第180話 信じるということ、愛するということ

 次第に夕闇が迫り、ひんやりとした夜の空気がゆっくりとあたりに満ちてくる。

 そんな中、スリアンはずっと沈黙したまま、嗚咽するサイの頭を抱きしめて、彼が落ち着くのを待っていた。

 今、サイの脳裏を満たしているのは果たしてどんな想いなのだろう。彼の頭をやわらかく撫でながら、スリアンはぼんやりそんなことを考える。


(スラムでメープルを看取った時、彼女の気持ちは直接耳にしたはずだよな)


 なのに、今になって彼がメープルの残したメッセージにこれほどまでに心を乱されるのはなぜか。スリアンはそれが少し不思議でもあった。


(サイが手紙を受け取ったのは、確か魔道士団からの追放と魔道士学校からの放校が重なって、一番心に余裕がなかった時分だ。当時、隠されたメッセージに気づかなかったことについては、誰ひとり彼を責められない)


 メープルに見限られ、サイは絶望の淵に突き落とされた。それ以上彼女の消息を追うことなく王都から落ち延び、暗殺者に追われるようにして南部に向かい、最後には悲し過ぎる現実から逃れるように異世界に転移した。


(もし、あの時サイがメッセージを正しく読み解いていたら……)


 彼はメープルを取り戻すため、歯を食いしばってでも王都にとどまっただろう。

 だがあの頃、サイの実力はまだまだ大魔道士アルトカルに届いていなかった。そうスリアンは推測する。

 サイは人並み以上に優れた魔道士見習いではあっても、対人戦闘の経験や人をあやめる覚悟まではなかった。アルトカル一派と正面から衝突し、サイが無事に生き残れた可能性は相当に低い。

 あの時点でサイがアルトカルとぶつからなかったことは、今となっては多分正しいのだ。


(それでも、きっと割り切れないんだろうな。もしメッセージに気づいていれば、その後の悲惨な運命から彼女を救えたかも知れないと思うと……)


「……後悔」


 スリアンが何気なくこぼした言葉に、サイの肩がわずかに震えた。


「いや、彼女の心を信じきれず、彼女の転落の運命を防げなかった自分に対するいきどおり、かな」


 取り返しの付かない人生の流転。ただそれが悲しくて泣く。今はそれでも構わない。でも、スリアンはサイにもっともっと強くなって欲しいと願っている。

 だから、彼の悲しみをきちんと分析し、彼がきちんとそれに立ち向かえるように手助けをする。冷たいようだが、それが今の彼に対しボクが唯一できることだ。スリアンはそんな風に考える。

 この少年は、きっと稀代の大魔道士として歴史に名を残す。もっともっと偉大になる。だから、この悔しさだってきっと彼の糧になる。きっと乗り越えられる。

 スリアンはそれを爪の垢ほども疑わなかった。


「泣いてもいいよ。もし、自分一人では乗り越えられないと思うなら、ボクがずっと一緒にいる。もし、人肌のぬくもりが悲しみを癒やす助けになるなら、ボクは君にボク自身を捧げてもいい。だからさ……」


 スリアンはそこで言葉を切ると、サイの顔を両手で挟むようにして覗き込む。

 ぐしゃぐしゃに泣きはらした彼の瞳をじっと見つめ、その濡れたまぶたにそっと口づける。


「……君はもっと強くなれ。もう二度と君を信じる人を悲しませないように。君が信じる人を失わないように」

「……はい」


 ささやくようなかすれ声と共に小さく首を振るサイ。それでも、スリアンは彼の復活を確信して大きく安堵の息をついた。

 さんざん泣いてようやく落ち着いたサイは、灌木の茂みの中央に小さな穴を掘り、宝物入れの中にメーブルの遺髪を納めて土に埋めた。なんの目印も置かなかった。


「僕が一生忘れなければいいだけです。だから、墓石も、墓標もなくていいんです」


 サイは寂しげに微笑みながらヤナギバグミの茂みを蔦のつるでていねいに縛って寄せ合わせ、入り口を閉じた。

 数年もしないうちにまた元のように枝葉が茂るだろう。この奥に隠された空間があることなど、二人を除けば、もはや誰一人知るよしもない。





「もうよろしいのですか?」


 セラヤが問う。彼女は、野営の準備を整え、近くの空き家で二人が戻ってくるのを待っていた。


「それにしてもうちの旦那様はずいぶんと泣き虫なんですね。私ドン引きでございます」


 サイの真っ赤に泣きはらした目を見て毒づきながら、彼女は暖炉から下ろしたばかりの温かいスープを椀によそってサイに手渡した。


「まぶたが赤く腫れるほどに泣きはらすなんて、まるでお子様みたいです。確か一度は成人されたはずですよね。精神こころが幼い身体に引っ張られすぎでは?」

「……悪かったな」

「ま、おおかた昔の女を思い出して女々しく涙に暮れていたのでしょう?」


 容赦なく突っ込むセラヤ。だがサイは口をとがらせて首を横に振った。


「た、確かに彼女メープルのことを思って泣いたのは確かだけど……」

「だけど?」

「別に、悲しかったわけじゃない」

「ふぇっ!?」


 先に反応したのはスリアンの方だった。自分の推測が完全に的外れだったことに動揺を隠せない。


「でもサイ、君はメープルの——」

「彼女を悼むのはカンアーミのアジトで済ませました。彼女の死についてはもう心の整理はついてます」

「じゃあ……あの手紙を読んで……どうして君はあれほど?」

「なんだか変な話ですけど……嬉しかったんです」

「はぁ? 嬉しい? 一体どういうことだい?」


 スリアンは言葉の意味がまるでわからないというように首をこてんと傾けた。


「あ、訳わかんないですよね。すいません」


 サイはスリアンの顔を見て苦笑いすると、どう説明したもんかというように眉間を寄せ、カップで両手を温めるように包み込みながらゆっくりと話し始めた。


「実は……僕はずっと、彼女メープルは僕を見限ってアルトカルについたんだと思い込んでいました。婚約もして、あれほど深くお互いに信頼し合っていたはずなのに……と」

「ああ」


 ようやく納得した、といった表情でスリアンが頷く。


「あの日以来、僕は何もかも心から信じることができなくなりました。スリアンは絶対に怒ると思いますけど、例えばスリアンが僕のことを道具でも臣下でもないって言ってくれたのだって、嬉しくはあったんですが、一方で——」

「ちょっと、いくらなんでも怒るよ!! ボクは君にウソなんかつかないよっ!!」

「だからすいませんって、心から謝ります」


 頬を紅潮させ、拳を握りしめて声を荒げるスリアンに、サイは深々と頭を下げた。 


「でも、それくらい何に対しても疑心暗鬼だったんです。また騙される。裏切られる。どんなうまい話をしていたって、心の底では皆、舌を出して僕をわらってるんだ……いつもいつもそんなことばかり考えて、誰に対しても身構えて。これまでずっとそうだったんです」

「でもボクは!!」

「ええ、そうじゃありませんよね。それはわかってます。それにメープルも、アルトカルに身を寄せざるを得なかったあの時でさえも、僕のことをちゃんと愛してくれていた。そのことが本当に、全身が震えるほど嬉しいんです……信じても、いいんだって」

「サイ……」

「ありがとう、スリアン」


 感極まって涙ぐむスリアンの手を取り、サイはやわらかく微笑みかけた。


「僕の故郷はここにはもうありません……でも大丈夫です。僕はもう一度、人を信じることが、愛することができる。こんなに嬉しいことはありません」

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