推し作家、筆を置く
白川ちさと
第1話
私、
とはいえ、私も毎日本の虫になって読むわけではない。一か月に二、三冊と読書家にしてはかなり緩やかなペースだ。一日につき一章か二章と、少しずつ息継ぎをするように読み進めていく。
それにどんな本でも読むというわけではない。いわゆる作家読みという手法を取っている。他の作家には目もくれず、決められた数人の作家の本をローテーションするように何度も繰り返し読んでいた。
だから、書店にいくら目のつくところに平積みしてあっても、私の目には入らない。有名作家の棚を素通りして、新刊の本棚に行く。そこには最近発売された本が表紙を前にして並べられていた。そこも目を滑らせる。
「あ。あった」
仕事終わりに直行してよかった。まあ、売れていても、他の書店に行けば大概置いてあるのだけれども。私は棚に置かれている本を抜き取った。真新しいすべすべとした表紙を撫でて確認する。
今日発売の
前情報のあらすじでは種子島を舞台にしていると書いていた。峰川遥先生はいつも、鹿児島の離島を舞台に物語を書いている。そのためかは分からないけれど、すごく売れるというわけではない。ただ、確実に本を購入するニッチなファンがついている。――私のような。
今回の新作はかなり期待していた。担当編集のSNSでは、ご期待くださいと息巻いていたし、ゲラ読みした書店員さんたちの反応もすこぶる良い。そのため、中身がとても気になっていた。
私はレジで会計を済ませると、すぐに近くのコーヒーショップに駆け込んだ。アイスコーヒーを頼んで、席に座るとバッグから買ったばかりの本を取り出す。
いつもはこんなことはしなかった。普段は、家に帰ってご飯とお風呂も済ませて、完全にリラックスしてから読書をする。
でも、今回は前評判もあったことから、気になってしょうがなかった。だから、最初の章だけでも、すぐに読むことにしたのだ。
いざ、物語の世界へ。
表紙をめくり、一行目に意識を落とそうとしたときだ。テーブルに置いたスマホが震える。こんなときに。そうは思うが、だからと言って電源を落とすわけにもいかない。私はしぶしぶスマホを手に取った。
通知はSNSのメッセージだ。繋がっている同じく峰川先生のファンの子、みーたんからだ。まさか、もう本を読み終わったのだろうか。みーたんに限って、ネタバレをされるわけがないとは思うが。私は訝しぶりながら、そのメッセージを読む。
『峰川先生のアカウント、今すぐ見てみて!』
なんだろう。もしかしたら峰川先生には珍しく新刊が出たことを宣伝しているのかもしれない。そう思って、フォローしている峰川遥先生のアカウントを開いた。
それを読んで、私は目を見開く。
『私、峰川遥は今作をもって、筆を置くことといたしました』
筆を置く。つまり、小説家を辞めるという意味だ。私は椅子の音を立てて立ち上がった。
峰川遥先生は五十代の男性だ。確かにベテランの域に入っているが、まだまだ小説家を辞めるような歳ではない。
私は居ても立っても居られなくなった。目の前にあるアイスコーヒーをがぶ飲みする。そして、スマホでみーたんへの返信を入力する。
『いまから先生の様子を見てくる!』
荷物を持って、コーヒーショップを後にした。
駆け足でやって来たのは、甲突川沿いの遊歩道だ。綺麗に整備された遊歩道は歩きやすく、夏の日差しさえなければ散歩する人が多く行き交う。桜の木が植えられているが、いまは濃い緑が茂っていた。
この辺りは私の家の近くだ。そして、峰川遥先生の家の近くでもある。
私は元々東京の人間だ。鹿児島に越してきたのは、偶々ではないが、家が近かったのは偶々だ。峰川遥先生はたまにこの遊歩道を散歩していた。一人だったり、奥様と一緒だったりする。もちろん、ファンですと話しかけることもなく、そっとすれ違うだけだ。私は先生の小説さえ、読めればいい。
しかし、その小説が新たに読めなくなる。それは一大事だった。
少し探すとすぐに見つかった。橋の欄干に肘を乗せて、タバコをふかしながら桜島を眺めている。この日の桜島は稜線がくっきりと見え、霞んだ藤色と青い空とのコントラストが見事だった。
どうしようか。声を掛けようか。
急いでやって来たというのにここに来て迷う。いきなり話しかけられれば迷惑なことは間違いない。とりあえず、様子を見てみることにした。
後ろを通る振りをして、私は峰川遥先生の姿を観察する。
ラフな服装のせいだろうか五十代とは思えない男性で、あごには少し無精ひげが生えている。以前、見かけたときより少し痩せたような気がした。ただ、それ以外は特に変わりなく、何か考えるように桜島を見つめている。
もしかしたら、次の作品の構想を練っているのではないだろうか。そう思わせる瞳をしていた。
先生にだってスランプや気の迷いはあるに違いない。いまは勢いであんなことを言ったとしても、戻ってくるに決まっている。毎回、あれだけ素敵な本をかき上げる先生だ。
「信じていますよ、先生」
私はこっそりエールを送って、その場を後にした。
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