咎血と焔はきょうも笑う〜空の使いと異世界幻想〜

猫乃おこげ

1.プロローグ:エンコード

 その日は、嫌になるぐらいに何一ついつもと変わらぬ平日の朝だった。

 会社へ出勤するために昨晩セットしたスマホのアラームによって目を覚まし。朝食と身支度を済ませて駅へと向かう。

 どうか変なやつに標的にされませんようにと、両手で一本ずつ吊革を持って沢山の人に揉みくちゃにされて。

 苦労して会社について仕事をすれば--


「だいたいねぇ〜。キミィ。この書類はあれ程今日までに作成しておくよう言ったよねぇ」


「はい。申し訳ありません」


 頭を禿げ散らかしたカッパ上司に怒られ頭を下げる日々。だいたいあんな量を数日前にこちらへ投げられたところで言われた通りに出来上がるわけがないと、このクソ上司はわかった上でやっているのだ。


(こんなんだから将来有望な新人たちが辞めていくんだよ。クソ上司)


「聞いているのかねぇぇ?」


「……はい」


 もうお分かりだとは思うが、私、稲垣いながきほむら三十五歳が務めるこの会社は誰がどう見ても一目瞭然な--ブラック企業だ。

 


「先輩。そんなに飲んで大丈夫ですか?この前の健康診断でも飲み過ぎだって言われたんですよね?」


「いいんだよぉ。今日ぐらい。だいたいあんなクソ上司の相手なんて酒でも飲んで忘れなきゃできっこないっての」


「出た。先輩の今日ぐらい」


 ほぼ毎日あると言っても過言ではない残業をやっとの思いで終わらせて、私は今ほとんど空になったジョッキを片手に後輩とやってきた居酒屋のカウンターに突っ伏し、愚痴をこぼしている。

 時刻はもうすぐ日を跨ぐ頃。正直、こんな時間まで後輩を愚痴に付き合わせるなど彼にとっては私もクソ上司の一人なのだろうが、一人で飲むのはどうも寂しく。どうしても彼の後輩という弱い立場を利用して連れ回してしまっている。


 だからこそ、私は彼を飲みに誘うとき一つのルールを決めている。


「……あの、先輩。そろそろ--」


「あー。うん。こんな時間まで付き合わせて悪かった。ここはもちろん私の奢りだから気にするな。寮までは歩いて帰れるか?」


「ええ。俺は大丈夫ですが。それよりも先輩の方が心配っすよ。自分」


 基本食事は私の奢り。食いたいものを食わせ、後輩をなるべく拘束しないという事だ。

 最初のうちは、無理しても最後まで付き合ってくれていた後輩だったが、飲みにいくたびに奢り。帰りたい時は言ってくれ言い続けた結果。彼は今でも無理のない程度に愚痴にも付き合ってくれているし、いいと言っているのに高い物は注文しない。

 


(なんでこんないい奴がモテないんだろうな……。ほんと、見る目がないやつばかりだよ)


「大丈夫だ。私ももう少ししたら帰るし、歩けなくなるまで飲むつもりもない」


「それじゃあほんと。気をつけてくださいね…… 」


「おう。おつかれ〜」


 片腕を上げて後輩を見送ると、店の大将にビールのお代わりを注文。

 さらに時間が過ぎて、ビールも飲み切りつまみの枝豆を食べ終わった事に、私も店を出ることにした。


「……ありがとうございました」


「また来るよ。大将」


 季節は冬の真っ只中。店の中とは違い外は今にも雪が降りそうなぐらいに寒く、ハァーと息を吐けばその息が白くなるほどだ。

 この後、寮に帰って風呂に入り。寝て起きればまたクソ上司の相手をしなければいけない。いっそ会社を辞めてしまおうかと、柄にもなく空を見上げて感情に浸っていると、突然、


「ッ!? なんだ?」


 背後から車の急ブレーキ音が響き、私はそちらに体を向け、見る。

 いつもと変わらぬあの店からの帰り道。近道として利用する路地の入り口に、この日はいつもとは違い一台の黒いワンボックスが止まっている。


--逃げろ。


 頭の中でそう私は叫ぶ。


--逃げろ。


 逃げなければいけない。そうわかっていても体がちっとも言うことを聞いてくれない。

 呆然としている私よそに、後部座席のスライド式ドアから全身黒ずくめの男が三人。こんな真夜中にも関わらずサングラスまでして降りてくる。


「ッ!?」


 あれは何かやばい。先程まで心地よく酔っ払っていた頭もこの予期せぬ事態に酔いは覚めて。ようやくいう事を聞くようになった体は、ワンボックスから出てきた男とは反対の方へと一歩を踏み出し、私は一目散にそこからの逃亡を試みる。

 後ろから、自分とは違う複数人の走る足音。路地に置かれたゴミ箱にぶつかり倒れ、中のゴミが散乱する。しかし今はそんな事を気にしている場合ではない。


「ハァハァ」


息が苦しい。この路地はこんなにも長かっただろうか。そんな事を思いながらも私はただ走る。ただ間違いなくこの路地は普段私が利用している場所であり、走っている最中も見覚えのある場所はいくつもあった。

 その見えた光景の一つ一つが、私に出口はもうすぐだと教えてくれる。

 だが、一つ。ここで私はある失念をしていた。


「ッ!?」


 そう、ここは路地なのだ。入り口は一箇所。出口も一箇所。当然のその逆もありで、一本道。ならば当然ーー


「ハァハァ……。なんなんだよ」


 反対側の出入り口にも黒のワンボックスは待ち構えていた。いや、もしかすると先程のワンボックスがこちらへと回ってきたのかもしれない。

 後ろから、曲がりくねった路地を使ってなんとか距離を離した男たちの足音が近づいてくる。

 前のワンボックスからは後部座席のから男が三人。こちらも黒ずくめだ。

 全く意味がわからない。今日もいつも通りに出社し、上司の嫌がらせにも耐えて後輩に愚痴を聞いてもらっただけだ。何か悪い事をした覚えもなければこんな黒ずくめの怪しい奴らに追われるような事やした覚えもない。


「ムンッ!?」


 後ろの男たちに追いつかれたのだろう。突然背後から何か布ようなものを口元に当てられる。

聞いたことがないだろうか。某全身黒タイツの人が出てくる漫画なのでハンカチなので口元を押さえられた人が気絶しているのは何も息ができなくなったからとかではなく、“クロロホルム”という薬品の匂いを嗅がされたからなのだという話を。男だとか女だとか。力があるないに関わらず、そんなものを使われては抵抗できるはずがなく。


 私の意識はそこで途絶えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る