寝起きの枕

蜜柑

眠れない夜の子守唄

 眠れない夜がずっと続いている。仕事柄、というか最近のグローバルだのITだのうるさい風潮のせいで、丸一日ブルーライトを浴びっぱなしということも珍しくない日常のせいだろう。布団の中で丸まっても眠気は起きず、持て余す時間が勿体無くて別の作業を始めると余計に眠れない悪循環。ネットや書籍でさまざまな対処法を調べて試して効果はなく、とうとう医者にまで相談してみたところ、とりあえず夜空でも眺めたらどうですかと冗談めいたことを言われ、試すだけ試そうとホットミルク片手にベランダに出てみた。

 夜風が涼しく、ホットミルクの温度が心のざわめきを取り除いて穏やかにしてくれる。思えば洗濯物を干す以外の用途でベランダに来ることはそうそうなかった。隣のアパートの向こうに家々の明かりがぽつぽつ見えて、遠くのカラオケのネオンライトまでくっきり見えるのを知ってしまうと、どうして今までここに来なかったのかわからないくらいノスタルジックな気分になった。それくらいには、夜景とすらいえない光のぽつぽつと立ち並ぶ光景を気に入ってしまった。もうこれからは、眠れなければ外に出るようにしようと心に決めて、ホットミルクを一口飲む。人肌くらいの温かさが、余計にミルクを甘く感じさせた。

 とはいえ、晴れてお気に入りとなった光景もホットミルクも、僕の眠気を呼び覚ますほどの効果はない。動かない景色にも次第に飽きてきて、縁に片肘をつけたままカラオケ店の看板の点滅した回数を数えていると、ふと、背後から物音がした。ガタン、と物が落ちたような音は唐突で、僕の背筋がびくりと震える。背後は、僕の部屋がある。もしかしたら空き巣でも入ったのかも知れない、幸い、カーテンは引いていたので部屋の中の空き巣とエンカウントすることはないだろう。早くここを逃げなければと急に強迫的な観念が湧いて、僕は躊躇わず、ベランダの縁に跳び乗った。背後からはさらに大きな物音がして、今にもカーテンを開けられてしまいそうだ。まずい、と思った途端、僕はベランダから足を踏み外して、空中に飛び出していた。一瞬で焦りに支配されて、早く足をつかなければ、地に足をつけなければと慌てるが、どういうわけか浮遊感が感じられない。そういえば落下もしていない。おかしいなぁと、背後を振り返ると、空き巣の男がこちらをみたままはくはくと口を動かした。僕が空を飛ぶなど、思ってもみなかったのだろう。しかし僕は飛べるのだ。彼は飛んでほしくなかったかもしれないが。

 重力という巨大な概念からの自由を得た足が空間を踏みつけて、体は上空に差し出される。どこまでも上へ行けそうな気がして、雲に近づきたくて泳いだ。空は広くて丸くて素晴らしかった。調子に乗って雲の上まで来てしまうと、一面白い雲の床の向こうに、飛び出た山を一つ見つけた。あれこそが、富士山。日本の頂点は、思いの外近くて涼しかった。

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