第5話

 どこか新雪を踏むような、シャリシャリと清廉な音がする。

 とてもショックなことがあった日は、メスを研ぐ。心が落ち着くまでただひたすらに研ぎ澄ます。

 それが、彼女のルーティンだった。

 いつでも引き払えるアジトをいくつか確保しているが、IDAのオンボロな自治寮も一室押さえてある。

 エルジオン医科大学の学生でも入居可能なのである。

 ポムは、その自治寮の一室にて、東方で学んだ正座という姿勢で、やはり東方由来のちゃぶ台に乗せた砥石に向かって、人体を切り裂く繊細な刃を、一心不乱にシャリシャリシャリシャリシャリシャリシャリシャリと研磨し続けていた。切り裂いたところで十中八九は縫い合わせるのだから良いではないか。良いに決まっている。

 しかし、今彼女が切り裂いてやりたいのは、人体ではなく天体——「月」である。

 アルドが、屈託のない笑顔で言ったのだ、「オレたち、月に行ってきたんだ」と。

 古代の月は、びっくり仰天なことに、酸素の代わりに魔素を取り込む魔素呼吸とやらに適応できさえすれば、特別な装備も要さず普段着のまま闊歩して歌える場所だったというのだ!

 宇宙服よ仕事しろ!

 いや……宇宙服に仕事を、存在価値を与え給え……

 宇宙服とはそもそも、生命維持装置を衣服の形状に組み立てたようなものである。

 よって、宇宙服の研究ニアリーイコール生命維持装置の研究であり、それはエルジオン医科大学でも行われているし、ポムも適宜動員されているのだ。

 ポムは学生の身分なので、大学側の意向には渋々でも従わねばならない。

 であるにも関わらず、そんな研究をいらない子のごとく否定するような事象に憤慨せずにいられようか!?

 そして、そんなおふざけの過ぎる世界なんて滅びておしまい!……などと呪おうにも、既に滅亡しているらしく、ポムの私怨は捌け口すら見出せないまま、どす黒くとぐろを巻くばかりだった。

「ああ……どうしましょう……」

 研ぐためだけにまとめ買いしたメスが尽きてしまった。

 ポムは、思い余って、東方の故事に倣い、ちゃぶ台を盛大にひっくり返してみた。

 それでも飽き足らず、研ぎ終えたありったけのメスを、手裏剣よろしく投げ散らかす。

「魔素なんて……魔素なんて……魔素が酸素の代わりになるだなんてえぇえぇっ……」


——でも、もしもアレに魔素を添加できたなら——


「まさか……さっきのは、西方の人たちが言う『神罰』ってやつだったんじゃ?……」

 ラチェットは言った。説教部屋にて懲罰目的でぶっ放すことがある魔法の狙いを「彼女」に定めて、いつでもいけるようにしたうえで。それは、杖を鈍器のごとく構えることが随分と特徴的だった。

 さっきの……謎の雷電に撃たれたことをきっかけに、ただでさえ発狂していたポムの状態が悪化した。

 気遣わしげに声をかけたサイラスの手を払い除け、異変を察知して駆けつけたアレッサに羽交い締めにされたのだが、そんなアレッサをおぶうようにして勢い良くしゃがみ込んだ。お陰で、運悪く、サイラスの顔面にアレッサの頭突きが炸裂したのである。

 アレッサは、べこんとへこんだ蛙顔に気を取られて、ポムのことを解き放ってしまった。

 そこへ、強敵つまに感応してまたもやケルリの道から突っ走ってきたグラムまでが加勢したのだが、本気で捕縛しようと掴み掛かった衛兵のことをも、ポムは鋭く投げ飛ばしたのだった。

 だが、その後、俄に白目を剥いて、バタリと仰向けに倒れたポムなのだった。

 ラチェットは、肉弾戦は不得手なため、抜かりなく魔法の準備は整えつつも、その謎の修羅場を少し離れて固唾を呑んで見守っていたのである。魔物にも悪党にもそうそう怯んだことなどないというのに、何やら得体の知れない悪寒に苛まれているのだった。

「あら、神罰などではありませんわ。むしろ大いなる天啓に撃たれたまででしてよ」

 それが誰の声かは明白だったから、ラチェットは「ひいぃっ」と仰け反った。

 いつの間にやら、ポムはくわっと瞠目して、意識を取り戻していたのである。

 ポムは見た。仰向けに倒れた自分の腹に、アレッサが跨って心配そうな顔をしているのを。そして、両手はサイラスに、両足はグラムに押さえ込まれていた。

「ああ……私、やってしまったようですわね、すみません」

 彼女は、状況を察して、素直に謝罪を口にしたのである。

 ポムにとって、こういうのは決して初めての経験ではなかった。

 彼女は日常的に天啓を得て新薬の開発に勤しんでいるが、時折、とびきりの、雷電として可視化されるほどの天啓に撃たれると、さしもの彼女の頭脳も少々処理に手間取り、一時的なトランス状態に陥ってしまうのだ。

 今回は、魔素に関するトラウマティックなカルチャーショックを刺激されたこともあって、そのトランス状態の間にひと暴れしてしまったのだろう。

「善良な薬師」としては、なんとか挽回しなければなるまい。

「ラチェットさん、呼吸で魔素を取り入れにくいのなら、食品に魔素を添加してはいかがでしょう?」

 ポムは、アレッサに助け起こされながら、迷わず本題に入った。

「ひっ……いやいや……飲み薬ならあるのよ、魔術師用の魔素たっぷりの魔力回復薬がね。けれど、どうにもこうにもお高くつくから……」

 たとえ大きなチーズ工房を経営していても、高価に過ぎるということだろう。

「ならば、魔素たっぷりのチーズを作るのはいかが?魔素を産生するカビを使うのです。私、この辺りをあちこち見て回るうちに、そんな不逞の輩のごときカビをたまたま発見したんですのよ」

「ん?……ポム殿、そんなものをいつどこで見つけたでござるか?」

「ああ、その時は、サイラスさんではなく、別の殿方とご一緒してましたの。

 えぇーっと、データは記録してあるはず……」

 ポムは、唇をハート形にして艶然と微笑むと、一転して理知的な表情で携帯端末を操作した。オフラインで検索可能な、自作のデータベースを漁る。

 パルシファル宮殿の人々は、魔法により映像を映し出す水晶玉と区別しない様子で、それを覗き込んだ。

 ただ、サイラスは独り、開いた口が塞がらないといった風情で、長い舌をビヨ〜ンと伸ばしたまま、プルプルと震えていた。

「ねえ、サイラス……あなたってまさか、自分だけが、若い薬師のお嬢さんにチヤホヤされてると思い込んでたの?」

 ラチェットが、笑いをこらえながら、彼の脇腹を肘で小突く。

「あはは……そんなことはないでござるよ。

 ただ、拙者、少々風に当たってまいるでござる」

 サムライは、そっとその場を後にしたのだった。


 

 

 





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