第30話 意外な患者
「どうやったら覚えられるのか」
「いや、それを言っている時点でお前、どうやって国試受かったんだよ」
薬の束を握り締めて悔しそうにする桂花に、冷静なツッコミを入れる弓弦だ。暗記科目の連鎖である薬剤師の国家試験を受かったのならば、薬品棚を暗記するくらい簡単だろうに。
「それなんですよね。教科書の内容を暗記するのは簡単なんですけど、こういう空間把握が苦手というか」
「ますます現場向きじゃねえな」
「はいはい。口を動かさずに手を動かしてください」
いつまでも延々と続きそうな二人の言い合いに、ついに漢方薬のチェックをしていた法明から注意が入る。法明が見ていたのは百味箪笥で、これは小さな引き出しがいくつもある箪笥だった。引き出しには一つ一つに生薬の名前が書かれている。もちろん、桂花はまだ一度も触れたことがない。
「す、すみません」
桂花は素直に謝ったが、弓弦はべっと舌を出していた。非常に大人げない。いくら昔から知っている仲だとはいえ、今は上司なんだからねと桂花は睨んでおいた。
「いくつか足しておかなければならないのが見つかりましたね。円、発注をしておいてください」
法明は足りないものと注文する個数をメモに書き、受付で暇そうにしている円に渡した。
「はい。
「ええ」
注文用のメモを受け取った円の溜め息に、法明もこの雨ではねえと苦笑気味だ。六月も半ば、梅雨真っ只中の今、毎日のようにしとしとと雨が降っている。
そのせいで、いつもならば毎日のように元気にどこかに出掛けるおじいちゃんおばあちゃんたちの動きが止まり、暇潰しにやって来ることがない。さらには風邪などの感冒が流行る季節でもないため、薬局は閑散としていた。
「皆さんが元気なのはいいんですけどねえ」
法明がそう言って調剤室に戻ろうとした時、自動ドアが開いてむあっとした湿気を含んだ空気が流れ込んで来た。今日の午後初めての患者が入ってきたようだ。
「おや」
「あら」
しかし、中に入って来たのは前にアドバイスを求めたイラストレーターの潤平だった。前回はシルバーだった髪がモスグリーンになっている。しかもマスクをして、歩く姿はちょっとしんどそうだ。目元も少し赤い。
「すみません。京都に取材に来ていたら、ちょっと風邪を引いたみたいで」
法明と目が合うと、潤平は困ったように頭を掻いた。それからずずっと鼻を啜る。
「おやおや。それはいけませんね。ともかく処方箋をください」
「あ、はい。これ」
潤平は肩から掛けていた大きなカバンから処方箋を取り出すと法明に渡した。その間に桂花がお茶を淹れて、よいせと待合室にあるソファに座った潤平に渡す。
「取材って、普段東京に住んでいるのに来たんだ。誰かに頼むんじゃなくて」
「ああ、そう。自分で見ないと欲しい構図が解らないだろ。それにさ、この間ここに来ただろ。そうしたら面白い絵が色々と浮かんでね。それを普段からお世話になっている出版社の人に見せたらいいねってなって。でまあ、シリーズ化することになったわけよ。で、もっと資料がいるなあってことで見て回ってたら、このとおり風邪を引いちゃって」
雨の中を歩き回ったのがいけなかったかなあと、潤平はずるずると鼻を啜りながら説明した。それに桂花は色々と大変なのねと思いながらも、鼻を啜っているのが気になった。傍にあったティッシュの箱を取って渡す。
「鼻は啜っちゃダメよ。身体が細菌を外に出そうとしているんだから、ちゃんとかまないと」
「ああ、ごめんごめん。って、すっかり薬剤師だなあ。あんなお転婆だったのにしっかりしたんだな」
「なっ、お転婆ってどういうことよ」
「どうも何も、悪戯した男子を追っ掛けて、しかも廊下ですっころんでいたのは誰だよ」
「ぎゃ、何を覚えてるのよ」
余計なエピソードを覚えていた潤平に桂花は唖然とする。しかし、今や大人気イラストレーターの潤平が、高校時代の自分を覚えていたかと思うと、頭ごなしには怒鳴れなかった。
しかも昔は秀才タイプで取っつき難いなと思っていたが、大人になった潤平はまあまあカッコイイ男になっていたから、そんな些細なことを覚えていた事実に、余計に反応が困る。
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