268)支配される間者

 上手く行かない情報収集に焦り、葵は……怪物の尾を踏んでしまう。


 それは、彼女が……早苗の娘である仁那の情報を、リスクを冒して仕入れようとした事だ。



 その事が、恐るべき人外の怪物である早苗を怒らせてしまった。早苗に取ってもっとも許され無い事は、自分の家族に危害を加えられる事だ。



 スパイである葵が、仁那の情報を知ろうとする事は、早苗に取って許される事では無かった。




 怒り出した早苗は、徐々に葵を追い詰めていく……。




 「……さぁ何故かしら……どうして知っていると思う? そう言うの調べるのが葵さんの……裏のお仕事じゃなくて? あー、それが上手くいかないから……"虫"を、付けたりしてたんだっけー?」



 目の前の少女(意識は早苗)に……底知れぬ気持ち悪さを感じて危機感を募らせている所に、早苗(体は小春)は更に煽ってきた。



 しかもその言葉は葵の正体を看破したモノだった。



 (……此方の素性がばれている……! 仕掛けた“虫”の事までも……! どうする!? だが……殺すのだけは拙い……リスクがあり過ぎる……。 このまま、やり過ごしたいが……向こうはやる気だ。情報も得られていないし、眠らせて連れ帰るか……。 薬が効き始めて、判断が弱った時点で連れ出して車に乗せよう……)



 葵は……自分の正体が、ほとんどバレている事に焦り、強行な手段を取る事にしたのだった。



 危険を感じた葵は、ポシェットに忍ばせた、口紅型の麻酔薬発射器を掴む。


 この超小型発射器は……見た目には洒落た口紅にしか見えないが、強力な睡眠薬が入った小さな針を発射出来る。



 葵は、これで早苗(体は小春)を眠らせて、連れ帰り……別な薬を投与して催眠状態にして、情報を仕入れようと考えたのだ。




 ポシェットから出した口紅型の発射装置を、小春の方に向け……針を撃とうとする葵。



 狙いを定め、今まさに発射しようとした……その時。



 “ビシィ!!”



 突如、葵の体が全く動かなくなった。 いや……正確には、葵の首から下が動かなくなり、感覚がない。


 まるで……首だけ切り取られ、生かされている様な感じだ。



 「……あ……う……」



 突然の事で、完全に困乱した葵は……ただ、みっともなく声を漏らすだけだった。



 「……あら? ……葵さん、どうかして? まるで……首から下が石になったみたいな顔をしてるけど……。 それと……机の下で怪しい口紅を、こちらに向けているけど……何がしたいのかしら?」


 「う……うあ……」



 (コ、コイツ……!? 全部、筒抜けだなんて……一体、どうなってるんだ!? まさか、コイツも……マルヒトやマルフタの様な……能力者だと言うのか……!?)



 白昼堂々と早苗(体は小春)を眠らそうとした葵の思惑は、ニョロメちゃんを通じて、全て早苗に伝わっていた。




 早苗は葵を内心、小馬鹿にしながら……彼女の首から下をニョロメちゃんを通じて、能力を発動し動けない様に支配した。


 そうとは、分る筈も無い葵は……口から意味の無い声を漏らしながら、内心は激しく動揺していた。



 そして……目の前の少女が、ようやく人外の存在である事を理解し始める。



 固まっていた葵だが自分の意志に反して、体が勝手に動き出す……。



 自分勝手に動き出した彼女の手は……机の下で見えない様に、隠していたポシェットと……例の口紅を、早苗の目の前で机の上に並べて見せる。



 「……お……おお……」


 「あらあら……当てずっぽうで言ったのに、まさか本当に口紅、机の下で出していたのね……? それじゃ……その口紅が怪しいかどうか……葵さん自身で試してもらえるかしら?」



 おかしな声を漏らすだけの葵に向け、早苗(体は小春)は優しげな口調だが、冷淡に言い放つ。



 すると葵は、口紅を手に取り……裏側に設けられた小さな発射口を、自分の顔に向ける。



 この特殊な口紅は、口に紅をさす口紅の部分自体は本物だったが……ケースと内部に睡眠薬を仕込んだ小さな針を撃ち出す発射装置が組込まれていた。


 口紅をさす振りをして、ケースの裏側を相対する人間に向け……ケース側面に隠されたボタンを押して、針を発射する仕組みだ。


 従がって……相手を眠らせるには、口紅ケースを相手に向ける必要があった。



 葵は慎重を期して、机の下で早苗(体は小春)に向け……睡眠薬を発射するつもりだった。



 しかし……今の葵は早苗に体の支配権を奪われている。



 葵自身……自分に何が起っているか、全く把握出来ていないが……彼女の体に仕込まれているニョロメちゃんによって、葵の体は早苗の完全な支配化にあったのだ。



 早苗に操られている葵は……手に取った口紅の裏面を自分の顔へ向けて持ち、そのまま口を開ける。



 まるで口紅の裏側から、飲み込む様な恰好だ。



 他人から見れば不思然で奇妙な姿だが、葵の意思では指一本動かす出来なかった。



 (ま、まずい……! こんな至近距離で、しかも口内に向けて撃てば……どんな影響が出るか分らないわ! でも、ダメだ! 体が全く言う事を聞かない……。やっぱり、コイツも……!?)



 「おお……う……」


 「それじゃ……どんな事になるのか、試して見せてね! ……うん? ……何よ、小春ちゃん……? 今から、葵さんの体を張ったショーが始まるのに……。

 え? ……体を替わって? ダメよ……この人、仁那ちゃんの事を調べようとしてるのよ……。しかも眠らせて連れ出そうなんて、乱暴な方法を使って……。だから、報いが必要だわ……。 何、ダメ……? かわいそう? 仁那ちゃんも、そう言ってる?」



 無様な声を上げながら……口紅型の睡眠薬発射装置を、自分の口の中に向け発射しようとしている葵。



 そんな絶対絶命の葵を余所に、早苗(体は小春)は……一人にも関わらず、誰かと話し始める。



 まるで電話でもしている様な状況だが……その手には何も持たず、独り芝居をしている様だが……とても演技には見えない。



 (な、何が起こっている……!? 誰かと話し合っているのか? ……だが、周りには誰も……。頭の中で会話しているみたいだ……。 ま、まさか……多重人格……?)



 一人でブツブツと話す早苗(体は小春)の様子を見た葵は……理解出来ない光景に、自分の置かれた状況も忘れて、目の前の少女について思索する。



 そんな中……。



 「……何やってるの、早苗……。アリエッタから、連絡を受けて来たけど……何を遊んでるのよ?」



 口紅を逆に持って口を開けたまま、固まっている葵の背後で女性の声がした。



 「あら……薫子姉様……。今、丁度……葵さんに仁那ちゃんが、ご馳走になった所よ。 その上で“葵さんで遊んで“たら……小春ちゃんから怒られちゃった」



 葵の背後から現われたのは薫子だった。



 声を掛けられた早苗(体は小春)は、舌を出して年頃の少女らしく笑いながら答えたのだった。


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