(タイトル未定)

96(くろ)

或る夜・邂逅

 その出会いは、唐突なものだった。

 半月の薄明かりの下。相手は黒いコートを身に纏い、血に濡れた剣を携えて、自身が切り捨てた屍を無表情に見つめていた。

 物言わぬ屍体となったそれは、少女を養い育てた父だ。

 否、父親というには少々横暴だったかもしれない。しかし孤児であった彼女を拾い、貴族の娘として育て上げるために手を尽くしたのは、他でもないその人だった。

(どうして……?)

 戸の隙間から音を立てぬよう後退る途中、背後の花台にぶつかった事で細身の花瓶が落ちる。

 少女はハッとした。が、既に遅い。丁寧に磨き上げられた床へ落下した陶器は、夜の静寂を破るには十分すぎる破砕音をもたらした。

 今まで動かなかった影は、特に慌てるでもなく振り向いた。まるで、最初から彼女がそこに居るのを知っていたかのように。

 黒と紅の瞳が、少女を捉える。

 凄惨な光景を生み出した筈の当人は、嘘のように美しかった。

 暗がりでもわかる程に、その肌は白く滑らかに整っている。陰影が浮かび上がらせる諸処の輪郭は、乱れなくすっきりと。閉じられた薄く形の良い唇に、鋭くつり上がった切れ長の眼。そして、月明かりを受けて淡く光を返す、癖のある黒髪。

 その全てが、完成された一つの彫像のように浮世離れした秀麗さだった——この場に似つかわしくないからこそ、恐ろしくもある程に。

 青年は、半歩こちらへ踏み出した。柔らかな曲線を描く無造作な髪が、動きに合わせて揺れる。洗練された所作でないにもかかわらず、何故か目が離せなかった。ほんの数歩の距離で他人を魅了する、そんな何かが彼にはあった。

「おい」

 ゆっくりと、躊躇うことなく近付いてきた青年が、少女に声をかける。鋭利な雰囲気には少々不釣り合いな、凪いだ声。意外なほどに澄んで響くそれを耳にしても、少女は答えない——答えられない。

「……当然か」

 一言も返さぬ少女に何を思ったか、青年は嘆息と共に吐き出す。次の瞬間には、彼の握る剣が少女の喉笛へと突きつけられていた。

 音はおろか、予備動作も全く無い。ついさっきまで刀身の半分は視界に入っていたのだが、今は滴る血の匂いまで鮮明に嗅ぎ取れる。不可思議なその剣は、本来白銀であろう場所に黒い靄を纏っていた。

「お前も対象の内だ、生き証人なんざ残そうもんなら後が面倒なんでな……」

 再び発される青年の声に少女が身じろぐ。当たり前と言えば当たり前だろう。理由も分からず養い親が殺された挙句、殺人鬼本人の顔を見たからと自分にまで危機が——それも、もう死の淵に届く距離へ——迫っているのだから。

 少女が動いた拍子に、切っ先が滑らかな柔肌を掠めた。微かな痛み、それが少女の意識を現状へはっきりと向き合わせる。

「……っ、お待ちいただけませんか?」

 今更に震えながらどうにか押し出した声は、緊張に硬くなっていた。

 少女が口を開いた事に、相手は僅かに眉を顰める。しばしの沈黙を挟み、青年は無言で剣を引いた。話を聞くだけという姿勢なのか、刃は剥き出しのまま……いや、そもそも彼の腰にある筈の鞘が無いらしい。

 右手の剣を持ち直した彼はしかし、少女がもう一度口を開くより早く行動を起こす。

 左手を部屋で最も大きな窓へ向けた青年。その掌から広がったのは複雑な術式の組み込まれた魔法陣で、少女が驚くより先に外へ向けて魔法が放たれた。

 瞬きをする間もなく全ての動作が行われる光景は異様なもので、少女が彼の行動を理解した時には、外で爆発が起きていた。

「……お前の始末は後だ」

 少女が止める間もなく断言した青年は、無謀にも窓を割って外へ飛び出していく。途端、屋外から怒号と奇声が響き渡った。

(……一体、何が起きているの……?)

 一人残された少女は、その場に座り込む。力が入らない。やがて、全身が細かく震えだした。両腕で自身の体を抱きしめ、恐怖と喪失、そして今見た全てに湧き上がる吐き気を必死に堪える。

 その背後に忍び寄る影がある事など、彼女には知る由もなかった。


______



 町が炎に呑まれていく。

 さながら地獄絵図。住民たちは阿鼻叫喚し、通りはどこも喧騒の只中だ。

 その場の全てを燃やし尽くすまで消えない炎は、青白く燃え盛っている。ただの火事などではない。明確な意図を持って放たれた、魔法によるものだ。黒煙を濛々と立ち上らせ、火花を散らしながら生存者を飲み込まんとするそれは、生きているかのように揺らめく。

 木とレンガで作られた家々が刻一刻と崩れ落ちていく中、青年は町の中央を貫く大通りに来ていた。

 逃げ遅れ町の外への退路を断たれた市民達が、次々と広場へ向けて走っていく。石畳を蹴る靴の音、指示を飛ばす怒声と女子供の悲鳴や泣き声、家族が取り残されたと喚く声、家屋の屋根が崩壊する音。全てが混沌とした状況において、黒いコートを羽織った、如何にも怪しげな彼の存在に気付く者はいない。

(……おかしい)

 青年は、現状に疑問を覚えた。

 あまりに統制の取れていない人々の有様。万が一に備えた訓練を怠るのはありがちな話だが、それにしても混乱し過ぎている。

 この町自体は貴族領主直轄のもので、交易も盛んに行われていた。小国の地方都市にしては、栄えていると言って差し支えない規模だ。

 とはいえ、町を出ればすぐ平原、少し遠出すれば森が広がっているような地域である。幾ら防壁が囲っていようと、モンスター——怪物や野生の獣の害はある筈なのだが。

(……自警組織は常駐してる。防壁に見張り塔もあった。……その割には、この状況でそれらしい奴が誰も居ねぇ……)

 怪訝な顔を隠さず、青年は周囲の様相をより具体的に把握するため、逃げ惑う人々の合間を早足で縫っていく。幸い、この騒ぎの中で彼を呼び止める者は居ない。

 彼は被害状況、炎の広がりなどを頭に入れながらも、先ほど自身が魔法で相殺したあるものを思い出す。

 今、町全体を飲み込まんと燃え続けている狂気。それと同じものが、屋敷の目前に迫ったのだ。轟々と燃え盛る町並みと同じく、誰かがあの邸宅を燃やそうとして放ったものである事は間違いないだろう。

 問題は、誰がどのような目的をもってこのような事を実行したか、である。

「……きな臭ぇどころの話じゃねぇな」

 柳眉を顰め、彼は独り言ちる。暗殺にこそ支障はなかったが、彼にはまだ始末すべき証人が残っているのだ。この程度の些事で邪魔をされるのは、ましてそのせいであの少女を逃してしまう手落ちを犯すことは、彼のプライドが許さない。

(消すのは簡単だが……どうせなら利用した方が早ぇ)

 この火事の原因は、その正体が何であれ、町にこれだけの騒ぎを起こした上で領主の屋敷にまで火を放とうとしたのだ。恐らく、青年と最終的な目的は同じだったのだろう。

 この状況は、彼にとっては非常に好都合だった。

 取り残された人々が集う広場の手前、未だ延焼の手が伸びていない路地へ入る。暗がりの中、彼は懐からあるものを取り出した。ごく簡単な魔法で導火線のような箇所へ火を付けると、それを天高く真っ直ぐに放る。

 上空に、緊急の救援要請を示す火花が散った。

 民間人ならばまず持っていないような代物。それを目にした住民達からは口々に

「騎士団だ!」

「外から信号を撃ってくれた!」

「生き延びるぞ!」

などと声が上がる。領主の名前は彼らの口から発せられない……どうやら相当に嫌われていたようだ。とはいえ、名が出たところで既に当人は亡くなっているのだが。

 青年は路地を後にする。

 町の炎の広がり方からして、広場は当面何事も無く過ごせると、彼は判断していた。あの信号を周囲の町や城塞が視認していれば、最短一時間足らずで救援部隊が派遣される。その間に片を付けなければ、恐らく信号を打ち上げた意味がなくなるだろう……そう推測するのが容易なほど、町の周辺には明らかに異質な者達が蠢いていた。

 彼には、見ずとも気配で理解できた。……バケモノの群れだ。そしてその群れが意味するのは、火事が起きてすぐ町の外へ避難した人々の、死。

 この町の人間達は、餌として文字通り「炙り出された」のだろう。合理的かつ、気付けなければ一夜にして町が廃墟と化す手順だ。

 ただ群れただけのモンスターならば、ここまで計画的な襲撃はしない。群れるという事は即ち、それらは個としての戦力が低い事を示し、当然ながら知能も低いものが大半である。しかし、何事にも例外は存在する。

 例えば、知能を有した上級種に率いられた群れの場合。モンスターの群れは性質として、頂点に立つ者には服従するのが基本である。種が異なれば長の代替わりも考えにくい。

 青年は広場に背を向け、屋敷へ向けて足を早める。もしこの騒動を起こした原因が怪物の纏め役で、町の人間にも怪しまれずにこの日を迎えたのだとすれば、答えは領主の屋敷にあると考えた。それはつまり、彼の標的も何らかの形で利用される可能性があるのと同義だ。

(……後回しにするんじゃなかったか)

 苦い顔をしながらも、一際壮麗な装飾を施された門へ辿り着く。ここまでくると炎の勢いが酷く、一般人は殆どが逃げたか、焼死したようだった。

 人の目がないことを確認し、彼はその場から、三階建ての屋敷の屋根へ跳躍する。途中、屋敷の中の気配をざっと探ってみたものの、あの少女の気配はない。どうやら既に連れて行かれた後らしいと知り、彼の口から舌打ちが漏れた。

 屋根へ着地し、屋敷裏に広がる森を睨み据える。広大な私有地に広がる森は手入れもされず、鬱蒼と茂っている。彼はしばらく森をじっと見つめていたが、やがてある一点に視線を向ける。

 森の一角、ほんの僅かに木々が隙間を空けた場所。正確に気配を探れる距離にはないが、ちらりと、月明かりに何かが煌いた。

 彼は即座に剣を手にし、建物の裏手へ飛び降りると、地に足が付くと同時に再び跳ぶ。二度目に地面を蹴った直後、ようやく気配を掴むことが出来た。少し離れて二つあり、一つは少女の、もう一つは……彼のよく知る部類の気配だ。そして三度目、視認したのは先の少女と、ガウンを羽織った恰幅のいい壮年の男。男が、モンスターの化けた姿であるのは言うまでもない。

 木々を避けて、四度目の跳躍。今度は上へ。その勢いに地面から土くれが飛ぶが、彼は気にも留めない。

 生い茂った葉から更に上、十数メートルの中空で、手中の剣を袈裟に振り抜く。軌跡は巨大な白刃と化し、暴風にも勝る疾さで男の背中目掛けて飛んでいく。

 しかし、男とて周到な計画を練ったほどの知能を持ち合わせた、人外の存在である……空を切り裂く刃がその背を捉えるか否かの所で、気付かれた。男は腕を変形させ、青年の放った攻撃の軌道を逸らし、受け流してみせる。

 こちらを振り返った相手の表情は、確かに青年を視界に捉えて、ニタリと笑っていた。

「チッ……!」

 その事実が、青年を苛立たせる。

 彼は、あの一発で仕留めるつもりで攻勢を仕掛けた。多少手緩くとも、たかが人間に化けられる程度のモンスターであればそれで十分な筈だった。

 自身の読みが外れたことも相俟って、青年の形相が険しくなる。得物の柄を握り直し、真っ直ぐに標的を見据えると、落下の勢いそのままに着地した瞬間、猛スピードで駆け出した。

 急速に距離が縮む。生い茂る木々の間を縫いながらだというのに速度はどんどん上がり、遂には一飛びで背中を刺せるまで近付いた。ちらりと男が振り返った瞬間を狙い、彼は男の頭上へ跳躍する。

「まずはてめぇの首からだクソ野郎……!」

 そして低く唸りながら、剣を大上段から振り下ろそうとした。しかし相手も既に彼がどう来るか理解していたようで、周囲に複数の魔法陣を展開し始める。

 ……が、反応の速さで青年が上回り、魔法陣が展開しきる直前に剣を男の脳天へ投げ落とす。

「ちぃ…っ!」

 直上からの超速攻に防御が間に合わず、男は魔法陣の展開を諦めて横へ逃げる。投げられた剣はそのまま、ガスッ、という鈍い音を立て地面に深々と突き刺さった。青年は突き立った剣の傍らへ着地すると、自身を忌々しげに睨む男へ向き直る。

「全く、とんだ邪魔が入ったものだ。もう半月もすればあの小娘が手に入ったというのに……!」

 怨嗟を吐き出す声は、人間のそれとは大きくかけ離れた、残響が重なる不気味なものだった。それを聞いてもなお、青年は怯まない。

 男……否、人の皮を被った怪物は続ける。

「貴様、誰の差し金だ!? あの程度の人間など放っておいてもどうせ死んでいただろうが! なぜわざわざ殺しに来た!!」

 それこそ吠え掛かる勢いで、怪物は捲し立てた。いつの間にか変化は半ば解け、長く尖った耳と角が覗き、白目が黒く塗り潰されたようになっている。化け物本来の姿が徐々に露わになる中、青年は相手の疑問も怒りも、

「煩ぇ」

 と一言でもって切り捨てた。

「てめぇの都合なんざ知るか。こっちは仕事だ」

「こ、の……クソガキがぁアァァアアア!!」

 淡々としながらも威圧の込められた言葉に、怪物は完全に逆上した。

 咆哮するその身体はみるみる内に数倍の体積になり、ガウンは破け、肌の色は青黒く染まる。前腕には硬質の棘が並び、手足の指には太い鉤爪、背には巨大な翼が四枚。顔付きは人間よりも犬や狼のそれに近い。腰から伸びる太い尾の先は、銛のような形状になっていた。

 現れた姿は凶悪凶暴そのもの、普通の人間であればまずその威容に圧倒されるだろう。モンスターとしては上級、それも捕食による強化を繰り返したであろう個体だ。

 しかし、青年は怖気付くこともなければ、相手が変容している間に攻め込むこともしなかった。まるで、怪物が全力を以ってしても関係ないと言いたげに。

「貴様ぁ……この姿を見て、生きて帰れると思うなよ……!!」

 数段低くなった声で怪物が唸る。それを聞いた彼は地面に突き立っていた剣を手元も見ずにあっさりと引き抜き、「そう脅せば竦むだろうな」と興味が失せたような声音で返した。

 剣先の土が、無造作に振るって払われる。

「ふん、がよく言うわ。その程度の力で何が出来る!」

 怪物が吼え、拳を地面に叩きつけると同時、青年の方向目掛けて地割れが走った。

 彼は、それを自身に到達するギリギリの所まで待つ。地面の亀裂が足先に届くや否や、彼の姿は忽然と消え失せた。全く音も無ければ残像すら無い。

 怪物が彼を再び認識した時、彼は既に背後に立っていた。姿勢は消える前と何一つ変わらず、唯一変化があるとすれば……彼の持つ剣の切っ先に、どす黒い液体が付着していることぐらいであろう。

 怪物は、それが何を意味するか、理解するのが一瞬遅れた。

 亀裂が入る。怪物の全身に、陶器が割れる瞬間を収めたかのように。

「……失せろ、耳障りだ」

 青年の声に怪物が振り向こうとしたその時、ズシャ、と何かが滑り落ちる音がした。精妙な均衡を以って維持されていた怪物の体が、次々と崩れ落ちていく。ボタボタと肉塊が地面へ積み重なり、やがて怪物の輪郭は末端から崩れ去った。

 物言わぬ屍肉と化した相手に一瞥すらすることなく、彼は次の……本来ならこちらをこそ優先すべきである目標の少女の気配を探す。先ほどよりかなり森の奥深くに分け入っているが、追いつけない距離ではない。始末するだけなら、その首を刎ねれば終わりだ。

 ……終わりの、筈なのだが。

「…………」

 青年は、彼女を最初に感知した時から、違和感を抱いていた。

 彼が知る情報では、本来始末すべき対象は、彼が既に殺害した男のみ。警戒要素としてその娘と側近の情報が入っていたが、いずれも只の人間で、魔力を持たないとされていた。

 ところが、実際には魔力を持つ存在が居た。あの少女と、今しがた始末した、恐らく側近だったモノ。これらを踏まえれば、何らかの情報操作が加えられたのだと彼にも容易に推測出来る。

 先程、細切れになった怪物が口にしていた言葉。もうすぐで手に入るところだった……憎しみも露わに吐き捨てた真意がどうであれ、彼女にはそれだけの“価値”があるということだろう。周到に計画立てて手に入れようと思えるだけの、何かが。

 青年は少しの間、考える。先の可能性、重きを置くべきもの、自分が為すべき事。それら全てを秤に掛け終えた瞬間、青年は跳躍していた。

 黒衣が逃げる少女の背中を追う。夜の森を駆けていく後姿は、緩やかにうねる金の長髪に白の寝間着と、あまりにわかりやすい。月明かりが照らし出す肢体は細く、か弱く見えるが、その速度は落ちなかった。

 懸命に走る体を捕らえるより先に跳び越して、彼は再び黒い切っ先を突きつける。しかし。

「…………!」

 喉元で止まるかと思われた剣先は、夜目にも白い細首に、一筋赤い線を残した。

 痛みはあろうに、華奢な体は走ることを止めない。少女の翠の目には彼の姿が映っていないかのようで、明らかに逃げ出す前と様子が違った。

「……あの野郎、余計な土産残しやがって」

 青年は少女を目線で追いつつ、今日一番の渋面になる。誰の仕業かは判りきっていた——例の怪物だ。少女本来の気配の内に、僅かにだが、怪物のものと思われる魔力が紛れている。魔法や魔力の扱いに長けていれば跳ね返せる程度の、しかしながら人間にとっては対処の仕様が無いもの。

 魔術。魔法よりも手軽なそれは、魔法に慣れ親しむと意識しなくなってしまうものでもあり……青年は今この時まで、その存在をすっかり失念していた。その本質は呪いであり、現状において彼では解除できない。

(……待てよ。あの先は……)

 このまま当初の予定通り抹消すべきか、と逡巡したところで、少女が走っていった方向に何があるかを思い出す。

(あれは“手に入る”とだけ言った……俺を殺せるつもりでいたなら、可能性はあるか……!)

 改めて己の記憶にある地図を確認し、怪物の言動も鑑みる。

 少女が向かう先には、海に面した断崖絶壁がある。当然、この状況では崖から逆さに落ちて、海の藻屑となるだろう。だが……もし、そうなる前に回収する算段であったのならば。彼女が落下していく最中に、空中で受け止めるなりして連れ去ろうとしていたのであれば。

 否、仮に逃げることだけが暗示の内容であったとしても、記憶が曖昧な状態で崖の縁に自ら立っていたとなれば、多少なりとも混乱するだろう。青年でなくとも、その隙を突くのは簡単だ。

 どちらでも虫唾が走る事に変わりはなかったが、最悪の場合を考えると時間は無い。何より、少女が死んだとしても、その情報が外部へ漏れてしまう事だけは避けなければならないのである。彼が取るべき行動は、実質一択だった。

「緊急通達……コード“X”、目標変更。抹殺対象一名を保護する」

 青年は中空へ向けて呟く。それは至極端的な報告のようであり、青年の宣言でもあった。即ち、この目標変更に限り、という布告。

 一方的な宣告は、無感情な機械音声に承諾された。

《コード“X”、目標変更を確認。緊急通達、及び特務権限により状況共有優先度を——》

 皆まで聞かず黒影が跳ぶ。

 解呪は不可能、街の騒ぎが収束すれば当然、屋敷にも調査の手が及ぶ。領主の最期が露見するのは時間の問題。となれば、この状況が発覚するより前に攫うしかない。

 再び距離を縮め、月明かりの映える色白の肢体を正面に捉えつつ、青年は先程と打って変わって声を張った。

「ゲート開けとけ! ガキ引っ掴んでそのまま飛び込む!」

 返答を待たずに通信を切ると、勢いを殺さず跳躍した彼は少女の衣服を片手で掴み——吸い込まれるようにして、忽然と消える。

 後に足跡を辿った周辺の騎士団員たちは、口を揃えてこう言った。

 「空間ごと切り取られたようだ」と。

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