婚約破棄の後始末 (7)
・・・・・・・
午後を少し過ぎた頃、ダリヤはイルマの美容室を訪れた。
ドアをノックして中に入ると、ちょうど女性客が髪を切り終わり、帰っていくところだった。
「イルマ、昨日はありがとう。これ、よかったら夕食に食べて」
ハムとソーセージの入った大きめの包みを、待合スペースにあるテーブルに置く。
「ありがとう、ダリヤ。遠慮なくもらうわ。でも量が多いわよ。夕飯はうちで食べていきなさいよ」
「うれしいのだけど、ちょっと仕事を片付けたいから、また次に誘って」
ダリヤは言い終えて、ふと目の前の大きな鏡を見た。
無造作にまとめただけの重いこげ茶の髪、化粧っ気のない疲れた顔に黒ブチの眼鏡。そんな暗い顔の女がこちらを見ている。
「イルマ、これからの予約はある?」
「今日はもうないわよ」
「お願いしてもいい?」
「もちろん。どんなふうにする?」
「ばっさりやっちゃって。あと……色も元に戻して」
ダリヤの髪は、染めていなければ濃い赤だ。母と同じ色らしいが、確かめるすべはない。
美しい朝焼けのような髪。かわいい
子供の頃は、父と同じ砂色の髪に憧れた。
目は父と同じ緑だったから、髪も同じようになりたかった。
「思ったより長くなってるわね。どこまで切る?」
「作業中はまとめておきたいから、そのぎりぎりで」
髪をほどいてみると、背中の中頃まであった。思ったよりも長い。
店内の椅子に腰を下ろすと、イルマが髪に丁寧にブラシをかけてくれる。
「元々のカールがあるから肩より少し上……これくらいで切っていい?」
「ええ。あとは任せるわ」
イルマはうなずくと、ダリヤに白いケープをかけ、手慣れた動作で髪を切りはじめる。ハサミの軽快な音が繰り返し響いた。
「ダリヤ、婚約してから、ずっと髪を伸ばしていたわよね」
「オルランドさんの希望だったから。髪は長い方がいい、落ち着いた色の方がいいって。長くなってからは、家で染めるのが大変だったけれど」
「元々の色の方が、肌に合ってきれいなのに」
「でも、赤って派手に見えやすいから……」
「ねえ、元々の髪の色が派手って、あたしは完全な言いがかりだと思うわよ」
ハサミを休めぬまま、イルマは少しだけ口をとがらせた。
ダリヤの長い髪が、次から次へ、磨かれた木の床へと落ちていく。
「うちに来る人で、婚約や結婚してから、地味に見えるようにしてくれって言うのは、たいてい婚約者か旦那さんの希望よ」
「やっぱり、仕事か家の都合が多いのかしら?」
「建前はそうだろうけど、あたしは違うと思う」
イルマは少しだけ手を止め、鏡のダリヤと視線を合わせた。
イルマの耳には、鳶色の石がついたピアスが光っている。マルチェラの目と同じ色だ。
「自分の女を地味にさせておきたいって、自分に自信がないからだと思わない?」
「そう?」
「きれいにしたら、他からとられるかもしれないって不安なんでしょ。男なら、自信を持ってどんと構えててほしいわ。それに、自分の女を信じてほしいじゃない」
「そうかもしれないわね……」
ダリヤはうなずいた。
だが、それは自分とまったく結びつかない。
トビアスは、ダリヤをとられる心配など、まるでしていなかった。
むしろ自分が男をとられた側になるわけだが、もう惜しいとも思っていないのでいいだろう。
髪を切り終えると、店の端の洗髪台へ移動した。
イルマは水の魔石と火の魔石でお湯を作り、染めていた色をとるための薬剤を溶かすと、ダリヤの髪を浸していく。その後、液体石鹸で二度、丁寧に洗い、リンスをした。
前世そのままの『ドライヤー』という魔導具は、ダリヤが子供の頃、父が開発したものだ。
正確には、ダリヤの父とダリヤの合作である。
魔導具の勉強を始めたばかりの幼い自分は、風と火の魔石を使い、小型で温風の出せる機構を組んだ。父に内緒で作って驚かせようとしたが、習っていないため、出力計算がよくわからない。
適当に作った結果、できたのはコンパクトながらも見事な『火炎放射器』だった。
うっかり作業場の壁を焼き焦がし、普段温厚な父から大きな雷を落とされたのを覚えている。
その後、理解してくれた父と二人で大いに盛り上がり、翌朝には髪を乾かすのに最適なドライヤーが完成した。ちょうど休暇から帰ってきたメイドに、幼い子供に徹夜をさせるとは何事かと、その後に父が怒られていたのもなつかしい思い出だ。
「よく似合っているわよ」
「ありがとう。軽くなって、すっきりしたわ」
鏡の中、赤い髪の女が笑う。二年ぶりの艶やかな赤が、まだちょっと見慣れない。
「お客さんもちょうどいないし、コーヒーでも飲まない?」
イルマの誘いにうなずいて、店から家の方へ移動した。
・・・・・・・
「引っ越しの片付け、手伝いに行こうか?」
「大丈夫。そんなに荷物もなかったから」
イルマからコーヒーを受けとると、いつもは入れない砂糖を少しだけ入れた。
「昨日、マルチェラから大体聞いたわ。月並みなことしか言えなくて悪いけど、あんなの、別れて正解よ」
「そうね、私も別れてよかったと思うわ」
ダリヤもきっぱりと言いきった。
「……今日、そのオルランドさんが塔に来たの」
「オルランドさん……そうね、もうトビアスなんて呼ばなくていいわよね。で、さすがに反省して謝りに? それとも、思い直したからやり直してくれとか?」
「いいえ。新しい婚約者に渡すから、婚約の腕輪を返してくれって」
「ばっ」
イルマのコーヒーとテーブルが、大変かわいそうなことになった。
「ば、馬鹿、じゃ、ないの!?」
むせながら怒るイルマに、ダリヤは慌てて背中をさする。
「ごめん! 飲み終わってから話すべきだったわ」
「いえ、それはいいけど、あの男、何考えてるのよ? ダリヤの腕輪をどうするの? 石を取って新しいのにつけるわけ?」
「そのまま使うんじゃないかしら。時間とゆとりがないのですって」
「それこそ馬鹿じゃないの! まさか、ダリヤ、返したの?」
「ええ、頂いたイヤリングもお付けして」
「両方とも売っぱらっちゃえばよかったのに。けっこういいお金になるでしょ」
確かに、売ればそれなりにはなっただろう。
お金は生きていくのに必要だ。家族なし、結婚予定なし、手に魔導具師という職はあるが、素材代と研究費がかなりかかる仕事なので、貯金はかかせない。
だが、あのときは、とにかくトビアスとのつながりを即座に絶ちたかった。
「とにかく、つながりを切りたいとしか思えなかったのよ。もったいないかもしれないけど」
「まあ、もう顔も見たくないっていうのは本当よね。わかる気がするわ。ダリヤは魔導具師なんだから、頑張って働けばいいわよ」
イルマはコーヒーを入れ直し、椅子に座った。
カップに砂糖を入れ、ぐるぐるとかき混ぜつつこちらを見る。
少しだけ、その目に暗い影が宿った。
「……ねえ、ダリヤ。トビアスの話、広めようか? 少しは仕返しになると思うから。うちのお客さんに言えばすっごく回るわよ」
「やめて。あれと婚約していた私のことも広まるじゃない。同情されまくるのも辛そうだし。もう今回の婚約は、私の『黒歴史』になったから」
「『黒歴史』……ふふ、うまいこと言うわね」
前世での言い回しは、こちらでもうまく通じたらしい。
イルマは笑いながら、ダリヤにも二杯目のコーヒーをいれてくれた。
「あんな男、さっさと忘れることよ。ダリヤなら、きっともっといい人が見つかるわよ」
気を使ってくれる友人の言葉だが、どうにもうなずけなかった。
次の恋愛、そして、結婚。どちらもぴんとこない。それどころか、ひどく面倒に感じる。
「もうその方面はいいかな……仕事の方が面白いし」
「ダリヤは本当に魔導具が好きだものね」
「ええ。いっそ魔導具師の道をきわめて、白髪
「友人としては止めるべきなんだろうけど、なんか、それもかっこいいわ……」
二人は時折笑いながら、夕暮れ近くまで話し込んでいた。
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