学究ノート#1

しゔや りふかふ

学究ノート#1

 すべての学(哲学、数学、科学等々)や、理解・経験は今将に見えている事実に基づいている。

 もし、今将に見えているものと、真の事実とが異なるならば、すべてが基礎から崩れ、為すすべすらもなく、ただ、現実しかない状態になる。

 むろん、その『現実』を定義すべき辞はあり得ない。

 経緯なく、ただ、唐突というべきもの。因子・由来・由縁・縁起・摂理・理論・真贋・理解・思惟・意識をなせない。

 ありとしあらゆる捉え方は絶空となり、何の観を構築しようものか、どのようにしてかたちを定められようか。未遂不收である。

 

 

 もし、今まさに見ている事実と真の事実とが合致しているならば、どうであろうか。

 しかし、我らの起源を慮れよ。

 我らは有機分子であった。それらは化学反応を起こした。分子同士が繋がっていく。さらに、塩基や糖やリン酸が結合し、リボ核酸分子をなした。それらは脂肪の膜に包まれ、原始的な細胞の原形になる。うちには糸状の核酸があった。

 結合は短時間で壊れるが、散佚した素材を再び結合する。新陳代謝の原形であった。次第に長く安定を保とうとする。

 やがて、自らの複製を生み始めた。遺伝情報を設計として複製を実践し、複製にも遺伝情報を持たせ、原始的な遺伝物質は高度化し、リボ核酸はデオキシリボ核酸へと変じていく。

 なぜかわからないが、物質は結合し、かつその形を存続する方向へ動き、不可逆的であった。

 その結果がすべての学であり、理解や経験である。あまり前段の説と変わらない。

 

 

 我々の思惟はそういう化学反応でしかない。

 さらにニューロン(神経細胞)を見よ。偉大な思想も哲学もインパルスによるものである。紛れもない事実だ。それこそが唯一の事実だ。

 我々はそういった化学的な現象のうちに起こるエゴ・トリックでしかない。あたかも主体者(人、人格、個人)がいるかのような、捏造でしかない架空感覚を現象させる絡繰りである。

 神経細胞は、細胞体(細胞核がある中心)、樹状突起、軸索から成る。

 樹状突起は刺激を受け取る場所で、入力装置。軸索が出力装置である。

 軸索にある軸索丘(軸索の起始部、軸索小丘とも)という部分で、先ほどのような要領で、インパルスが起こると、軸索がその軸索末端から神経伝達物質(グルタミン酸など)を次の細胞の樹状突起へと飛ばす。発する側の軸索末端と、受ける側の樹状突起の間隙を、シナプス間隙と言う。

 シナプス間隙を超えた神経伝達物質は受け側の樹状突起の受容体にキャッチされる。すると、どうなるか。特定のイオン・チャネルが開く。

 詳細に言えば、細胞は細胞膜に蔽われているが、脳神経細胞の膜の内側は、膜の外の組織液に比べると、カリウム・イオンが多い。膜の外と比較すれば、マイナスに帯電している。細胞膜の外は、ナトリウム・イオンが多い状態である。そのイオン濃度の偏向がうちと外との電位差を做し、電位差は概ねマイナスの七十ミリボルトくらい。 

 これが細胞の静止状態で、膜が分極している、静止電位の状態である。

 しかし、これは活動していない状態だ。

 シナプス間隙を超えた神経伝達物質が受け側の樹状突起の受容体にキャッチされると、細胞膜にあるナトリウム・イオンのイオン・チャネル(イオンに細胞膜を透過させる蛋白質)が開口してナトリウム・イオンが流入し、本来は、カリウム・イオン濃度が高かった脳神経細胞内部のナトリウム・イオン濃度が上がる。

 その流入とわずかな時差を置いて、カリウム・イオンの方は逆に細胞膜内から排出されていく。

 静止電位の状態の時とは、内側と外側とのイオンの構成が逆転する。これが脱分極である。

 ミリ秒単位の出来事であるが、脳神経細胞のうちと外との電位差の関係が逆転する。

 この逆転の刹那が活動電位の状態で、すぐに静止電位に戻るが、この静止電位から活動電位への刹那の逆転は電気的な発火現象であり、これがインパルスである。

 インパルスの起こした刺激が軸索丘に伝わり、軸索末端のシナプス小胞が刺激され、神経伝達物質を分泌し、神経伝達物質は脳神経細胞の間隙(シナプス間隙)を跳飛し、一つ次の、隣の脳神経細胞の樹状突起の受容体へと飛来する。

 神経伝達物質が樹状突起の受容体に至ると、細胞膜にあるナトリウム・イオンのイオン・チャネルが開口し、ナトリウム・イオンを透過させる。ここでも、細胞の外にあったナトリウム・イオンが脳神経細胞内部に流入する。同じことが繰り返され、電気的発火現象、インパルスが生じる。

 この繰り返しは、あたかもインパルスが脳神経細胞から脳神経細胞へと伝わって行くかのように見える。

 これによって所定の生理作用が起こり、それが偉大なる思想であり、崇高なる精神であり、身を裂く怨念であり、浅ましき劣情である。

 かくして、諸々の考概が、諸々の考概として象を具え、意識が生じる。今、まさに動いている、今、現在として現実に此處にいることを理解し、了解を構築し、人間を納得という気分(我々の理解・了解とは、〝納得〟といふ生理現象に過ぎない)及びその意識である。

 それが人間にとって〝今〟そのものであって、現在という名で、自分であるかのように観じている、存在ということである。

 大海原や薔薇や父母の愛やご飯の美味しさや文学や涙や感動や正義・真実や風邪熱や懈怠や足し算や美や夢想などなど、皆それである。

 いったい、これを何と言えるだろうか!

 

 

 しかし、最初に言ったように、見えているものがすべて事実であるとすれば、の話である。

  

 

 未遂不收によって未定義の『現実』しかない。

        

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