始まりの手紙

"ピンポーン"

「はい、今行きまーす」

 廊下を駆け足で進む。不便なことは多いものの、この家の勝手にもだいぶ慣れてきた。引き戸を開けると、胡散臭い笑顔を貼り付けた男が目に入ってくる。

「ーー光さん、遅いですよ!! 暑くて溶けちゃう」

そいつは、ワイシャツの首元を緩め仰ぎながらぼやいた。

「30分も遅刻しといてなんだよ。早く入れ」

 そう言ってそいつを招き入れると、ギィと床が軋む音がする。この家に、俺が人を入れることなんてあっただろうか。

 このもさっとしたメガネは俺の担当編集者の伊吹。彼は玄関に入った瞬間、靴を履いたまま立ち尽くした。

 そしてぐるっとまわりを見まわすと、キラキラと目を輝かせる。

 部屋まで向かう間にも、趣だ風情だと語り出しそうなそれが鬱陶しくて、俺は古くさいだけだと一蹴りした。


「いやー、だいぶ迷っちゃって。やっぱり大きな家ですね」

 部屋に着くと、やっと興奮が落ち着いたのか、彼はそう切り出した。

 ーー迷ってなんかないことぐらい知ってるっての。

 永遠に迷っていれば良かったのにという幼稚と思われかねない言葉は飲み込み、静かに話を聞いた。


「とりあえず、一年間の猶予は取り付けてきました。ゆっくり休んでください」

 そいつの口から出た言葉は、切に望んでいたはずのものだった。

 他に言われたのは、生活に慣れたかとか、ちゃんと食べているかなど、お前は俺のなんだ!とツッコミたくなるようなことばかりで、久しぶりに肩の力が抜けた気がする。

「まあ、これからも僕は友人として来させてもらうよ。よろしくね」

 最後にそう言って伊吹は帰っていった。

 時間にしては10分程度のことだったが、半日分ほどの体力を使ったような気がする。

 しばらくして、珈琲を淹れるために腰を上げると、膝が震えた。まったく、自分の意気地のなさには反吐が出る。この期に及んで切り捨てられるのが怖いだなんて、都合の良すぎる話だ。


 俺は、淹れたてのコーヒーを片手に、棚にしまってあった手紙をとり出した。単なる嫌がらせか、物好きな輩の仕業だろう。どちらにしろ、小説が書けていない俺にとって、悪趣味なことに変わりない。

 しかし、

 ーー今はなるべく面倒を起こさない方がいいだろう。

そう思った俺は、手紙を見なかったことにした。

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