5.手を繋いで歩きませんか?-2


 つつがなく朝から昼までを過ごし――朝食、昼食共にノルデンフェルト前公爵とご一緒させて貰った。朝の時にマデレイネについて聞いてみたら、「まぁ……悪いご令嬢ではないですな」と苦笑いをされてしまった――、あっと云う間にお茶の時間が迫りつつあった。

 エルヴィーラの帰還予定時刻は明確には決まっていないものの、後少しだろうとヘイスが云うのでランヴァルトは玄関で今か今かと待ち構えている。広いエントランスをうろうろする姿は情けないだろうが、目を瞑って欲しい所だ。

 ヴェルトからは「飼われたての子犬がご主人様待ってるみたい」と云われてしまった。ヘイスが無言でヴェルトのしっぽを握り絞めている。世界の損失なのでやめて欲しい。

「そろそろ旦那様ランヴァルトがバターになるのでは?」と他の使用人たちも囁き始めたあたりで、外からラッパの音が響き渡った。


「エルヴィーラ・クラース・フォン・ラーゲルフェルト様、お越しで御座います!」


 門番の声はよく通る。張り上げていても甲高くはならず、耳障りが善かった。

 ランヴァルトは慌ててエントランス中央へと立つ。足音でヘイスとヴェルトが両脇へ控えてくれた事を知った。

 侍女が二人で、玄関の大きな両開きの扉を開ける。陽光が室内を照らした。シルエットでさえ美しい女性が、威風堂々と入ってくる。その後に続く大勢の人々は、女性が立ち止まると同時に跪いた。室内に居た使用人たちも同様に跪く。

 ランヴァルトだけは立ったまま、「云おう、絶対に云おう」と決めていた言葉を誰よりも早く口にした。


「おかえりなさい、エルヴィーラ様」


 何かを噛み締めるように、三秒エルヴィーラは目を閉じた。それからしっかり瞼を開けて、太陽より輝いている金の瞳でランヴァルトを見る。


「――ただいま戻りました、ランヴァルト様」


 にっこり、エルヴィーラは笑って云った。黄金の目は細まり、口紅を塗った艶めく唇は弧を描く。それを見ただけでランヴァルトは嬉しくなって、だらしなく笑ってしまった。

 エルヴィーラが帰って来てくれた。ただいまと云ってくれた。その事が嬉しくて嬉しくて堪らない。

 おかえりなさいを云える事。それに笑顔で応えてくれる人がいる事。それはとても幸せな事なのだと、ランヴァルトは知っていた。

 家族が居なくては出来ないやりとりなのだから。


(……ん?)


 ランヴァルトが一人で感慨深げになっていると、エルヴィーラからすっと表情が抜けた。それから、瞳孔を開いてじっとこちらを見つめて来る。

 無表情で凝視されて怖いのだが、不思議と昨夜のものとは違うような気がした。

 昨日の無表情が自分でも予期せぬ事態に遭遇し、一度体勢を立て直すための生理的行為だったとすれば、今のは自分の意思で余計な行動を制御したと云うべきか。

 自意識過剰と云われそうだが、エルヴィーラは今ランヴァルトを見つめる事だけに集中している。そんな気がしたのだ。


「……だんなさま、エスコート」


 黙り込んだランヴァルトとエルヴィーラのせいで沈黙が広がったエントランスに、ヴェルトの呆れた声が落ちた。

「そうだった」と慌てたランヴァルトだが、表面上はできる限りスマートさを心がけて、エルヴィーラに上へ向けた手をそっと差し出す。エルヴィーラもまた、にこっと微笑むと手を重ねた。

 慣れてはいないが練習を頑張ったランヴァルトは、問題なくエルヴィーラと腕を組む。自分の肘に置かれたエルヴィーラの手の平に、いつも心臓が鼓動を早めた。

 エルヴィーラが来る度に、エスコートするのは当然ランヴァルトの役目で。これまで自宅で何度もして来たと云うのに、ランヴァルトはいつも初めての心地になる。


「……お茶の用意は出来ています。サロンへご案内しますね、エルヴィーラ様」

「はい、ランヴァルト様」


 顔を合わせてニコッと微笑み合う。それに伴って周りの人々も立ち上がり、各々の職務を果たすべく動き出した。

 自分には勿体ないほど大きく、エルヴィーラのお陰で美しくなった屋敷の中。以前はただの通路でしかなかった廊下を歩く。張り替えられた壁紙、敷き直された毛足の長い絨毯、壁際に飾られているのは高名な芸術家たちの手による絵画などのオブジェ。一つ一つが数千万から数億の価値を持っている事実に、最初ランヴァルトは気絶しそうになったものだ。それにも少しは慣れてこうして近くを歩けるようにはなったが、直視はまだ出来ない。目が潰れる。


「……エルヴィーラ様、テンペスト帝国の皇帝陛下はお変わりなく?」

「えぇ、相変わらずで。あぁ、そうそう。他国よそへ嫁いだ妹君の忘れ形見である甥御さまが、ようやく想い人と婚約出来たと、ご機嫌でいらっしゃいましたよ」

「それは善かったですね。お祝い申し上げなくては」


 さらっと重要情報を出された気がする。大帝国を治める皇帝の機嫌の善し悪しは、そのまま政治・外交へ直結するからだ。しかしランヴァルトはなるべく平気な顔をして無難な返事をする。ノルデンフェルト前公爵の教育の賜物だ。

 以前であれば「なんでそんな大事な情報、世間話にしちゃうんですか?!」と心で悲鳴を上げて冷や汗を掻いて終わりだった。少しは自分も成長しているのだろうか。

 腹を割って話すのはサロンについてからだ。ここはまだ他人の目耳が多すぎる。それくらいの判断は、ランヴァルトにも出来るようになっていた。

 目指すサロンは一階の南端。日当たりもよく、前庭がよく見える。エルヴィーラ謹製の防衛魔導陣のお陰で、盗聴や盗撮の心配もない場所だ。


「……何か騒がしいですね」


 当たり障りのない世間話――だと思いたい――をしていると、エルヴィーラが扇子で口元を隠しながら云った。彼女の視線は裏庭のある方向へ向いている。朗らかな表情が、機嫌の悪い物へと一瞬で変わってしまった。


「……ルーカス」

「御意」


 執事の名を呼べば、それだけで彼は察してくれた。

 エルヴィーラをエスコートするランヴァルト、その側には護衛のヘイス・ヴェルトの双子が控えていたが、他の使用人達もつかず離れずな距離で付き従っている。その中でルーカスを呼んだのは、単純に一番命令がしやすかったからだ。

 ルーカスはランヴァルトたちへ頭を下げると、品のある早歩きでエルヴィーラの視線の先へと向かう。走っていないのに速度がある。しかも動きが洗練されていた。自分の執事凄いな、と感心してしまう。

 そうして彼の姿が見えなくなった直後、ガシャンと物が壊れる大きな音が聞こえてきた。次いで金切り声まで聞こえてくる。

 いやな予感がした。


「うっせー。なんなのマジでー」

「賊ではないと思いますが……。御前、いかがしましょうか?」

「この声、聞き覚えがある」


 ヴェルトとヘイスがひょいと前に出てきて、ランヴァルトたちを庇う位置に立った。彼らの言葉を聞いているのかいないのか、厭なものを聞いたと云う顔で、エルヴィーラが云った。


「あの身の程を弁えない、婦人のものだ」

「えっ」

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