57 風の囁き

 リリオラが捕らえられてから約ひと月が経った。

 国王たちはネルフェットが見た石の記憶や、石を失い普通の人間へと戻ったリリオラ本人の追及をもとに、国内に対して声明を出した。


 リリオラが魔物の化石に囚われていたこと。彼女がマニトーアへの憎しみを募らせ、その感情は魔物の餌となりじわじわと彼女のことを侵食していったこと。

 彼女自身も満足を知らない欲求に飢えていたこともあり、互いに隙間なく絡み合った望みが判断力さえも鈍らせていった。


 リリオラは王室をはじめとした国の中枢からすべてを自分の思い通りにすることを目指し、ネルフェットは彼女にとっての何より都合の良い世界への架け橋となっていた。

 そのことを思い知らされた国王は、彼女の思うままに執務ばかりに気を取られていた自分たちのことを省みる。国民に対し、自らの過ちを正直に告げ、新たな門出を誓った。


 トニアは彼らの国民への忠誠を病室で耳に入れる。

 一か月の間過ごした、やたらと心地の良い香りが漂う四角い部屋の中。右側から聞こえてくる声が止むとトニアは真っ白い視界をそちらに向けた。


「ようやく一息ついたってところなのかしらね」


 トニアに新聞を読み聞かせていたダーチャが開いていた紙を畳む。


「……うん。そうだね」


 ダーチャがソグラツィオに来れたのは二週間前のことだった。

 トニアに起きた出来事がマニトーアにいる家族に知らされ、ショックのあまり倒れてしまった両親に代わり、一番身軽なダーチャが抱えていた仕事に区切りをつけて休みを取った。

 トニアは検査入院が長引き、経過観察も含めてまだ家に帰れずに国営の病院に身を預けている。

 ダーチャはトニアが借りている部屋を宿にして、ソグラツィオに来てからは毎日彼女のもとを訪ねていた。


 電話では話していたが、実際にトニアの瞳を目にするとダーチャもその衝撃に狼狽えた。

 トニアは余計な心労をかけたくないと思っているのか、いつも平気な顔をして笑っている。ダーチャにしてみればその強がりすらも胸が潰れてしまう。

 しかし気丈に振舞う彼女の前で弱音を吐くことなんて決して出来ない。

 ダーチャはいつものように、トニアが大好きな姉の姿のままでソグラツィオでの時を過ごした。

 トニアに水を渡したダーチャは鞄にしまったままの封筒が目に入り、やるせない感情をひた隠しにする。


「そうだ。この前ピエレットちゃんに会ったよ。とても良い子ね。なかなか会いに行けないから、トニアによろしくって言ってた」


 ダーチャはベッドの脇にある椅子に座り、目を伏せたままのトニアに朗らかな声をかける。


「……そっか……」

「まだ若いのに、すごく優秀なのね」

「うん。ピエレットは、本当に一生懸命で、凄い子なんだよ」


 ぽつりぽつりと声をこぼすトニアは友人のことを思い僅かに頬を綻ばせた。


「そうそう。その時にミハウっていう人にも会って。あの遺品の持ち主の息子なんだってね? トニアが前に言ってた音楽やってるって人。楽譜、返さなくていいからって伝えておいた」

「……え?」


 トニアはふと顔を上げる。


「知り合いにも言っておいたよ。無事に贈り主に渡ったから、もう心配ないって」

「本当……?」


 ダーチャの言葉にトニアは小さく胸を弾ませた。


「ミハウさん、あの楽譜を持っていてもいいの?」

「ええ、勿論。もともと、あの楽譜がいるべき場所を探していたんだから。知り合いも喜んでたよ」

「……よかった……っ!」


 トニアは嬉しそうに笑い、ふやけた声で喜びを表す。

 あくまで借り物だった遺品を、いつかは必ず返さなくてはいけないと考えていたからだ。

 しかしその必要はないようで、あの楽譜はミハウの手元に残る。

 トニアはそのことにほっと胸を撫で下ろし、ダーチャに空になったコップを返した。


「…………トニア」


 妹の明るい笑顔に、ダーチャはまた胸が締め付けられる。ずっと見ていると息ができなくなるほどに苦しい。

 ダーチャはコップを受け取り、彼女から目を逸らした。

 すると開いた窓から柔らかな風が吹き込み、カーテンレースを揺らす。

 風は、新鮮な空気だけではなくどこからか響く音をのせてやって来た。

 耳に届いた音色に、トニアは窓の方向に顔を向ける。ダーチャもつられて顔を上げた。


「…………ヴァイオリン、だ」


 騒動以来、ソグラツィオはマニトーアの文化を拒否することはなくなった。これまで皆が関心を抱いていた音楽や楽器に堂々と触れることができるようになったのだ。

 この誰かが弾いているヴァイオリンも、最近になってはじめたものなのだろう。それを物語るように、音の持ち主はまだまだ思うように弾けていないようで、時折音色が途切れる。

 ダーチャはトニアを気遣うように見やった。

 恐らく入院患者の一人が暇つぶしに弾いているこの音に誘われ、彼女の頬に涙が伝ったからだ。


「トニア……窓、開けておく?」


 恐らく彼女はあの騒動のことを思い出している。ダーチャは彼女の精神負担を思い遣り、静かに尋ねてみた。


「うん……いい。大丈夫」


 芯の抜けた声でトニアは首を縦に振る。ダーチャは彼女の頬を流れ続ける涙に胸を詰まらせた。


「ダーチャ……。私、夢、叶わなくなっちゃった……」

「…………」


 窓の方を向いたまま、トニアは空に浮かぶ雲のようにかすんだ声をこぼす。


「ごめんね…………ダーチャ。ごめん……。私、もう……夢を……追いかけられない……」

 取り乱して泣きじゃくるわけでもなく、トニアは静々と頬を濡らし、輪郭を伝って垂れた涙は彼女の衣服に落ちて滲んでいった。

「トニア……」


 彼女が謝っているのはダーチャにではなく、きっとこれまで夢を追い続けてきた自分自身に対してだ。それが分かってしまうダーチャは、彼女のことをぎゅうっと抱きしめる。


「うっ…………ごめん……ごめんね……」


 ダーチャの腕を握りしめるトニアの手は、ぎりぎりと力強く彼女に蔓延る悲しみを表す。

 何度も謝りながら、ダーチャの腕に包まれ、トニアは感情の導くままに泣き続けた。

 ダーチャはトニアの頭を撫で、彼女に気づかれないように一粒の涙をこぼし、そっと指で拭った。



 昼ご飯を買ってくる、と、涙がおさまって落ち着いたトニアの肩を叩いてダーチャは病室を出た。

 トニアはベッドに座ったまま、頬にぶつかる風に指で触れようとする。まだヴァイオリンの音色は響いていた。

 今、彼女の耳に届くのは舞台で聞いた音とは全く違う。けれど、彼が演奏していたのと同じ曲だとトニアは気がついていた。


 ネルフェットの演奏を中継で見ていた国民たちは、彼が披露した音楽に興味を示し、マニトーアの音楽はちょっとしたブームになっていたのだ。

 彼と同じ曲を弾きたくて、ヴァイオリンでなくとも練習を始めた人は多い。

 涙で腫らした目元が痛み、トニアはぎゅっと瞼を閉じる。

 窓から聞こえてくる拙い音楽とは裏腹に、トニアの心臓はとくとくと小さな鼓動が早まっていった。


 あの日聞いた音が、誰かが奏でる音色に伴って蘇ってくる。

 トニアは瞼を開け、手元のシーツを握りしめた。


「どうして…………」


 耳に伝わる幸福に、トニアは切なく瞳を揺らがせる。


「どうして音は、感情を知っているのかな…………」


 彼が奏でた音色から伝わった彼の気持ち。

 勘違いだと思い込ませていた。

 けれど、音は正直で、そこに嘘なんてまやかしは通じなかった。


「ネルフェット…………」


 膝を立て、トニアは身体を丸くして顔をうずめる。


(会いたいよ…………)


 声にならない感情が胸を真綿のように絞めつけていく。

 優しいその多幸感に、トニアは体温が上がっていくのを感じた。




 「…………あ」


 目の前に立つ髪を左肩に流した女性が、ネルフェットを見つけて思わず声を出す。


「…………?」


 以前に会ったことがないはずのその女性が自分を見て驚いた表情をしているので、ネルフェットは違和感を覚えて眉をひそめた。

 彼の後ろに控える二人の護衛は、少し警戒するようにダーチャのことを見る。


「あなたが、ネルフェット王子……?」


 ダーチャは幻を見たような顔でネルフェットに尋ねた。


「そうですが……」


 ネルフェットはどこかで見た気もする彼女の鼻の形に記憶を辿っていった。

 リリオラの件で混乱した情勢を治めるのに走り回る日々で、ネルフェットがこの病院を訪ねるのは今日が初めてだった。ずっとトニアのことが気にかかっていたが、どうしても忙しない毎日を抜け出すことが出来ずに、ようやく僅かな時間を見つけてやって来たのだ。

 そんな病院の廊下で出会った女性。彼女は自分のことをよく知っているようだった。確かに顔が知れているので当然ではあるが、その割には随分と疑心を隠さない目をしている。


 それに、彼女はソグラツィオの言葉ではなく世界で広く使われている、ソグラツィオでは第二言語として習う言葉を迷うことなく話した。

 彼女は一体何者だ。

 ネルフェットがぐるぐるとたくさんの顔を思い出していく中で、ふと彼女によく似た鼻を持つ人物に思い当たる。


「…………あぁっ!」


 反射的に声を上げ、ネルフェットは慌てたように目を丸くした。

 彼女は確かによく似ている。

 ネルフェットは憧れを抱く異国の俳優を思い出し、彼女のことをつい指差してしまった。


「と、トニアの……お姉様……!?」


 ネルフェットが手繰り寄せた答えにダーチャはこくりと頷く。

 トニアに教えてもらったように、彼女はトニアにはあまり似ていなかった。しかし街で見るポスターに写る彼は彼女にそっくりだ。

 俳優でトニアの兄であるジルド・マビリオ。ということは、彼の双子の姉は彼女のことだ。

 ネルフェットはトニアの家族が来ていることは知っていたが、まさか会うとは思わずに、意図せぬ出来事にぱくぱくと口が閉じられなくなる。


「……妹が、お世話になったわね」


 ダーチャはネルフェットのことをまじまじと見ながら、しっかりとした声を出す。

 ネルフェットは後ろの護衛に下がるように伝えると、ダーチャに向かって真っ直ぐに頭を下げた。


「今回のことは、誠に申し訳ございません。トニア……妹さんに、取り返しのつかないことを……」


 よく鍛えられた兵士のように揺るぎのない動きをするネルフェットをダーチャは複雑な表情で見つめた。

 彼がトニアの視界を奪ったのではないことは分かっている。

 けれど、どうしてもやり場のない感情を抑えることが難しい。彼を責めても何も変わらないのに。

 ダーチャはぎりぎりと歯を食いしばり、顔を上げたネルフェットを鋭く捉える。


「……あなたも大変でしょう、今」


 つかめない声を出して、ダーチャは冷静を装う。


「いえ。当然の役目ですので」

「…………そう」


 初めて対峙した王子を纏う品格のある雰囲気に、ダーチャは表情を崩さないままに感心する。


「僕が彼女を護りきれなかった。これは、僕の落ち度です」

「……そう思っているのね」


 それでも、よくよく見れば、彼の悲観を背負った表情は、まだダーチャにしてみればあどけなさを残していた。弱みを見つけたわけではない。けれど彼が背伸びをして自らを鼓舞していることがひしひしと伝わってくる。

 ダーチャは背筋を伸ばしてキリッとした表情で彼に向き合う。


「本当に、なんてことをしてくれたの……あなたたちは……」


 ダーチャの厳しい声にネルフェットは返す言葉もなく、表情には苦しみが浮かび上がる。


「私の大事な妹の夢を、あなたは壊したの。あの子がどれだけ悲しんでいると思う? いえ。悲しみなんて通り越してしまうくらい、絶望しているの。トニアはそれを人に見せたがらない。でも、本当は毎日毎日心が悲鳴を上げてる。もう、心は切り裂けてしまったでしょうね。それなのに、必死で毎日縫い合わせるの。私に笑顔を向けるために」


 ダーチャの瞳に悲しみが宿った。一度ネルフェットから目を逸らし、彼女は再び彼に視線を戻す。


「彼女は情熱を失った。それが……どんなにつらいことか、あなた、分かる……?」

「………………」


 ネルフェットは何も答えなかった。

 易々と分かるなんて言えない。それに、どんなに共感しようと、彼女と同じ気持ちを味わうはずがなかった。容易い同情は余計に彼女を傷つける。我が物顔になんてできない。


「あなたがどんな顔をしてあの子に会うのかは分からない。でもね、簡単に思わないで」


 ダーチャは大股でネルフェットに詰め寄り、葛藤で歪んだ瞳で彼と目を合わせた。


「あの子を救うなんて、根拠もないのにそんな約束はしないで。夢物語で期待させて、またあの子を傷つける。これ以上、トニアを苦しめないで」


 ネルフェットはダーチャの瞳を真っ直ぐに見つめ、そこに見える彼女への愛に目を伏せた。


「…………これ、あなたから渡してくれない?」


 ダーチャは鞄から封筒を取り出し、ネルフェットの胸元に突きつける。


「……え?」


 ぽかんとするネルフェット。ダーチャは彼から目を離すことはなく、彼が封筒を掴むのを待った。

 彼が封筒に触れる音がすると、ダーチャは彼から身を離す。


「トニアは待ってるの。何よりも、心から」

「…………どういう……」


 気の抜けた顔をするネルフェットに対し、ダーチャは微かに口元を緩ませる。


「よろしくね」


 それだけを言い残すと、ダーチャは昼食を買いに彼の横を通り過ぎていく。

 ネルフェットは颯爽と去って行く彼女の背中を振り返り、手にした封筒をちらりと見た。


「…………まだ、駄目だ」


 ぼそっと独り言を呟くと、ネルフェットは踵を返してダーチャが歩いたのと同じ方向を向いた。


「今はまだ、彼女に会えない……」


 封筒を大事に握りしめて内ポケットに収める。

 下がっていた護衛と顔を見合わせ、ネルフェットは彼らを率いて病院を後にした。

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