短編集:ゴミ箱と愛情
上春かふか
鮮血と貴女
それは、屋上のプランターに彼岸花が咲き誇っていたころのことだった気がする。
緋色に溢れたそれは、どこか、廃れた青い春を思い出させていた。
◆
「……ねえ、私と一緒に死んでくれないかしら」
会社のビルの屋上で、煙草の煙を吐いていた俺__日比谷枻斗__は、思わず入口のほうを振り返った。
十七階建ての、真新しいビルの屋上。
そこには、一人の少女がいた。
胸元までかかる程度の綺麗な黒髪と、それにとても似合っている、綺麗な顔。
どこか、哀愁と懐かしさが漂う匂い。
「……何で初対面の女の子まで俺のことをこき扱うんだよ。意味わかんねえ、俺そんなに何でも屋に見えんのかよ」
俺は、軽口をまくしたてた。敢えて、内容には触れずに。
少女はそれに、ふっと微笑んだ。
「話を聞いてたかしら。私と一緒に死んでくれない?」と、そう続ける。
「このクソ暑い日に。勘弁してくれ、そんなことできるわけねぇだろ」
敢えて、突き放したつもりだったが、自分でも驚くほどにとがった声音が出る。
多分、暑さと忙しさのせいだ、と、勝手に決めつけた。
「死ぬなら、一人で勝手にやってくれ」
「……へえ、冷たいのね。」
「なんだ、人の態度に冷たさを感じれる程度には、余裕あるんだな」
俺は精いっぱいの皮肉を投げかける。
「その冷たさだったら、他人のことを凍死させられそうだわね」
少女は笑って、空を見上げた。
目には光が宿っている。まるで、明日の希望を見る少年のように。
「じゃあ、また」
「……もう会うことはないだろうが、来世で逢えたらな」
そう言うと、名前も知らないその少女は、フェンスへと歩いて行った。
俺は耳を完全に遮断したつもりになって、吸いかけの煙草を投げ捨てた。
「気が向いたら、葬式にでも出てやるか」
思ってもないその言葉を吐き捨てると、ビルの入り口の扉を開けた。
◆
「お前、まだいたのかよ」
「……足が踏み出せなくて」
翌日、昨日と同じように、仕事をさぼりに屋上に来た俺は、まだ地にもまみれていない少女の姿を目の当たりにした。
「やっぱ、余裕あるみたいだな」
「張り詰めている訳でもないし。叔父様は五月蝿いわね」
反抗的なその様に、どこか懐かしさを覚えて、俺はからかい続けた。
「まだ二十九だし。煙草吸ってみるか?」
ライターと煙草を取り出し、少女の目の前でちらつかせた。
「馬鹿じゃないの……。これだからアラサー社畜は」
「うるせえよ」
少女はそっぽを向き、天を仰いだ。
そろそろ帰るか、とも思ったが、もう少しで定時になる。
デスクに戻るのは超面倒だな。……もう少しここにいるか。
俺はそう決めると、少女が座るところから少し離れた場所に座り、そっと、同じように空を見上げた。ぼんやりと、オレンジがかっていて、幻想的ともいえた。
体感五分くらいだろうか、沈黙に嫌気がさしたのか、それとも、根負けしたのか、少女は口を開いた。
「……飛び降り、るわよ」
「そうか」
あまりにも短い会話、いや、会話とも取れないことばの交わしあいに、少しばかり、笑いそうになる。
「……昨日も言ったけれど、随分と興味がなさそうわね」
「どうせいつか死ぬんだ。なら、死に様も自由だろ」
煙草の先端に付いている灰が、留めていた姿を崩し、重力に従うように地面へと零れた。
「……自己満足、ね」
「そういうこった」
彼女は、「吸わせて」と、手で合図してくる。
俺は頷くと、ライターと煙草を一本、彼女に渡す。
先端に火をこぼすと、2本の指に挟まったそれを、口元へやった。
「……ふあ」
「画になるな」
漏れ出たように息を吐く彼女は、空間と同化したかのように、透き通っていて、綺麗だった。
すると、ポケットの中の携帯が大きく鳴り響く。
「やべ、磯山さんから電話だ」
「貴方の上司?」
「ああ、デスクに戻るわ」
「いってらっしゃい」
次から、煙草を余分に、一箱、持って来ようと思った。
◆
「んで、なんでまだいるんだよ」
それが、彼女へ対する毎日の一言目になっていた。
毎日と言っても、まだ5日目だが、俺は、「屋上」へ行くことを繰り返していた。
「うるさいわね……、貴方の方こそ、何故今日も来るのよ。私に惚れているの?」
「お生憎様、俺は無性愛者だ」
俺がそう言うと、彼女は驚いたように、目を見開いて呟いた。
「……ふうん。そうだったの」
今まで、カウンセラー以外に誰かにこの話をしたことは、一度とない。
すこし、頭の奥で、ピシッと、痛みが走った気がして、俺は俯いた。
気のせいだったと、思う。
「無性愛者って言ってわかるんだな」
「一応、なんとなくは。あまり理解はできないけれど」
そう言う彼女は、いつものように空を仰いでいる。
俺はそれになぜか懐かしさを感じながら、煙草の尖に火をつける。
吐き出した煙は、空に昇っていく。どこまでも、どこまでも。
「……理解も、同情さえも要らない。どうでもいいんだ、そんなこと」
深く吐いた煙に乗るように、言葉が溢れた。
その時、彼女がどんな顔をしていたかは、今でもわからない。
◆
風邪を引いた。
夢を見た。
遠い昔の、誰かの夢。
それは、君の心に焼き付いて、離れなかった人の夢。
でも、君はきっと、思い出すことができない。
彼岸花は、もう、涸れてしまうから。
◆
目が覚めたことに、何故か俺は、不快感を覚えた。
汗が滴り、タオルケットに零れる。
「今まで俺、何してたんだっけ___」
ふと、ベッドから出ようとして、崩れ落ちた。
体が、鉛のように重い。上手く、身動きが取れない。
おまけに、目が霞む。これはひどいな。
「会社、夏風邪で休んでたのか」
だんだんと意識が、覚醒していく。
本能的に、傍にある携帯を手に取り、日付を確認した。
9/27。
「まさか、彼岸、終わったのか」
体は、あの屋上に行けと、そう全体で伝えているのが分かる。
あの、鮮血のような彼岸花が咲き誇るあの場所へ。
気づいたとき、俺の体は動きだしていた。
◆
「なんでいないんだ」
鉛のような重い体を打ち、やっと屋上まで来るのに、2時間弱かかったなんて、俄かにも信じられない話だ。
ただ、そこには、彼女の姿が見えない。
「やっと、死んだのか」
死体を確認したいわけでもなく、俺は、その場所へ座り込んだ。
何故か、肩の荷が下りたような、そんな感覚だった。
保護者でもないのに。そんな感覚になるのは初めてのことだと思う。
俺は、スーツの内ポケットから、震える手で煙草を取り出す。
火をつけるが、何故か吸いたいという気にはならない。
ただ、漂っている煙が、空に昇ろうとしないのに、俺はなぜか違和感を覚えなかった。
「なんでだろうな」
理由はわかっていた。
どこへ行っても、結局のところ、自己満足でまかり通っていた。
酷くて、最低で、綺麗だった。
ふと、暑苦しい風が、体を、殴るように吹き付けた。
煙草の火は、いつの間にか消えている。
プランターに咲いていたはずの彼岸花は、違う花と植え替えられている。
もう、貴方に届くことはないのだと、自分勝手に、そう考えた。
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