第6話 お母さん

 桜のつぼみがほころびはじめた三月。

 駅前のアーケード街を歩いていると、突然、声をかけられた。


「あら、律くん」


「あっ、綾さんのお母さん」


 綾さんに似た品のいいお母さんが、エコバッグを手に提げ、にこやかに手をふってくれている。夕飯の買い出しに来たのだろうか?


「律くんもお買い物?」


「ええ」


「もしよかったら、ちょっとお茶していかないかしら?」


「分かりました」


 唐突なお誘いにとまどいつつ、お母さんの後に続く。

 連れてこられたのは、レンガ造りの可愛らしいカフェだった。

 どうやらシフォンケーキが有名なお店らしい。紅茶がついたケーキセットをごちそうになってしまった。


「綾には内緒ね」


 シー、と人差し指を口元に立て、クスッと笑う。

 綾さんのお茶目なところはお母さん譲りらしい。


「どう? 綾とは順調?」


「自分ではそう思っていますけど。もしかして、綾さん、家では不満とか言ってたりします?」


「いいえ、おかげさまで毎日幸せそうよ」


「それならいいんですけど。でも、ほんとうにいいのかなって?」


「なにが?」


「僕みたいなのが綾さんの彼氏だなんて」


 綾さんはしっかり者で、優しくて、他者への感謝を忘れない、素晴らしい人だ。

 正直言って、僕にはもったいないくらいの人だと思う。


 お母さんは首を横にふる。


「律くんには感謝しているわ。むしろ、こんなこと言うのはなんだけど、ほんとうに綾でいいの?」


 お母さんは冗談でも言うように、おっとりとした調子で笑う。


「綾は律くんに病気のことをどのくらい話しているの?」


「もしこれ以上足が悪くなるようなら、手術かもしれないって」


「そう……」


 お母さんは神妙な顔でうつむく。


「綾はね、今でも毎週病院に通っているの。行くたびにたくさん薬をもらってね、定期的に検査もあって。月に何万もかかることだってある」


 綾さんが今でも通院していることは、本人からも聞いていた。

 けれども、医療費のことまでは想像できなかった。

 僕はよほど深刻な顔をしていたのだろう。お母さんが慌ててつけ加える。


「もちろんお金の心配はいらないわ、親のほうでなんとかするから。それよりも……」


「それよりも?」


 言葉の続きを待つ。

 けれども、お母さんは唇を小さく震わせ、それ以上なにも言わなかった。言えなかった、というほうが正しいかもしれない。


 気づけば、お母さんの目尻には涙の粒が浮かんでいる。それをお母さんはハンカチでそっとぬぐった。


「あらやだ。ごめんなさいね」


「いえ」


 気恥ずかしそうに微笑をもらすお母さん。

 笑い方が綾さんとよく似ていた。


「もし、綾のことで困ったことがあったら、なんでも言ってちょうだいね。力になるわ」


「ありがとうございます」


 僕がうなずくと、お母さんは柔らかく微笑んだ。愛情が伝わってくる、温かい笑みだった。


「これからも、綾のことをどうぞよろしくお願いします」


 僕はすっかり恐縮してしまった。


 やがてお母さんと別れ、家路につく。

 アーケード街でなにか買って帰るつもりだったけれど、もうどうでもよくなってしまった。

 茜色に染まりはじめた春の空を見上げ、ぽつりと独りごちる。


「それよりも――いったいなんだったんだろう?」


 あの時、お母さんがなにを言いかけたのか、そればかりが気になってずっと頭から離れなかった。






 翌日。


「律くん、昨日お母さんと会ったんだって?」


 綾さんが僕の家に乗りこんでくるなり、つめ寄ってきた。

 あれ、なんでばれてるの? お母さん、内緒だって言ってたよね?


「昨日、ママが妙に機嫌がよかったから怪しいと思って問いつめたら、律くんと会ったって白状して」


 にこにこと優しいお母さんの笑顔を思い出し、納得する。

 たしかにあのお母さんは嘘が上手につけそうにない。

 一方、娘のほうはたいそうご立腹らしい。


「どうして教えてくれなかったの?」


「内緒だって言われて」


「ふうん、私よりママを取るんだ。律くんってそういう人なんだ」


「反省してます」


「今度、雪斗のガチャが来たら、律くんのお金でぶん回すから」


「ライバルの男に貢ぎたくはないなぁ」


「律くん、ほんとに反省してる?」


 頬をふくらませ、ぷりぷり怒り出す綾さん。

 すいません、そんな顔も可愛いです。


「それで、ママになにか言われた?」


「綾さんのことをどうぞよろしくお願いしますって」


 綾さんの頬が、今度はポッと朱に染まる。


「そ、そういうことじゃなくてっ。病気のこととか、そっちのこと!」


 どっちのことなのか、さっぱり分からない。

 とはいえ、もう隠すこともないので、僕は昨日のお母さんとの会話を思い出し、ありのままを打ち明けた。


「ふうん。ほんとうにそれだけ? 嘘ついてない?」


「僕は綾さんに嘘つきません」


「ダウト」


「嘘じゃないですって」


 綾さんが、じーっと疑り深い目を向けてくる。

 そして、ようやく僕が嘘をついていないと判断したのか、椅子にゆっくりと腰かけた。


「ママね、ちょっと難しいところがあるの」


 そう言えば、以前、綾さんが話してくれていたっけ。『ちょっと難しい親』だって。

 でも、実際に会ってみると、そんな感じは少しもしない。


「娘思いの、いいお母さんだと思いますけど」


「うん。それは私も分かっているし、感謝もしてる。……でもね、娘の幸せを願うあまり、愛情が思いがけない方向に進んでしまったりもして」


 綾さんは言いよどみ、ためらいがちに続けた。


「ママね、私が病気になったことを、自分の責任のように感じているの。少しもママのせいじゃないのにね。それなのに、私が病気になって以降、娘に尽くすことが罪滅ぼしだと言わんばかりに、いっそう力が入るようになっちゃって」


 たしかに、そういう面はあるかもしれない。

 目尻に涙の粒を浮かべ、困ったことがあったらなんでも力になると言ってくれたお母さん。

 その様子や言葉からは、娘を大切に思うお母さんの強い愛情がたしかに伝わってきた。


「昔ね、いい人がいるから会ってみないかって、ママがいきなり縁談を持ちかけてきたことがあって。地元の名家の御曹司だったみたい。私がそこに嫁げば将来安泰だと思ったんでしょうね。医療費の心配もなくなるし」


「会ったんですか?」


「まさか! 私の気持ちも考えないで勝手なことしないでって怒ったら、それ以降、なにも言わなくなっちゃった。でも、そういうことをする人なの」


「お母さんの気持ち、分かるなあ」


「律くんは私とママのどっちの味方なの?」


「綾さんです」


「よろしい」


 綾さんは納得顔でうなずき、


「とにかく、ママが律くんになにも言っていないならいいの」


 と、ホッと安堵の息を吐いた。


「ああ、今日はもう帰りたくない気分。このままずっと律くんの家にいてもいい?」


「僕はかまいませんけど、いいんですか? それこそ、お母さん、なにも言いません?」


「律くんは私とママのどっちの……」


「綾さんです」


「じゃあ、泊っていってもいいでしょう?」


 綾さんは瞳をうるませ、上目づかいでお願いしてくる。

 そんなに可愛くおねだりされたら、断れるはずないじゃないですか。


 こうして、僕たちは一晩を共にした。






 そして、翌朝。


 僕は、綾さんのほんとうの秘密を知ることになる――。

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