第3話 いけない一線

「急にどうしたのよ。いきなり自分殴って……だ、大丈夫なの?」


 兄にあたる人がいきなり自分の顔面を思いっきりぶん殴ったのだ、心配になるのも無理はない。


 俺は近づいてきた千夏を片手で制止させ、「大丈夫だ」とだけ伝えた。


「いや、大丈夫な人は普通、自分の顔殴ったりしないと思うんだけど」


 ジト目で俺を見つめてくる千夏は耳が痛くなるような正論をぶっ放してきた。


 そうだよね! まともな人は普通いきなり自分の顔殴ったりしないよね! けど言い訳させて? お兄ちゃんも意味がわかってないの! なんであんなことを口走ってしまったのかまるでわかってないの! だから許して!


「ま、まぁ? あんたのことなんてどうでもいいし? 大丈夫でもそうじゃなくてもウチには関係ないからいいけどね」


 俺の願いが届いたのか、あるいは黙ったままでいる俺に愛想を尽かしたのか。恐らく後者だろうが、千夏はそう言い捨て向かいの椅子へと戻った。


 にしても……一体どうしちまったんだ俺は? なんで千夏に対して〝キス〟をせがむようなことをした? それだけじゃない、もっと根本的な問題――どうして俺は千夏を〝妹じゃなく一人の女性〟として意識しているんだ?


 確かに千夏は昔から可愛かった。世間一般的に見てもそうだろうし俺もそう思う。


 亜麻あま色の髪に亜麻色の瞳、肩まで伸びた髪は目で見てわかるくらいつやがあり、風が吹けば綺麗になびくであろうサラサラ感もある。そこに母親譲りの端正たんせいな顔立ちも加わっちゃうんだから正直反則だ。


 余談だが可愛い人が『え~私可愛くないし~』ってほざいてると――あ、この人性格悪いんだなってなるよね。あれなんなんだろ、そう思っちゃう俺が性格悪いってこと? ちなみに俺は自分の顔、そこそこ整ってる方だと自負しております。


 とにかく、俺の義妹いもうとはめちゃくちゃ可愛い。それは千夏と初めて会った時から抱いている〝感想〟であって、当たり前だが恋愛感情なんてものは1ミリもなかった。


 けど今はどうだ? 千夏と少し会話しただけなのに嬉しい気持ちで胸いっぱいだ。それだけじゃない、どうしてか千夏の言動が全部俺への好意によるものなんじゃないかと思考が働いてしまっているのだ。視線がぶつかった=俺のこと好きなんじゃね? 心配してくれた=俺のこと好きなんじゃね? みたいな。あと単純に3秒も目を合わせていられない。


 これじゃ……これじゃまるで――俺が千夏に〝恋〟をしてるみたいじゃないかッ!


「で、でさ……さっきの続きなんだけど……」


 躊躇ためらうように言った千夏はもじもじしながら僅かに潤んだ瞳で俺を見つめている。理性を失いそうだ。


「キ、キキキキスしたら、その……も、もう一回言ってくれるんでしょ?」


「ん? あ、いや、あれはその、なんていうか……」


 俺は鼻の頭を掻きながらどうにか有耶無耶うやむやにできないかと言葉を探すが、そう都合よくは見つからず、痺れを切らした千夏がもう一度、さっきよりも低い声で確認してきた。


「言ったよね?」


「……はい、言いました」


 俺が正直に答えると、千夏は真っ直ぐ俺の瞳を見据えたまま口を小さく動かした。


「…………って言ったらどうする?」


「え、なんて?」


 肝心な部分がわからず俺が聞き返すと、


「だ、だからッ! キ……キスしてあげてもいいよって言ったら、どうする? って訊いたの」


 千夏は顔を真っ赤にし怒り口調で答えてくれた。


「いいのか? 俺が千夏の唇を奪っちゃっても」


「…………うん」


「もしかしたら、唇だけじゃすまないかもしれないぞ?」


「…………いいよ。それでも…………んっ」


 ぎゅっと瞼を閉じ唇を差し出してきた千夏。力が入りすぎているのか胸元を押さえている手が震えている。緊張しているのが嫌というほど伝わってくる。


 この一線を超えたら最後、もう後戻りはできない。それがわかっているはずなのに俺の体は千夏の唇に吸い寄せられるように勝手に動いてしまう。


 俺の初チューの相手が千夏になるとは夢にも思わなかった。けど、それもまた一つの愛の形なのかもしれないな。


「いくぜ?」


「うん」


 俺は千夏の頬に手を添え、ゆっくり顔を近づける……その時だった。


 ガチャリッ、と重めの扉が開く音が遠くから聞こえてきた。


 ――まずいッ、どっちか帰ってきたッ⁉


 その音は間違いなく玄関ドアの開閉音であり、父さんか母さんの帰宅を示すものだった。


 どっちにしろこの状況を目撃されるわけにはいかない! と、俺は咄嗟に身を引いて意味もなく指をいじる。千夏も千夏で髪の毛をクルクルと指に巻きつけている。


「――ただいま~」


 程なくしてスーツ姿で買い物袋を引っげた母さんが気の抜けた声と共に現れた。


「「おかえり」」


「あら珍しい。二人で母さんの帰りを待っていたのかしら?」


 ――――ッ⁉


 母さんは俺と千夏を交互に見て揶揄からかうように言ってきた。


 直前までの行動を鮮明に記憶しているからこそ、母さんの何気ない一言に体が硬直してしまう。


「別に、たまたまだよ。ウチがここでぼ~っとしてたらコイツが来たの」


 そんな俺をほぐしてくれたのは千夏だった。おかげで平静を装えるくらいの余裕が生まれる。


「そ、そうそう! 風呂上がりで喉乾いてたんだよ」


 そう言って俺が空いたグラスを見せつけると、母さんは思い通りにならなかった子供のように不貞腐ふてくされた表情をする。


「な~んだ。『仕事で疲れた母さんを喜ばせるために二人でプレゼントを用意しました~』とかじゃないんだ。つまんないの~」


 どうして誕生日でもないのにプレゼントを期待できるのかは置いておくとして、ぶつくさと文句を垂れながらキッチンへと向かう母さんの背を見つめ、俺はほっと胸をで下ろした。


 とりあえずは一安心。だが油断は禁物だ。今の精神状態だとふとした拍子にボロをだしてもおかしくない。ここはこの場を去るのが最適解だ。


「ふあぁ~……ダメだ、すっげえ眠い。早いけど、俺はもう寝るわ」


「あれ、夕飯どうするの?」


「もう食べた。んじゃお休み」


 席を立った俺は母さんに短く返し、足早に自室へと向かう。


 偶然か必然か、去り際に千夏と目が合った。


 下唇を浅く噛んでいる千夏の悔しそうな表情に、不覚にも俺はドキッとしてしまい、そのことを悟られまいと少々雑に扉を閉めるのだった。

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