変態女子中学生 色欲の部屋

豚肉丸

赤羽葵の場合

プロローグ


 目が覚めた時、私が片想いしている幼馴染の彼女が横で寝ていたらいいのにな、と考えることは何度もあった。もし私の隣で彼女が寝ていたら。私の横で、寝息を立てながらぐっすりと眠っていたら。だが、もちろんその願いは叶うわけがない。この願いが叶うことがあるなら、きっと私の想いが彼女に通じた後。でも、私にそんな度胸は無い。彼女に告白する勇気など、私にあるはずがない。

 だから私は、その願いを胸の奥底に仕舞いこんで、忘れようとしていた。私のこの馬鹿で叶うはずもない願いなんて、忘れ去ってしまえばいいと。

 そう決断したのは数日前。

 そして、決断したのに彼女への想いを一向に忘れ去ることができず自分自身が嫌いになり始め、心を落ち着けるために一旦寝たのが数時間前。

 そして現在。目が覚めると、私の横にはぐっすりと寝ている寝息を立てながら寝ている彼女の姿があった。


第一章


 なんでここに、と叫びたくなる気持ちをなんとか抑え、ベッドから立ち上がる。もしかしたらまだ私は夢から完全に覚めていないのかもしれない。だから目を覚ますために洗面所に向かおう。そう考えながら寝室のドアを開けた時、私はようやく異変に気がついた。

「これ…自分の家じゃない……」

 家具の配置も、部屋の内装も、何から何まで全部変わっていた。私が寝ている間に突然引っ越しした、というわけでもない。常識的に考えれば当たり前の話だが、そもそも現在の状況自体が常識の範疇を逸脱している。

 怖くなりすぐにドアを閉めた。

「えっと……どうしてこんなことに?」

 一旦頭を整理してみる。まず、私が寝ていた横で彼女がぐっすりと眠っていた。そしてその間に、部屋も何もかも変わっていた。

 深呼吸する。息を吐く。

「よし、大丈夫。今の私には何もかも受け入れられる」

 自分にそう言い聞かし、再度ドアを開けた。

 ドアの先はリビングルームが広がっていた。ソファに、大きなテレビに、その周りにはゲーム機やDVDなど……少なくとも、退屈はしなさそうな部屋だった。リビングルームの隣にはキッチンがあり、そこには大量に食料が保管されていた。しかも親切に調理器具や化学調味料まで、料理をするために必要な基本セットは揃っているようであった。

 他の部屋にはシャワールームや洗濯機が置いている部屋も。そして、外に出るためのドアもリビングの奥に付けられていた。ドアを見つけた瞬間には、ドアノブを回していた。

 もちろん、そう簡単に開くわけがなかった。ドアノブを回しても、強くノックしても開く気配は何一つなかった。

「やっぱり……そりゃあ、簡単に出られるわけがないよなと感づいてはいたけど……」

 この部屋から私は出ることはできない。ドアノブを回す前から分かっていたことなのに、いざドアが開かないことが分かると、なかなか心に来る。もしかしたらすんなりとドアが開いてくれるかもしれない、と心の中には希望が残っていた。確率はゼロに近いが、ドアが開いている確率というのもゼロではない……

 そんな希望が、一瞬にして打ち砕かれた。

「一体私はどうしたら……」

 ここから一生出られないとしたら……と考えると、背筋が凍る。彼女と一緒に過ごすというのも悪くはないが、それはあくまでも付き合ってから……私たちの想いが通じ合ったあと、マンションを借りるっていう流れで、決してここがどこなのか、何故ここに閉じ込められているのかがわからない状況の中で一緒に暮らしたいという訳ではない。

 「そっ……そうだ!テレビをつけたら私たちのことをニュースで取り上げているかもしれない!」

 ついでに今の時間もわかるし、一石二鳥だ。早速テレビをつけるため、机の上に置いてあるリモコンを取ろうとしたその時。

「おっ?」

 リモコンの下に、小さな紙が挟まっていた。テレビは後回して、まずはこの紙から読まないといけない。

 紙曰く「この部屋から出るには、閉じ込められた相手とセックスをしなければならない」と。書いてあることはそれだけだった。およそメモ帳程度の大きさの紙の中央にちょびっと文字を書いているだけの、何とも味気ないものだった。せめて、もうちょっと説明はしてほしかったなぁと、書いた人に不満をぶつける。

「いや、ちょっと待って……セックス?」

 ふと我に帰る。紙には当たり前のように書かれている文字が、頭の中で引っかかった。

 セックスとはつまり、性行為のこと。まあ、人間が快楽を求めて……または、子孫を残すために行う行動のこと。そして、その行動をしない限りはこの部屋から出られないと、この紙には書いてある。

「セックス…セックスかぁ…」

 恋愛感情の行き着く果ては、セックスだと私は考えている。例えそれが小学生同士の恋愛だとしても、はたまた女の子同士の恋愛だとしても、結局はセックスに行き着くんじゃないか、と考えている。そして、私は今もまだぐっすりと寝ている彼女に恋をしている。それが友情的な気持ちではなくて恋愛的感情なのは確かである。つまり私は、彼女とセックスをしたいと考えている。それが数年後でも、数十年後でもいいから、セックスがしたい。快楽なんかよりも、ただ彼女と繋がりたい……と、私はずっと考えていた。

 そして今日、それが現実となって現れた。私が望んでいた形よりかも遥か斜め上の方向を行ったが、現実になった。

「でもそれは…彼女が望んでいることなの?」

 合意の無いセックス。私はそれを望んでいない。ただただ自分のためのセックスなんて、私は大嫌いだ。もしセックスをするとしても、それは私の想いが彼女に通じてから。それまでは必死に我慢するしかない。彼女に嫌われるのだけは、絶対に避けたいから。

「まっ、今はまだいいや。それよりテレビをつけなきゃ……」

 先ほど紙を取るためにどかしていたリモコンを手に取って、電源ボタンを押した。私の前に設置されている大きなテレビスクリーンに映像が流れ始めた。しかも幸運なことにニュース番組が流れていた。左上には朝の八時と表示されている。

「…殺害した容疑で、警察は今朝、無職で二十八歳の山﨑裕也容疑者を逮捕しました」

 その後もしばらく見続けていたが、特にこれと言って女子中学生が行方不明になった、というニュースは流れる気配もなかった。

 別のチャンネルに変えると、見たことのあるアニメが放送されていた。主人公がロボットに乗って戦うアニメ。このアニメは大好きで、未だに覚えている。にしても一体、どうしてこの朝の時間帯に……

 なんてことを考えながらテレビの画面をじっと見ていると、突然隣の部屋から大きな叫び声が響いてきた。慌てて寝室に駆けつけると、彼女は布団にくるまりながら泣いていた。

「 近づかないで!早く私をこっから出して!」

 彼女に近づくと、目も合わせずにそう叫んだ。

「落ち着いて…大丈夫だよ愛華」

 私がそう言うと、愛華は叫ぶのをやめた。そっと布団から顔を出して、私を見た。

「あ…葵……?」

 私が片想いをしている相手であり、さらにはこれからセックスをしないといけなくなるその相手は、私の姿を見ると安心したかのように泣き始めてしまった。寝室には、彼女の泣き声だけが響いていた。


第二章


 しばらくして愛華の精神も落ち着いてきた頃、私は現在私たちが陥っている状況について語った。食料もあってテレビやゲーム機も設置されているので生活には困らなさそうだ、とかドアはリビングの奥に設置されているけど、今のところは開く気配もないとか。でも、あえてこの部屋から出る方法については伏せたままにしておいた。私にはまだ言い出す勇気が無かったから仕方ない。逆に、幼馴染で片想いしている相手に向かって部屋から出る条件を悩まずに言い出せる人がいるなら、私はその人を一生尊敬する。

「なるほど…つまり、私たちはここに突じ込められたと……」

「簡単に言えばそういうこと」

 私たちはこの部屋に閉じ込められている。しかし、私はこの部屋から出るための鍵を握っていると言っても過言ではない。

「どうやったらここから出られるんだろうね」

 彼女は外へと繋がっているドアを見つめながら、言葉をこぼした。

「さあ、知らない」

 鍵を握っている私は、何にも知らないふりをしながら返事をした。人を騙すのは、非常に気分が悪い。特に、部屋に閉じ込められたとなれば尚更悪くなる。現在起きている事態はそんな冗談で済まされるレベルではないのに。

「にしてもあのドア、異彩な雰囲気を放っているよね」

 そのドアは鉄製で、リビングの雰囲気には一切あっていない。普通の壁に突然ドアが付けられた、と表せられるくらいの異質さを放っている。

そのドアを見つめていると、何かを試してみたい衝動に駆られた。まだ出られないと決まったわけではない。もしかしたら出られるんじゃないか。

 ソファから立ち上がると、一直線にドアまで向かう。

「えっ、なになに、いきなりどうしたの?」

「いや、ちょっと試してみたいことがあって」

 ドアの前に着くと、足を振りかざして思いきしドアを蹴ってみた。硬い鉄を勢いよく蹴った衝撃は直接足に伝わり、その衝撃は一瞬で痛覚へと変身した。

 言葉にならない痛みが、私の足の中で爆発している。床に転がり、必死につま先を手で覆う、が、それはなんの意味も成さず、ただただ痛みは増していくばかりであった。

 痛みに耐えきれずに大声で叫んだ私の姿を見ると、彼女は私の方まで慌てて来た。

「ちょっ、何してんの…大丈夫?」

 ちょっと呆れながらも心配そうな顔で、私を見つめている。

「痛いけど大丈夫だよ……ただ、私が馬鹿みたいな行動をしただけだから」

 そう返そうと思ったが、喉から言葉が出なかった。なんだか意識が遠くなっていき、視界がぼやけ始める。彼女の顔も次第にぼやけ、誰なのか判断がつかなくなってくる。


「あっ」

 意識がはっきりとした頃にはもう手遅れであった。愛華の姿は見えず、さっきまで私がいたはずの部屋のも見えなかった。真っ暗だ。真っ暗闇が永遠と続いている世界だ。

「てことは私…出られたの?」

  ここが部屋の中ではないとすれば、私は部屋から出られたことになる。でも、もし部屋から出られたのだとしても、そこまでの記憶が一切無いのは気にかかる。そして、ここはどこなのかということも。

 死後の世界、という言葉が頭の中に浮かんだ。人は死んだら天国か地獄かに行くと言い伝えられている。悪い行いをした人間は地獄、善い行いをした人間は天国、と決められている。でも、死後の世界を考える度に「本当は天国も地獄も存在しないんじゃないのか」という考えが浮かび上がってくる。だとすると、死んだら何が待っているのか。そこに待っているのは虚無。色も音も文字も存在も意識も時間も何もかもが消え失せて、そこには虚無が広がっている。

 だとすると一体ここは何なのか?

 黒色という色はあるし、私という意識もある。私が思い描いていた死後の世界とは似ているようで全然違う。でも、現実でないことだけは確かだ。

「あの子はね、一人が好きなんだよ」

 声が聞こえた。若いお姉さんのような声が右耳からも左耳からも、はっきりと聞こえた。

「だから葵ちゃんは、気にしなくてもいいからね」

 またもや、同じ女性が発している声が聞こえた。

 そして、暗闇の中に一人の女の子がぽつんと現れた。見たところ三歳ぐらいだろうか。頭には黄色い帽子を被り、胸には拙いひらがなで頑張って書いた『あおい』の文字が。そっか、これは私の姿なんだ。私が保育園に通っていた頃だ。

 幼少期の私は静かに歩き始めた。暗闇の中を真っ直ぐに。途中、声だけの存在に呼び止められて立ち止まった。

「あのね、愛華ちゃんは一人でいることが好きらしいのよ……だから、葵ちゃんはみんなと砂遊びでもしてきなさい」

 先ほど私が聞いた声と全く同じ声であった。

 少女の向かおうとしている先には、一人で絵本を読んでいる少女の姿があった。胸には『あいか』と書かれている。声はまるでその少女の元へ向かうのを止めさせるために、必死に『あおい』を呼び止めている。けれどその声は少女の耳には入っておらず、少女は真っ直ぐ『あいか』を目指して歩いている。

「もう勝手にしなさい!」

 声は私に怒ると、ふっと消えてしまった。以降、声が現れることは無くなった。『あおい』の勝手な行動に怒ってしまったのだろうか。声からしたら、何か触れられたくない秘密でも存在するのだろうか。

「わたしはあおいっていうの。きみは?」

 彼女の元にたどり着くと、私は早速頼まれてもいないのに自己紹介をしていた。自己紹介が終わると、彼女に手を差し出していた。きっと、彼女も握手をしてくれるはず、と言わんばかりの元気に輝いている目は、在りし日の私を思い出させるには十分であった。今の私とは全く違う、あの頃の純粋な目。十年以上も経って、私は大きく変わってしまった。目の前の少女が私なんだと理解できないくらいに変化した。でも確かに目の前の少女は私自身で、私の身体も少女に身体もどちらも一緒なんだ。

「ね、いっしょにともだちになろ?」

 いつまで経っても私の手を握り返さない彼女に、私は続けて言葉を吐いた。何故愛華と友達になろうとしていたのかは今となってはわからない。でも三歳の子供の考えなんて、理解できなくても当然だろう。

 なんてことを考えながら私の姿を見ていると突然、愛華が泣き叫んだ。悲鳴にも似たその叫び声は、私の耳を壊し……彼女がどんな人物なのかを理解させるには十分であった。彼女は私の手を勢いよく振り払うと、叫びながら闇の向こうへと駆け出してしまった。次第に彼女の姿は暗闇と同化し泣き声も遠くなっていき、この空間には理解できず呆然としている私の姿だけが取り残されていた。


 目を開けると心配しているようにじっと私を見ている愛華の顔が目に入った。私の目が覚めたのを見ると安心したのか泣き出してしまった。彼女の涙が私の顔へと落下し、私の顔の皮膚へと染み込んでいく。

 後頭部には柔らかい感触を感じた。それもそのはず、彼女はずっと膝枕をしていたのだ。彼女の柔らかい太ももの肉が、私の後頭部を優しく受け止めてくれる。

「良かった……目が覚めたんだね」

 蹴った時に生じた痛みからなのか、はたまた何か別な理由なのかわからないが、私は気を失っていたらしい。さっきまで見ていた死後の世界のような空間も、ただの夢だったのだろうか。

「もう、ただ足をぶつけただけだから大丈夫なのに」

 彼女を安心させるため、身を起こし立ち上がる。彼女の太ももの感触が味わえなくなったが、いつまでも愛華に膝枕をしてもらうのは愛華にとって大変そうにに思ったから……そして、いち早くこの部屋から出るためには仕方なかった。

 残念に思う自分の気持ちに蓋をすると気持ちを切り替えて、この部屋から出るための方法を再び探し始める。私はとっくに部屋から出るための方法を知っていて、心の中では出るための方法は私の知っている一つしかないんじゃ無いかと薄々察してはいるが、それでも探す。言わばこの時間は、私の心を落ち着けて、心の準備をする為だけの時間だ。部屋を探るというアリバイを作り、私の心を落ち着ける、そのための時間。

「ねえねえ葵、ちょっと来て」

 しばらくすると、ドアの前でうずくまって何かをしている彼女から呼ばれた。慌てて彼女の元へ向かうと、彼女はドアに耳を当てて何かを聞いていた。

「あのさ、ドアの向こう側に何があるのか知りたかったから耳を当てて聞いていたんだけどさ……女性の話し声が聞こえたよ。何かを必死で叫んでいる女性の声が」

 さっき見ていた夢の内容が頭によぎった。幼少期の私が愛華に話しかけようとした時、女性の声が私を引き止めたこと。それでも前に進むと、叫んでどっかに消えてしまったことを。もしかするとこの夢とドアの向こうは繋がっているのかもしれない。

 ……だとすると、ドアの向こうには一体なにが広がっているのか? 夢と同じような真っ暗な世界が?

 いいや、そんな訳がない。真っ暗な世界が広がっているわけがない。ここは現実の世界で、ドアの向こうにはきっと外の世界が、見慣れた光景が待っているはずだ。

「ちょっとどいて、私も聞いてみたい」

 ドアに近づいて、右耳を冷たい鉄に当てる。が、女性の声も何も聞こえることはなく、耳に入ってくる音といえばせいぜい愛華の息ぐらい。

「愛華、何も聞こえないんだけど」

「諦めるの早すぎない? もうちょっと自分の意識を集中したらきっと聞こえると思うんだけど……」

 目を閉じて意識をドアの先の一点に集中させる。その先に広がっている光景を頭の中で思い浮かべながら、そして話をしている人物も想像しながら。

「……精神的な病気ということですか?」

「はい、そうで……空想の世界に囚われて……」

「……科に行けと?」

「それが最……」

 最初に聞こえてきたのは事前に言われていた通り、女性の声であった。しかし女性と話をしている相手は、随分歳の入った男性の声に聞こえた。愛華は確か女性だと言っていたはず。男性の声が聞こえるなんて一言も言っていない。

 また、部分部分しか聞き取れなかったが、話している内容もどこかおかしかった。私が愛華の話を聞いた時に思い浮かべた光景は保育園の中。けれど話を聞いているうちに光景は自然と病院の中へと変化していった。きっと私は何にもわからずに座っていて、その横で私のお母さんが医者を話している。医者が座っている椅子の横には机が置いてあって、机にはモニターが数個載っている。そのモニターにはどれも脳の画像や脳をX線で透析したかのような画像が表示されている。部屋の中には鼻をつんと刺激するな薬の匂いが漂っている。

 ありもしないはずなのに、情景が細かく鮮明に脳の中に記録されていく。私は怖くなって、慌ててドアから耳を離した。声を聞いただけなのに、何故か私の頭の中にはしっかりとした空間が出来上がっていた。不思議だ。本当に不思議。

「ちょっと、愛華ちゃんが言ってたことと違うんだけど」

 事前に伝えられていた情報とは全く違ったことに不満を垂らす。叫んでいる女の子の声は全く聞こえなかった。けど、何らかの話し声が聞こえたことだけは確かだ。

「えっ、うそっ。私はしっかりと聞いたんだけどなぁ」

 反論するように、愛華は言葉を返した。

「愛華ちゃんが言っていた通り声は聞こえたよ。ただ、愛華が話していたみたいな少女の叫び声は全く聞こえなかった」

「代わりに何が聞こえたの?」

「何だろう……おじさんの声とと女性の声がしたけど、内容についてはあんまり聞き取れなかったよ…」

「そっか、葵の場合はおじさんと女性の会話ね」

 一体それが何を意味しているのか、私にはわからなかった。ミステリー小説を読んだことがなければ、ほんのちょっとした小さな事件を天才的な発想と推理によって解決に至らせたこともない。だから、そういうように頭を使うのは……苦手だ。

「もし私が聞いた声も葵ちゃんが聞いた声も、全部本当だと仮定したら……例えばドアの向こうはマンションやホテルの廊下だと考えると納得はできるよね。私が聞いた少女の叫び声は、少女にとって悲しいことが起きて人の目も気にせず廊下で取り乱していると考えられるし、葵ちゃんが聞いた話し声は、きっとなんらかの話題で盛り上がっている父と娘かもしれないし…はたまた、歳の差カップルかもしれない……そういえばさ、葵ちゃんは会話の内容について覚えてたりする?」

「あんまり聞き取れなかったけど部分部分はまあちょっとだけ……二人はどうやら、精神の病気について話し合っていたはずだよ」

「精神関係の話か…それじゃあさっきの私の考えは無理ある考えになっちゃったね……廊下でおじさんと女性がそんな難しい話をする訳がないし」

 彼女が予想していた推理はあっという間に検討外れなものだと証明されてしまった。そして彼女はうーん、と頭を悩ませると、何かを閃いたようにパッと頭を上げた。

「そっか。そもそも、ここがマンションかホテルかと予想していたことが間違いだった。だって、この部屋には何一つ、外に繋がる窓が無いもの」


第三章


 トントントン、と部屋の中に無機質に刻まれた音が鳴る。その音に合わせて、キャベツが辺りにくずをおとしながら、小さく刻まれていく。円型だった物体はいつの間にか千切りになってまな板の上に積み重なっていた。もちろん私が切ったわけではない。私は料理に関しては何にもできないのだ。私ではなく、愛華がキャベツを切ってくれている。

 テレビの左上に表示されている時刻は、午後八時。もしその時刻が正確な情報であれば、すっかり夜を迎えている。この部屋から外の状況は何もかも一切遮断されているので、テレビでは午後八時と表示されているだけで外は真っ昼間……なんてことがあるかもしれない。疑い始めたらキリがないが。

 事態は全く解決の見通しが立たず、時間は過ぎて気がつけばお腹が減っていた。お腹が減っては戦もできぬ、という訳で私たちはこうして料理を作っている。幸いにも、この部屋には基本的な食材と調理器具、そして調味料はしっかりと揃っている。餓死はしないし、何なら料理の腕前次第ではいつもは食べることができないような料理を作ることもできそうだ。料理ができる、という部分が欠如している人間には厳しい空間だが。

 だから私たちは分担して料理を進めることにした。愛華は野菜や肉を切ったり、味をつけたりなど、一人で様々な仕事をする。対して私はフライパンに入った野菜や肉を良い加減で止めたり、炒めている間にかき混ぜたりする、地味な作業。料理ができないから仕方ない。

「そういえば愛華は何を作ってるの?」

 フライパンに入っている食材に眼を向けながら尋ねる。まだ焦茶色にはなっていない。

「うーんとね、肉野菜炒めかな?」

「ふーん、肉野菜炒めね」

 とは言っても、あまりピンとは来なかった。でも完成形を想像することはできた。だって、文字通り肉野菜炒めなんだから。

「えっとキャベツは切ったし肉はもう投入してるし……もう私の仕事は終わったかな。あとはレンジでご飯を温めるぐらいか」

 そろそろ茶色になってきそうだな、というその時。彼女はそう呟くと台所を離れ、鼻歌を鳴らしながら呑気に白米を漁った。彼女が歌っている曲は最近流行りの恋愛ソングだろうか……なんて考えながらフライパンを見ていると、突然後ろの方で大声が上がった。一瞬、心臓が飛び上がった。

「こっ、これ……」

 その声は愛華のものであった。どうしたのだろう、と気になって振り向くと、彼女は真剣な表情でこう呟いた。

「白米が無い……」

 真剣な表情と、緊張した空気の中発せられた言葉は、私がお腹を抱えて笑うのには十分であった。


 机の上には大皿に載せられた肉野菜炒め。それ以外におかずも米も何にも無い。

 私と向かい合って座っている彼女は、不機嫌な顔をしながら、じっと大皿を見つめている。

「肉野菜炒めには米って決まっているようなもんなのに……」

 どこか寂しい机の上の様子を見た彼女は、ぽつりと言葉を洩らした。その言葉は多分、何故か米を置いていなかったことへの怒りと、米が無くてショックを受けている彼女を見て笑った私への怒りが込められているんだろう。料理をしている最中は思わなかったが、確かにこうしてみるとどこか寂しい。彼女が言っていたことには一理あったのかもしれない。

「その…なんかごめんね。私、料理をしたことが無くてあんまり詳しくなかったもんだから…てっきり、米はそんなに重要なものなのか、と思っちゃって……」

「葵がわかってくれたなら大丈夫だよ。ただ私は、この部屋に閉じ込めた人に対して怒っているだけだから」

 そう言うと愛華は置かれていた箸を手に取り、手を合わせた。

「いただきます」

 私もその後に続き、食材への感謝の言葉を口に出す。私たちに食べられるためだけに犠牲となった豚さんと野菜さんに感謝をする。そして、箸で肉を摘み口に運ぶ。

「ふむふむ、結構美味しいじゃん」

 美味しさの違いなんかは美食家でも無いのでわかるはずがないが、しっかりと食べられてしかも味わい深く、脳が直感的に「美味しい」と判断するような味であった。そして、食べたあとは猛烈に米が食べたくなる味でもあった。



 夜。暗闇と静寂がこの部屋を包み込む時間。もう遅いから寝て明日また考えよう、と言うことでベッドの中に入っている。ベッドは一つしかないから、横には愛華が寝息を立てながら気持ちよさそうに眠りの世界へと入っている。対して私は、愛華が隣で寝ているということで、緊張や興奮などの感情が荒ぶって全く眠りの世界に入れずにいる。多分、ベッドに入って一時間は経っただろうか。ここに時計が無いから正確な時間はわからないが、私の体感時間で判断すればとっくに一時間を超えている。私はこの一時間の間、ずっと彼女のことを考えながら隣で寝ているふりをしている。

 ふと、ある考えが頭に浮かんだ。この部屋から出る方法はただ一つ。愛華とセックスすること。唯一示された条件はそれだけだ。もしセックスをすればここから出られるのであれば、今まさにこの瞬間が絶好のタイミングなのではないか。

 重いまぶたをそっと開ける。最初は暗闇であまり視界が慣れず何にも見えなかったが、徐々に視界がはっきりとしてきた。と同時に、目に入った状況を見て思わず動揺した。彼女の顔が目の前に見えたのだ。

 ごくり、と息を呑む。私の身体の中で、心臓が激しく動いているのが伝わってくる。

 やっぱり愛華は綺麗だ。整った顔に、綺麗でさらさらと柔らかい髪。痩せて細い身体。見惚れてしまうくらいには綺麗だ。

「ほんと綺麗……」

 顔をじっくり見ていると、思わず声が出てしまった。やばい、と緊張しながら数分間待っていたものの、特に彼女が反応することも目覚めることも起こらなかった。ほっと一息つく。

 しかし安堵の息を吐いても、別の不安が現れた。はたしてこれから、私はどうすればいいのだろうか、という不安が。このままずっと先送りにしていたら、結局彼女に想いを伝えられず、この部屋に閉じ込められたままなのではないか、という不安が。かと言って、私が気持ちを伝えた後、一体私たちはどうなってしまうのか、と考えるのもまた恐ろしい。ズタボロになってしまう私たちの未来が察せられるからこそ、言い出せないのである。

「そういえば……」

 ふと、私がまぶたを開けるまでの経緯を思い出した。そっか、私は寝ている彼女を襲うために目を開いたのだ。決して彼女に見惚れるためでも、うだうだ悩むためでもない。今ここで襲ってしまえば、ドアは開くし私たちは出られる。誰もが待ち望んでいたハッピーエンドだ。もし私たちの人生が演劇になり、観客が存在しているなら、きっと観客全員が今か今かと、私が襲うのを待っているはず。そうすることで性欲も満たされ、物語には無事オチがつく。結局、彼女たちはこの部屋から脱出できましたとさ、めでたしめでたし、と。

 けれど、物語にオチが付いたからといって決して私の人生が終わるわけではない。今この部屋に閉じ込められているのも、人生という全体から見たら、ちょっとのイベントにしか過ぎない。物語が終わっても、私の人生は死ぬまでずっと続いてゆく。もしこの場で彼女を襲ってしまったら私はどうなってしまうだろうか。間違いなく彼女に嫌われてしまうし、私は一生罪を背負って生きていかないといけない。死ぬまでずっと、彼女からの恨みと、消えない過去を背負ったまま生きなくてはならない。

「私って…どうすればいいんだろ……」

 悩むに悩むこと数十分、結局答えに辿り着くことはできず、諦めて目をつぶった。どうせ、明日になればなんとかなると思いながら。


第四章


 目が覚めたら、自分の部屋であった……なんてことはなく、見るに見飽きた部屋の天井が目に映った。ため息をつく。勝手に期待した私が馬鹿だったのか。今日もまた、昨日と同じような一日が始まる。どうせこの部屋から出ることはできないし、私は部屋から出るための手段も伝えられず、無駄に時間が続いていくだけ。このまま一ヶ月が経ってしまえば、この現実も受け入れることができるのだろうか。諦めて、愛華と共に死ぬまでこの部屋に……

 再びため息をつく。こんなところで考えていたってどうにもならない。

 ベッドから見を起こす。そういえば昨日は聞こえていた寝息が聞こえないな、と気づき横を見ると、少し乱れた白いシーツだけが目に入った。もしかしたら早く起きたのだろう。私を置いて脱出したとか、愛華の存在が消えてしまった…なんてことは起きていないはず。

「おはよー」

乱れた髪を手でかき回しながら、リビングへ続くドアを開ける。先に起きている彼女の姿が見えて、一安心する。が、安堵の息を漏らしそうになったところで、思わずある物に目が止まってしまった。例の紙。その紙を、愛華は持っていた。

 少なくとも、事態が良い方向へ進むことは無いのは確かであった。


 ドア越しでも、愛華の泣き叫ぶ声ははっきり耳に届いた。昨日と同じ状況になっていることに、手遅れになったところで気がついた。

「実は私、その…愛華のことが恋愛の意味として好きなの……」と言ったのが数分前。そしてその言葉を言ってから今まで、ずっと私はその声を聞いている。

「信用してたのにっ!」

 そのほとんどは言葉になっていない嗚咽がほとんどだったが、たまにしっかりとした言葉が聞こえる。

「葵のことを信用してたのに!」

 言葉の全ては私への怨念が籠った罵詈雑言であった。それら一つ一つが私の頭の中でこだまする。

「信用していたのに!」

 何が信用されていたのかはよくわからない。私は愛華から勝手に期待されていて、私はそれを裏切った。

「葵だけは別だって思ってた!」

 その『別』は何を意味しているのかも、私にはよくわからなかった。ただ、愛華は私に恋心とはまた違う、大切な感情を抱いていることだけは確かであった。

 私は愛華の想いに、どうやって応えればよかったのだろうか。手遅れになってしまう前に、私は何か行動ができただろうか。

 そんなことを考えても、もはや今となってはどうしようもない。

 私たちはこの後、どうなってしまうのだろうか。恐れていた事態が起きてしまい、取り返しのつかなくなったが、事態が改善するときは来るのだろうか。また私たちは再び二人で笑い合えるときは、今後の人生に訪れるのか。そもそも、この部屋から出られるのだろうか。

 不安が雪だるまのように積み重なっていく。私はこれらの問題全てを解決しないといけない。解決しなければ、事態は何にも改善されない。

 だから私が、私が行動を起こさなければ。何か、何か一つだけでもいいから。早く、行動を起こさないと。


 気がつけば私は、半裸の愛華の上に乗っかっていた。彼女の小さな乳房も、赤い乳首もさらけ出している状態で。彼女は目を腕で覆いながら、涙を流している。ベッドのシーツには黒い涙の跡が彼女の顔の周りにできている。

 どうしてこんなことに、と自分の記憶を必死に辿ってみるも、思い当たる記憶は無い。私はさっきまでドアの向こう側に立っていたはずなのに。ドアの前に立っていて、彼女の泣き声を聞いていた。それなのに、気がつけば私は彼女を押し倒していた。

「ねえ…もうやめてよ……」

 彼女の乳房は何回も見てきた。学校のイベントの宿泊学習や修学旅行。まだその時には彼女の裸を見ることに抵抗感は存在せず、裸を見るのも特になんらやましいことはないと思っていた。しかし今では、愛華のことを性的な対象として捉えている今では、もうあの頃のような目で見ることはできない。

「葵…一体どうしちゃったの……」

 彼女の乳首は小さく赤く可愛くて、性欲を刺激させるのには十分だった。ずっと私はこうしたかったんだ。彼女と身体を重ね合わせたかったんだ。

 彼女の胸を触ってみる。柔らかい。すぐにでもとろけてしまいそうなマシュマロを触っている感覚。

 恐る恐る、乳首にも触れてみる。愛華の赤い色をしている乳首は、漫画で想像していた感触とは全く違った。そして、乳首に触れられただけでは感じないことも漫画とは全然違った。

 彼女はまだ、目を腕で覆って泣いていた。小さく掠れた声で、やめてと発し続けている。

 でも何故か、私の身体は止まらなかった。脳では駄目なだと判断しているのに、身体は私の思考に応じてくれず、もはや制御不能であった。

 耳にはずっと、愛華の声が残っていた。


 愛華は、虚空を見つめていた。全てを諦めて、時の流るるままに身を置いている。目にはさっきまで泣いていた痕が残っている。でも今は、涙さえ流していない。私の方を向くことも、何かに反応することもなく、永遠に虚空を見つめている。

 そんな状態でベッドで倒れている彼女の姿を見ていると、途端に悲しくなる。そして悲しくなると同時に、この結末に達してしまった自分への怒りが芽生えてくる。もし紙に書かれていた通りだとすると、ドアは開いていて私たちは出られるはず。約二日ぶりの外。言監禁されていた状態から脱出したにも等しい状況なのに、喜びの感情は生まれなかった。

 結局私はどう行動するのが一番の正解だっただろうか。無数に存在しているはずの選択肢の中から何を取るのが一番の最善だっただろう。もう事態は手遅れで、そう思索したところでただの現実逃避にしかならないのだが。

「ごめん……ごめんね、愛華……」

 最終的に私はそう口にして、ベッドから出た。寝室のドアを開け、リビングを通ってドアへ向かう。

 ドアは開いていた。昨日はあんなに頑丈で、蹴ったところで反応を示さなかったあのドアが、すんなりと開いていた。

 ドアノブに手をかける。あとはこのドアノブを回すだけで、外に出られる。昨日目覚めた時から願っていたことが、ついに叶う。

 脱出と引き換えに、愛華との関係は破滅を迎えてしまったが。

 出る前はずっと「この後どうしよう」という不安が心の中を占めていたが、今となってはどうでもいい気がする。この先生きていればなんとかなる。だから、不安を抱えなくても大丈夫。時が解決してくれるから。

 ドアノブを回した。

 ドアの先には、私が見えた。自分の部屋で、柔らかいベッドの上でぐっすりと眠っていた。それはそれはとても気持ちよさそうに。

 「見えた?」

 突然、背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには愛華が立っていた。さっきまで泣いていたはずの面影は一切無く、いつも通りの楽しそうな愛華が立っていた。

「楽しかった?私と二日間を過ごしてみて」

 状況が飲み込めなかった。私の目の前には愛華が立っているし、彼女は何かを知っているような様子で私に話しかけている。そして、私が先ほど開けたドアの向こうには、私がいた。

「ねえ、楽しかったか楽しくなかったか聞いてるんだけど」

「そっ、そりゃあ楽しかったよ。愛華と二人で過ごせて、とても楽しかった」

 愛華は私を小馬鹿にするように口角を上げた。

「葵は私をレイプしたけどね」

 息が詰まり何も言えなくなる。

 人間、一番痛いところを突かれると、なんて言葉を返せばいいのか、何にもわからなる。そして、私にとってのそれは幼馴染をレイプしたこと。

「でもまさか、葵が私をレイプするなんて考えてもいなかったよ」

「……どういうこと?」

「だってこの世界は、全て葵の妄想によって作られた世界なんだよ?葵の欲望、深層心理、記憶などを元に作られた世界がこの部屋。つまり、私とセックスしたいという願望から作られた世界なの。ね、普段から私に対してそういう視線を向けていたりしなかった?私のことを性の対象として見てなかった?」

 見ていなかった、と言えば嘘になる。

「私に膝枕をしてほしい、料理を作ってほしい、きっと愛華が作る料理は美味しいんだから。でも、ちょっとだけドジな部分も存在してほしい。なんでも完璧すぎたら可愛くない。いろんなことがこなせるけどちょっぴりドジな側面があることで、愛しさが生まれるから。隣で私が寝ていてほしい。きっと私は可愛くぐっすり眠っているはずだから。過呼吸になってほしい。安心させてやりたいから」

 彼女は一旦息を深くつくと、再び話を続けた。

「葵が普段私に抱いている欲望を詰め合わせた存在が、この私。これが素の私ではないし、私は私の本質なんて一切知らない。愛華にとって都合の良い存在でしかないんだから」

 何も言えなかった。

「そして葵は耐えきれなくなり、私をレイプした。これも部屋から出る手段のため、と自身を正当化しようとしていたけど、結局葵は私を犯したかっただけなんだよね。普段から私をレイプしたい、という気持ちは抱いていたんだよね」

 違う、と大声で叫びたくなったが、あながち間違いではないことに気がついた。そして、そんな自分が心から貶してやりたくなった。

これは葵が作った世界だったから良かったけど、葵はここが現実だとあの時は考えていたからね。たまたまここが妄想だっただけで、現実で私を犯していた可能性もゼロではない。でしょ?」

 今すぐここから逃げ出したかった。

「女だからとか、幼馴染だからとかではない。あなたが普段からレイプしたいと考えているからそうなってしまうわけ。もう少し自分の心と向き合ってみたらどうなの?」

「そういえば、どうして私が突然葵の前に現れて話を始めたのか気になってる?……図星って顔してるけど。まあいいや、説明も数秒で終わるし説明してあげる。葵が自分自身を貶したから。はいお終い」

「私は葵の欲望と潜在意識で動く存在だから、葵が言葉にしなくても、心の奥底で無意識に考えただけでも、私はそれに従って動く。凄いでしょ、私って」

「それじゃあ、帰ってもいいよ。また私をレイプしたくなった時にはおいで。私はずっと、この部屋で待っているから」

 彼女は最後にそう言って、私の背中を力強く押した。私のことを憎んでいる、とわかるような力の入れ具合だった。突き放すように背中を押されて、私はドアの向こうへと体が動いた。


 慌てて飛び起きる。真っ先にここが現実であるか確認する。間違いない、ここは私の部屋だし、私の机もしっかりとある。机の上には、愛華に前勧めてもらった小説がしおりを途中に挟んだ状態で置かれている。そういえばあの小説、しばらく読んでもいなかった。

 突然、枕の横に置いてあったスマホが震えだした。地面に振動が伝わっている音で、スマホに着信が来ていることに気がついた。

「もしもし、愛華だけど」

 画面を開くと愛華から着信が来ており、すぐに電話をとった。耳元から聞こえてきた彼女の声は、先ほどの世界の愛華と、ほとんど同じだった。

「どっ、どうしたのいきなり」

「いやあのさ、国語の宿題の範囲って何だったっけと思って……」

 国語の宿題の記憶を頭から呼び起こす。私が愛華と二人きりの世界に入る前の済ませた宿題の内容を何とか思い出そうとする。が、全く思い出せなかった。

「よくわかんないけど、とりあえず漢字を百字済ましとけば?」

「そっか、ありがとうね」

 電話が切れた。彼女が「ありがとうね」の「ね」の部分を発した直後に、通話が終了したことを示す電子音が耳元で流れた。普段も電話を切るタイミングは早かったっけな、と考えたが、流石に電話を切るタイミングまでは思い出すことはできなかった。

 机の上に乗っている時計を見ると、針は十一と十二の間を指していた。


第五章


 愛華が夢に現れるなんてこともなく、当たり前の時が当たり前のように過ぎていき、朝を迎えていた。耳に響く時計のアラームの音で目を覚ます。目に映っている風景は間違いなく私の部屋である。特別なことは何も起きていない。ただ、当たり前の日々がまた繰り返される。学校に行って授業を受けて、悶々とした気持ちを抱えながら帰宅し、「今日もまた気持ちを伝えられなかった」と後悔したあと、眠りにつく。何百、何千と続くループの中で、今日という一日は同じ行動を繰り返す日々の中の何千分の一なのだ。

 なんて、哲学とも言えないような脳内での一人語りをしている間にも、刻々と時は流れ続けていた。半分夢の世界へ飛んでいる私の目を覚ますために目を擦る。

「いい加減今日こそは伝えたいけど……」

 けど、と口に出した時、昨日の精神世界での一幕が思い出された。もし私が好きだという気持ちを伝えたら、あの時を繰り返してしまうんじゃないか。その考えは、私の不安へと繋がっていた。


 いつもの登下校道。川沿いの道をただひたすら直線に歩くだけ。横には透き通った川が広がっている。たまに人が不在のまま放置されているボートが見える。

 今日も私は重い鞄を両手で持って、この道を歩いている。背中には水筒や弁当が入ったリュックサックを背負いながら。

 交差点に差し止まり、信号が赤になっているのを確認すると歩いていた足を止める。「まだかな」と頭の中で文字が反復する。信号を待っている時間は短い時間であったとしても異様に長く感じてしまう。

 信号が青に変わった。足を一歩踏み出し、道路へと出る。

「あっ」

 その時、不意に人の姿が目に入った。

「あっ」

 相手も同じく私の姿を視界に入れると、歩いていた足が立ち止まった。

 横断歩道の途中で立ち止まっていると信号が点滅を始めたので、慌てて渡った。渡り切った歩道の先には彼女の姿があった。昨日、私の精神の中とは言っても、彼女からは恨まれて心底嫌われ、もう二度と会えないんじゃないかと思っていた彼女に出会った。出会ってしまった。


「それでね、なんか昨日変な夢を見たの」

 川沿いの道を彼女と二人、駄弁りながら歩く。なんら変わらないいつも通りの行動。話しながら学校に向かう、至って普通の行動。でも今日は何故か、この日常が気持ち悪く感じる。

「へえ、変な夢……どんな内容だったの?」

「よく思い出せないんだけどね、確か葵ちゃんに押し倒されているって内容だった」

 心臓が縮み上がった。

「何ソレ、私が愛華を押し倒してるって」

 声が震えないように気をつけながら会話を続ける。大丈夫、私の昨日の精神世界とはまた違う、偶然内容が重なってしまっただけだ。偶然同じ日に同じ内容の夢を見てしまっただけ。

「にしてもさ、押し倒すって不思議だよね。しかも葵が私を押し倒していたってのが尚更不思議」

 にしても、偶然で済ませるにはあまりにも出来すぎている感もある。

「なんでだろうね?」

 愛華はそう言って、話を私に投げかけてきた。あたかも、私が答えを知っているかのように。

「さあ…なんでだろうね」

 実際、何にも考えが出て来なかったのは確かだ。私自身どうして愛華がその夢を見たのか、よくわかっていない。かと言って、昨日の私の精神世界を伝えることだけは避けたかった。

「ま、葵が私を押し倒してくるなんて…そんな訳ないっか」

 愛華はそう言って話を済ませると、無言で足を進めた。私は何も言えず、黙りながら歩いていた。

 気がつけば、校門の前に着いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る