る校長は顔面蒼白、葵も憔悴してしまい、いつもの勢いはどこにもない。でもその視線は注意深く、ある人物の異様な行動に気づいている。


「クソッ!! 」


 誰もいない教室、物陰に隠れて端末を投げつける田原の表情は怒りに満ちている。


 見てしまった葵。


 田原と連絡が取れない相手は海斗じゃない。関係を持ってしまったからこそわかるこの男の表と裏。


「誰に、連絡してるの」


 立ち向かう姿、その手はお腹の辺りをさすっているようにも見える。


 声に気づき、振り向く男は繕う様子もなく葵に歩み寄った。


「知りたいか、俺と……海斗が何者か。素直に従うなら教えてやる。親父と学校を守りたければ、俺に逆らわない事だ」


 愛されている、少しでもそんな期待をした自分を恥じながらも、自分を利用する男を葵は抱きしめた。


「誠也の……言う通りにする。何すればいいの」


 初めて、葵は田原の頬に自ら口づけをする。


「海斗が来たら茶を出してもてなせ」


 雑に葵を引き剥がす田原は、顔を背け命令する。


「海斗は死んだって……」

「あいつは化け物だ、死ぬはずなんてないんだよ」


 思わず鳥肌が立つほど不気味な笑い。


「わかった、お茶を出せばいいのね。応接室に通すわ、それでいつ来るの? 」

「さあな……それはあいつ次第だ」

「そう、そろそろ戻るわ。見つかったらまずいでしょ」


 歩き出す葵、その背中に田原は声を被せる。


「何企んでる。やけに従順だ……どうせ、裏切るつもりだろう」


 またお腹をさする葵、頬には一筋の涙。


「そうね、企んでる。そして激しく……後悔もしてる。でも必要なの、あんたが」


 振り返った葵は不気味なこの男をせめて自分だけは理解しようと、穏やかに語りかける。


「言う通りにするから、全部終わったら過去の事は忘れてほしい。私と結婚して、この子の……お父さんになってほしいの」


 俯く田原が何を思うかは、まだわからない。


 海斗と遥、そして関わってしまった葵や田原はこの先どうなっていくのだろう。


 海斗は本当に生きているのか。


 それはまだ、誰にもわからない。

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