第3話 オッタルの亡霊
ミッドスナッフ湖は、レフトハンドの村から歩いて半日で往復できる場所にある大きな湖だ。村の作物を育てる水もここから水路を引いている。数軒だが、漁を営む家があり、小さなボートで魚を取っては、南の町やレフトハンドの村に売りに行くのだ。
「おーい、ニムロド、今日も魚は取らないのか?」
「ロデオ爺さん、大きな声は、やめてくれ。鳥が逃げるぞ」
ニムロドは、眉間に皺を寄せる。大人になって、丸1年、17歳の日焼けした顔にはわずかに幼さが残っていた。
「お前さんは、腕の良い漁師だ。子どもの頃から、ずっとそうだった。なんで今更、水鳥を射る狩人になったのじゃ。最初は、単なる趣味かと思ったが…生活は大丈夫なのか?」
それはあまり聞かれたくない事だった。以前よりも収入が減ったのは、明らかなのだから。
「生活ができんようなら、また元の生活に戻ると良い。お前さんの恋人も、きっと納得してくれる」
「…あの女とは、まだその、いや、何でもない」
「理由は知らないが、色々あって、都落ちしてきた娘さんなのだろう? 早く赤ん坊の顔を見せてくれ。お前は儂の孫みたいなものだ。ひ孫の顔を見てから、儂も逝きたい」
「早く行ってくれ、爺さん。邪魔だ」
「すまんの」
「ごめんな、爺さん」
去っていくロデオ爺さんを見送りながら、ニムロドは呟く。
「ヒーン」
泣き声のする方向にゆっくりと歩き出すニムロド。草むらで顔を切っても気にしない。鷲の頭と馬の体を持つ空の魔物ヒッポグリフこそニムロドの標的だった。
「もう傷が癒えたのか、魔物の癖にエリクサーを使えるとは良い御身分だ」
ニムロドのクロスボウが狙うは、ヒッポグリフの頭だ。以前、体を狙って失敗したからだった。頭は小さな的だ。だが、湖で水を飲むヒッポグリフは頭を大きく動かす事はない。
これはチャンスだ。息を止め、狙いを定める。完璧に仕留められると直感した瞬間。パン、何かの炸裂音! ヒッポグリフは走りだした。まだ、まだ勝負は決まっていない! 待てよ。なぜ飛ばない? 翼を使って逃げない。これじゃ、まるで馬?
ヒッポグリフは、みるみると姿を変えていき、大きな黒い馬となってしまった。馬が走る先には、鞭を何度も鳴らす若い騎士と少年が1人立っていた。
だが、ニムロドにとっての、問題は、獲物に逃げられた事でもなければ、ヒッポグリフが馬になった事でもない。騎士と少年にニムロドが見つかった事である。草むらからはみ出た体を見られたのだ。2人は、馬に乗って向かってくるではないか!
騎馬突撃を初めて見るニムロドは恐怖した。だが、彼には武器があるではないか!
クロスボウの狙いは、馬の頭か、若い騎士。どちらでも良いから当たってくれと発射された矢は、騎士が手をかざすとあり得ない方向へ曲がって飛んでいってしまった。魔法で矢を曲げてくるとは恐れ入った。ニムロドは笑っていた。笑いながら、クロスボウのハンドルを回す。この作業がある為にクロスボウは弓のように連射ができない。
「降参してクロスボウを捨てろ。売上金目当ての犯行だと分かっているぞ」
白刃を喉元に押し付けられたニムロドは、大笑いしながら叫んだ。
「釣れた! 釣ってやったぞ! イダテン!」
殺意で満ちた赤い風が刃で斬りつけてきた。狙いは、リーマ・ダンガロア。
メギィは馬上で刃を受け止めると、力で相手をはねのけ、馬から降りた。愛馬に命じる。
「走れ!」
リーマを乗せたまま、全力で走りだす黒馬。必死に掴まるリーマ。メギィと相対する剣士は笑みを浮かべている。その時、メギィは初めて敵が女だと気づいた。
「貴女は、まさか」
女は風となり、メギィの目の前から消えた。リーマが逃げた先を目で追うと、黒馬は腹から血を噴き出して倒れていた。フルプレートの甲冑を付けたまま、馬の速さに追いつけるのはイダテンかヘルメスの血を引く者だけだ。そして、イダテンの血を引く者でリーマに因縁のある者を1人だけメギィは知っていた。
女は息絶えたメギィの愛馬とリーマを前にして、高笑いをしていた。
「アリシア・イダテン! その子は違う!」
オッタルと同じ栗色の髪をした女剣士は、メギィに言い返す。
「どこの誰かは知らぬが、何が違う。我が兄、オッタル・イダテンの敵、ロア・ダンガロアの忘れ形見はこの少年で間違いはない」
「それが違うと言っているのだ!」
メギィの振り下ろした全力の一撃を、アリシアは刀で受け止め、盾でメギィを殴りつけた。
「何が違う。兄は殺された。皇帝の命令でロアの討伐に行き、命を奪われた。それなのに、たった5年でロアの名誉は回復された。それは新しい皇帝の妃が奴の外孫だからだ。そんな馬鹿な話があってたまるか! 兄を殺した男を罵れば、それは王室への不敬罪だと! そんな理不尽があってたまるか!」
「その子を殺しても、お前の兄は…」
アリシアの軍靴がようやく立ちあがったメギィの胴体に直撃した。速さの神イダテンの血を引く者は、風よりも早く走れる。その脚力は、野生馬の4倍とも5倍ともされる。メギィは激痛に気を失った。
「やっと世の理不尽を正せる。ほんの少しだけ…死ね」
アリシアは、振り上げた刃を投げ捨てた。なぜならその剣がもはや要を為す事はないからだ。
「なんと姑息な、だが恐ろしい。魔人ロアの才能をここまで引き継いでいるとは」
リーマは、刀についた馬の血を強烈な酸に変化させていた。酸化した血液は、金属を溶かし、刀をガラクタ同然に変えた。
「恐ろしいのは、あなただ、アリシアさん。僕が本当にロア・ダンガロアの息子だという証拠はあったの? 周りの人間がそう噂するだけでそんな証拠は何一つないよ。僕は拾われた子、周りよりも少し出来の良いだけの子、かもしれない」
「お前のその魔法の才こそ、最大の証拠だぁ!」
腰に差していた短剣を抜いた時、アリシアの体は硬直した。強い魔力を神より授けられた者は念じるだけで相手の動きを封じる事ができる。
「大切な人を失う悲しみと敵を討ちたいという気持ちは分かるよ。僕が家族も友人もいない孤児なら、あなたに敵を討たせてあげても良かった。今でもそうするのが、正しいのかもしれない」
リーマは、泥を掬い、アリシアの体に投げつけていく。水分を含んだ泥がアリシアの赤い甲冑を汚していく。
「やめろ、何をするつもりだ」
アリシアの顔に泥が投げつけられると白い煙がアリシアの全身から立ち昇った。
「本当にごめんなさい」
叫びはわずかな時間で途切れ、アリシアはすぐに絶命した。酸で溶けた顔をリーマは直視できなかった。
「アッ、アリシア、アリシア!」
クロスボウを向けるよりも早くニムロドの顔に泥が投げつけられた。
「あっ、あ、ああああ! どうして」
アリシアよりも少しだけ苦しんだ後、ニムロドは命を落とした。
「どうしたというのじゃ、魚があんなに浮いている。水鳥まで…」
魚や水鳥の死体が半ば白骨化していると気づいた時、ロデオ爺さんは腰を抜かしてしまった。だが、幸いな事にわずかに溶け残った2人の遺骨に気づく事はなかった。2人はきっと、集落を出ていき、ここより豊かな地で暮らしているのだろうと生涯信じ続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます