婚約破棄の後始末 (5)
・・・・・・・
馬車でしばらく移動すると、王都を囲む高い石壁が見えてきた。そこに見えてきた
緑の塔──知っている人にはそう
ダリヤは幼い頃から父とずっとここに住んでいた。
父が亡くなってからは独りで住み、今朝、結婚のために出てきた場所である。
この塔で暮らすこともできたが、トビアスは中央区の立地にこだわった。もっと多くの魔導具を作り、販売するには、商業ギルドや自身の実家である商会に近い方がいいというのが彼の言い分だった。
塔の敷地の周りは、成人男性の身長より、やや高めの濃茶のレンガで囲まれている。
その壁の切れた部分に、馬車が通れるほど広い銅色の門があった。
ダリヤは一度馬車を降りると、門の一部に触れる。
それだけで、門は左右にするすると自動で開いた。
「何回見てもこれ、便利だよな」
「運送ギルドの扉が、全部これだったらいいですね……」
この門は、登録された者が軽く触れるだけで開く。倉庫の出入りでは厳重な扉ほど開閉に時間がかかる。運送ギルドの者からすれば、門自体よりも扉の自動開閉の機能の方が欲しいところだろう。
王城や高位貴族の門でも自動開閉式のものはあるが、そちらは結構な量の魔石と管理人をおく必要があるそうだ。
だが、ダリヤの知る限り、この門は特に魔石の供給をしたこともないし、管理もしていない。
この門を設計、設置したダリヤの祖父は、設計図を残すことも口伝も行わなかった。仕組みと機構を確認するには門を一度解体しなければいけない。
父はそのうちに解明しようと言いながら、その前に亡くなってしまった。
「これ作ったのは祖父なんだけど、設計図も何も残していなくて……もし、機構がわかって再現ができそうだったら、真っ先に運送ギルドに売り込みに行くわね」
「期待してる」
「心の底から待ってます!」
真剣すぎる声に笑顔を返して、ダリヤは馬車を降り、塔の鍵を開けた。こちらは普通の金属の鍵である。
そうして、荷物の運び入れがはじまった。
運送ギルドの者は、魔法による身体強化を使える者が多い。ダリヤが持ち上げるのも辛い箱も、重い家具も、軽々と持ち上げて塔の階段を上る。少ない荷物はあっという間に運び終わった。
「これで全部だな。じゃ、サインを頼む」
「ありがとう、いろいろと……本当に助かったわ」
作業確認の書類にサインをすると、運送ギルドの者達はダリヤに挨拶をし、馬車へ戻っていく。
なぜか、マルチェラだけがその場に残った。
「今日の夕食がないだろ、
「ありがとう。でも、保存食もあるし、今日中に荷ほどきを終わらせてしまいたいから」
「……あんまり無理するなよ」
門の前で見送ろうとすると、マルチェラが一度馬車に戻り、大きめの手提げを手渡してきた。
麻布の手提げの中には、ダリヤの好きなクルミパンと赤ワインが入っていた。
「これ、ダリヤちゃんが家に来ないって言ったら渡してこいって、イルマが」
「ありがとう。本当にいい奥さんね」
「いい友達、だろ」
「ええ……」
じわり、鼻の奥が痛くなる。
だが、ここで泣いてしまったら、きっとマルチェラは無理にでも家に連れ帰ろうとするだろう。
これ以上の迷惑は絶対にかけたくない。
イルマは勘がいい。
きっと自分が今日は塔にこもり、誘っても出てこないことを予想していたのだろう。
イルマはダリヤの
「さっさと片付けちゃうから。落ち着いたら、イルマと食事に来てね」
「ああ、そうさせてもらう」
なんとか笑顔を作り、ダリヤは馬車を見送った。
ここで座って落ち込んだら負けな気がして、ダリヤは荷物を片っ端から元に戻しはじめた。
一階の研究室と倉庫に箱の中身を戻し、三階の自分の部屋、クローゼットとドレッサーに中身を入れる。
クローゼットとドレッサーをそのまま使うのは気が引けたので、好きな香りの
物に罪はないし、父が大切にしていた家具でもあるので、後は忘れることにした。
荷ほどきと収納をすべて済ませると、すでに真夜中過ぎだった。
ダリヤは二階の台所とつながった居間で、遅い夕食をとることにする。
ソファに座って、ワインを飲み、クルミパンをかじる。香ばしいクルミいっぱいのパンは、赤ワインとよく合った。
クルミパンを食べ終えると、非常用の保存食の袋から、ナッツとドライフルーツを出す。そして、続けて赤ワインを飲む。
なんとも忙しい一日だった。
引っ越した当日の新居で婚約破棄。ギルドで手続きをして、また塔に引っ越し。
今日、一番驚いたのが、トビアスの浮気である。
真面目な彼は、結婚したらそれなりにいい夫になるだろう、魔導具師としても一緒にやっていけるだろう、そう思っていた。情熱的な恋愛表現など一度もなかったけれど、これから共に穏やかに暮らせればと願っていた。
だが、結婚前日、新居に浮気相手を連れ込むとは。いくらなんでも、許せることと許せないことがある。まあ、おかげで未練だけは完全になくなりそうだが。
「案外、泣けないものね」
一応、失恋でもあるはずだが、涙がまるで出てこない。
グラスのワインをがぶりと飲み、ドライフルーツをかじった。
飲みながら、トビアスとの思い出をたどっても、魔導具について話したこと、一緒にした作業のこと、納品や見積もりの相談──それ以外が、まるで思い出せない。
ああ、そうだ。
自分はまだ、トビアスを愛していなかった。
ワインを飲み終え、少しだけ涙がこぼれたのは、別れのせいではない。
今はもういない、父のことを思い出したからだ。
カルロがいたら、この場で二人で怒り、飲みまくって、その後は笑い飛ばせただろう。
ちょっと気弱になってしまったのは、赤ワインの飲みすぎに違いない。
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