君が言葉で袖引くまでは、

かなゾウ

君が言葉で袖引くまでは、

 そう、君のその言葉で私の全てが変わった。あの時から

 

 「落としましたよ」

 彼女はそう言って私が落としたハンカチを拾った。

 中学3年に上がった4月が終わろうとしていた頃。私はいつも通り、菅浦公園行きの普通電車に揺られ、学校に向かっていた。電車に乗り込んで10分。山の川駅に電車が到着し、席から立ち上がろうとした時だ。リュックサックのポケットに入れていたハンカチが立ち上がったと同時に、落ちてしまった。それに気づかず、立ち去ろうとした私を彼女の優しい声が止めてくれたのだ。

「ありがとう……ございます」

私と同い年くらいの女の子だ。どう受け止めていいのか分からない。とりあえずで、口から敬語が出る。

 女の子はにっこりと笑って、どういたしましてと言った。この町では有名な、私立の中学校の制服を着ていた。赤いチェック柄のスカートが可愛らしく、肌も白い。まるで制服を着せたお人形のような子だった。

 電車から降り、さっきまで座っていた車内を見ようと振り返る。女の子はこちらを見て、手を振っていた。私はその手に触れていないのに、なぜだか右手に温かいものを感じた。

 

 次の日。

 昨日と同じ電車に乗った。少し開いている車窓からは朝のみずみずしい空気が流れ込み、電車の中を満たしていた。山の川駅の手前の駅、"夢の街駅"で昨日の女の子は乗ってきた。そして私に気づくと昨日の笑顔を見せながら私に近づいてきた。

「おはよう!」

女の子は白い歯を見せて笑ってみせた。家ではお父さんもお母さんも朝早く家を出るから、今日その言葉を聞くのは初めてだった。

 名前も知らないその子の挨拶を聞くのは新鮮だった。つられて私も

「おはよう……」

と少し小さい声で返した。

 情けない声だなと自分で反省する。でも、女の子は何も気にせず、私の挨拶に続いて話を持ち出してきた。

「ねえ、名前なんて言うの?」

「あっ、えっと……、一ノいちのたにかこって言います」

私が素直に名前を言うと、彼女は顔を輝かせた。

「そっか!私は青山中の井尾崎いおざきみそらだよ!」

高いトーンの声だった。やっぱりこの子は青山中学校の子か。でも、どうして私にこんなに明るく話しかけてきたのだろう。

 天真爛漫なこの子を見て、私は少し不安になった。

「あの……。どうして私に話しかけてきたんですか?」

勇気を振り絞って聞いてみた。すると向こうからは意外な返事が返ってきた。

「え?特に理由なんてないよ。ほら、今月からずっと私たちおんなじ電車でおんなじ車両に乗っているじゃん?だから、運命感じちゃってつい……」

彼女はまっさらな顔をして言った。ふと、電車の中を見渡す。4月からずっと乗っている朝の電車。そういえばこの空間にはいつも井尾崎みそらの姿があった。つり革で右手で持って左手でスマホを触っている彼女が頭の中で想像できる。

『山の川、山の川です。お忘れ物のないよう、ご注意下さい。次は』

車内アナウンスが山の川駅に到着していたことを告げていた。私ははっとして、足で挟んでいたリュックサックを持ち、急いで出口へと向かう。

「かこちゃん」

 私の名前を呼ぶ声が聞こえ、とっさに振り返る。

「また明日ね!」

みそらは最初に会った時のように優しく手を振っていた。


 山の川駅に着き、歩いて5分。ようやく学校が見えてきた。私と同じセーラー服を着ている女子生徒たちがまばらに見える。

 昨日みそらに会って、さっき喋って初めて"友達"ができたような気がした。ずっと学校で一人きりの私にとってそれは、少し嬉しかった。


 それから5ヶ月が過ぎた。私とみそらは毎日同じ電車でそれぞれの学校へと向かった。その通学時間は私にとってかけがえのない時間になったのを覚えている。学校のテストのことや、最近やってきた教育実習生のことなどたわいもないことをお互い持ち出した。


 みそらが乗ってくる"夢の街駅"から私が降りる"山の川駅"までの時間はだいたい5分くらい。つまり、私たちが電車で過ごせる時間は1日5分だけだ。

「じゃあ、また明日」

 私は毎日みそらにそう言って電車を降りた。この言葉は明日会えるかわからない不安と、明日もきっと会えるだろうという希望が入り混じっていた。そしてなんとかこの2学期の始業式の日まで日々が過ぎ去った。


 みそらに出会っていた頃咲いていた桜は散り、暑い夏休みも終わった。またはもうすでに街路樹の銀杏の葉が色づきはじめている。

 そんなある日、みそらはこんなことを聞いてきた。

「ねえ、かこ。高校はどこに行くの?」

 そう、急に頭に悩まされていた進路のことを話し始めたのだ。

「うーん…。御城みしろ高校かな。ここから近いし」

 正直まだ考えてすらいない。

「そういうみそらは?」

「えっと…」

 みそらはちょっと考えてる。

「今は青中だし、そのまま青高に上がるかも。うちの学校エスカレーター式だし」

少し言葉を選ぶようにして答えていた。

私は「やっぱそうだよね」と、あいづちを打ちながらみそらを見ていた。

 

 私たちはやっぱり、このまま離れてしまうのだろうか。


 一日の中で私の一番好きな時間。電車の中でしか過ごせないその5分間は話をするうちにすぐに経っていく。

 

 みそらと仲を深めていくにつれ、学校での孤独感が身にしみてきたようだった。朝、みそらとともに過ごす時間と学校や家で過ごす時間はまるで世界が違っていた。

 どうしてみそらといる時間はこんなに短く感じるのだろう。学校には行きたくない。でも、みそらには会いたい。

 私の中の欲望たちがお互いを傷つけ合っているようだった。

 

 結局、この日から1ヶ月もしないうちに私は家族3人で隣町へと引っ越してしまった。学校からは徒歩で5分。電車はいらない。

 でも、やっぱりみそらのことだけは頭から消えなかった。


 引っ越す前日の朝、平日だったのでいつものように学校へと向かった。最後ぐらい休んでもいいんじゃない?と、お母さんに言われたけど、きっとこのままだとみそらの顔は二度と見れなくなるだろう。「ありがとう」くらい伝えてから、消えたい。最初出会ったときみたいに。

 電車に乗り込み、みそらが乗ってきた。その日は妙に混んでいて、私たちはずっとつり革に右手を預けていた。

 いつもはすぐにおしゃべりに夢中になるのに、今日は話しかけにくい。でも、自分で言葉にしなきゃ。と、心の準備をしていると

「ねえ」

 私の頭にみそらの言葉が引っ掛かった。

「なんで人って、他の人をいじめたり、殺したりするんだろうね」

私は口を開けたまま、みそらの目を見た。まるで、私の今の感情が全てわかっているみたいな口ぶりだ。

 周りの大人がみんなこっちを見ていることに気づいたのはその時だった。

 みそらの声を聞き取ったのか、誰もが窓の外を見ている彼女に視線を向けた。私はちょっと慌てた。どう答えていいのか分からない。

「ふふふ……、冗談、冗談。びっくりした?」

 いたずらめいているその顔に安堵した。つられて私も笑う。

『まもなく山の川、山の川です。--』

時間は迫っていた。私はみそらからもらった笑顔を無くさないように、ずっと笑ったままでいた。

「ねえ、みそら」

「ん?」

「ありがとうね……」


ちょっと首を傾げて、私を見つめている。


「あのとき、みそらが声かけてなかったら、きっと今の私は笑顔になんてなってなかったから。……みそらが話しかけてくれたから私は」


電車の右側のドアが開いている。私はそれに気づき、とっさに彼女の元を離れる。


 私が電車から降りたと同時にドアが閉まる。


 閉まるドアの音がいつもより大きく聞こえた気がする。私は振り返らずに階段を登っていった。ここで振り返ったら、どんな顔をしていいのか分からなかったから。

 急に涙が込み上げてくる。人の雑踏にいながら涙が溢れてくるのをなんとか抑えようとした。やけに私だけ辛い顔をしているのを、他の人に見られたくなかった。



 あれから、4ヶ月。また、新しい春がきた。

あの時と同じように菅原公園行きの普通電車に揺られている。今日は私が通う御城高校の入学式だ。

 私はみそらとの思い出が深いこの朝の電車の中でずっと考え込んでいた。そっと目を閉じて。

 伝えられなかったこと。

 つらかったときのこと。

 気持ちが通じ合っていたこと。

 全てが昨日のことのようだった。泣きたい感情も笑いたい感情も溢れかえっていた。生きている心地がある。

「おはよう、かこ」

聞き慣れたあの優しい声がした。

 みそらがいる。私と同じ青いチェック柄のスカートが目立ち、胸元には同じ青色のリボンが可愛らしい。

 言葉にしようとしても出なかった。また泣いちゃいそうになるのを堪え、視線だけみそらに合わす。

「びっくりした?……ごめんね。嘘ついちゃった」

謝っているのに笑っていた。でも、笑いながら少し涙ぐんでいた。私の目をすっと見据えながら。

「そんなことないよ……。私こそ、急にいなくなってごめん……。私、学校でずっといじめられてて、ずっとひとりきりで寂しかったの。それで、引っ越しすることになって……」

 さっきの感情が一気に流れ出たように、私は耐えられなくなった。目を両手で押さえて視界が真っ暗になる。

「我慢しなくてよかったんだよ、かこ。でも、もう大丈夫。私がついてるから」

車窓に日が差し込み、朝の空気とともに私たちを照らしていた。目を閉じていてもわかる感触だ。

 視界を隠していた両手に涙が伝っている。何度泣いたら気が済むんだろう。

「ほら、着いたよ。一緒に行こう」

気づけば、高校のある『朝日野駅』に着いていた。左側のドアが開いている。

 みそらは私の右手をぎゅっとつかんだ。手を繋いだのは初めてだ。半年ぐらいずっと合っていたのに私たちの思い出はまだ少ししか残っていない。これからの生活できっと満たされていくだろう。

 良かった。君に出会えて。

 君が言葉で袖引くまでは、私は私じゃなかった。

 外は青空が広がっていて、私たちの入学式を歓迎しているみたいだった。    

                




 



 

 




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君が言葉で袖引くまでは、 かなゾウ @Kanazo17

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