大きくなったら結婚しようと誓った幼馴染が幸せな家庭を築いていた
黒うさぎ
大きくなったら結婚しようと誓った幼馴染が幸せな家庭を築いていた
「おおきくなったら、ぼくとけっこんしよう!」
照れることもなく、眩しい笑顔を向けてくる少年。
彼はいつも泣き虫な私を助けてくれた。
ひとりぼっちな私の初めての友達になってくれた。
彼は私にとって太陽のような存在だ。
掛け替えのない、大切な人。
「うん! やくそくだよ!」
幼い私は右手の小指を差し出す。
「やくそく!」
その小指に自身の小指を絡めてくる少年。
他人から見たら子供同士の、他愛のない約束だろう。
だが、私にとってこの約束は生きる意味そのものだった。
そして、ようやく約束を果たせる日がきた。
そう思っていた。
◇
爽やかな風が吹き抜ける。
幌を張っただけの乗り合い馬車から周りを見ると、青空の下にのどかな農工地が広がっているのが見える。
そしてさらにその向こう。
石造りの塀で囲われた街がそこにあった。
「この街は昔と変わらないわね」
久しぶりに訪れる故郷を前に、私の胸は珍しく高鳴っていた。
あの約束の日から十六年。
ようやく戻って来ることができた。
商人である両親に連れられて、幼い私はこの街を去った。
どれだけ望もうとも、働くことすらできない幼女が一人街で生きていけるはずもない。
仕方のないことだった。
だが、街を去ったあとも、私は彼との約束を忘れなかった。
いつの日か、再び会えることを夢見て生きてきた。
その日に備えて、私は彼に相応しい人になろうと決意する。
彼のように強い人に。
彼のように優しい人に。
その目標は決して容易なものではなかった。
どれだけ強くなろうとも、どれだけ優しくなろうとも、彼のとなりに立つに相応しい人物にたどり着けた気がしなかった。
しかし、それでも諦めるという選択肢は存在しない。
私は我武者羅に己を鍛え、磨き続けた。
そして十六年。
ようやく私は自分を認めることができた。
いや、正直妥協できるようになったと言った方が正しいかもしれない。
幼かった私も二十二歳となった。
ここからさらに己を高めようとして得られるものと、加齢によって失うものを天秤にかけた結果、そろそろいいだろうということで妥協した。
妥協するなんて彼には申し訳ないが、おそらく今の私が私の人生で最高の状態だ。
優しい彼なら、こんな私でも笑って受け入れてくれるだろう。
そうに違いない。
街に入り馬車を降りた私は、幼き頃の記憶を頼りに彼の家へと向かう。
十六年も経てば、見覚えのない建物もそれなりにあった。
だが、全てが全て変わってしまっているわけでもない。
実際、たどり着いた赤い屋根の家は、記憶通りの場所にあった。
「ようやく彼に会えるのね……」
長いようで、振り返れば一瞬だったようにも思う。
心も鍛えぬいたつもりだったが、彼に会えると思うだけで、浮ついてしまう気持ちを抑えられそうにない。
久しぶりに会う彼はどんな顔をするだろうか。
驚いてくれるだろうか。
それとも、優しく微笑んでくれるだろうか。
結婚を誓い合ったというのに、十六年間も離れ離れだったのだ。
きっと、彼には寂しい思いをさせてしまったことだろう。
でもそんな寂しさも今日でお仕舞いだ。
これからは二人の幸せな結婚生活が待っているのだから。
私が彼の家に近づこうとしたその時だった。
「はやくいこうよ!」
バタンと大きな音を立てながら、玄関の扉が開く。
そして中から、幼女が飛び出してきた。
(彼の家から子供!?)
誰だ、あの子は?
彼の子供ではないだろう。
彼は私と結婚するのだから、子供がいるはずはない。
では、親戚の子供だろうか。
頻繁に彼の家を訪れているのだとしたら、いってきますという言葉もわからなくはない。
「こら、走ったら危ないでしょ!」
幼女に続くようにして、一人の女が彼の家から出てきた。
年の頃は私と同じくらいだろうか。
雰囲気からして、幼女の母親だろう。
きっとこの女が彼の親戚に違いない。
親族とはいえ、年頃の男性が異性を家に招き入れるという行為は周囲の誤解を招きかねない。
私は理解のある人間だが、近隣住民全てがそういうわけではないだろう。
仕方ない。
これからは私が家にいる間に遊びにきてもらうことにしよう。
「お父さんも早く~!」
幼女が家の中に呼びかける。
なるほど、家族全員で遊びにきていたのか。
それなら周囲に誤解を受けることもないだろう。
どうやら私の心配は杞憂だったようだ。
「今行くよ」
そして出てきた男を見て、私は目を見開いた。
彼だ。
十六年という時が経ち、見た目もすっかり大人になっているが、私が彼を見間違えるはずがない。
輝く金色の髪に眩しい笑顔。
幼き頃の面影もしっかり残っている。
間違いなく彼だ。
ようやく彼の姿を見ることができた喜びで叫びだしそうになるのをどうにかこらえた。
私は呼吸を整えると、仲良さそうに街へと消えていく三人の背中を見る。
幼女。
その母親らしき女性。
そしてお父さんと呼ばれている彼。
これらの情報から導き出される答え。
それは……。
「彼はあの子の父親代わりをしているのね」
きっとあの幼女の本当の父親は訳あって居なくなってしまったのだろう。
悲しむ母子を前に、心優しい彼は父親代わりになってあげることを決意したに違いない。
心の中では私との結婚の約束を大切に思っているが、目の前に悲しむ人がいるのに手を差し出さない彼ではない。
「なんていい人なの……!」
やはり私の婚約者は素敵な人のままだった。
その事実がたまらなく嬉しい。
「さて、でもそうなるとこれからどうしようかしら?」
予定では彼と再会を果たした後、そのまま結婚をする予定だったが、これではそういうわけにもいかない。
彼が折角あの幼女の笑顔を守っているというのに、ここで私が出ていってしまっては彼の努力が無駄になってしまう。
彼の邪魔をするようなことだけはしたくない。
となると私がとれる選択肢は。
「あの母子に退場してもらうしかないわね」
他の父親を見繕って平和的に彼の元を去ってもらうか。
あるいは不慮の事故によってこの世から去ってもらうか。
彼の代わりが務まる男など、そう簡単に見つかりはしないだろう。
かといって、私が意図的に不慮の事故を起こすというのも、彼の意に反する。
いずれにせよ、短期間で解決することはないだろう。
となれば、まずやらなくてはならないのは住居の確保だ。
仮の親子とはいえ、彼の家に住むというわけにもいくまい。
私は彼の家の向かいの家のベルを鳴らした。
「はいはい、どちら様かな?」
扉を開けて出てきた老人に、私は言った。
「この家をください!」
「はっ? あんたなに言ってんだ?」
「もちろん、お金は払いますよ。そうですね、これくらいでどうでしょう」
私は亜空間から金貨の入った袋を取り出した。
己を鍛える一環として魔物を狩り、その素材を売って稼いだ金だ。
魔物の素材はそれなりに高く売れるので、普通に働いて稼ぐより効率がいいのだ。
私から袋を受け取った老人は、その中身を見声を荒らげた。
「なっ、なんだこの金は!?」
「すみません、足りなかったですか?」
一応ドラゴン一頭を素材として売ったときの値段と同等の金貨を出したのだが、どうやら少なかったらしい。
まあ、私も家の値段など知らないし、それにここは彼の家の向かいという立地のいい物件だ。
ドラゴン一頭分ではいくらなんでも安く見積もりすぎたか。
私は追加として、同じ金貨入りの袋を四つ取り出した。
ちなみにこれは金貨を小分けにして保管してあるのではなく、取り出す際に創造魔法で生成した袋に金貨をしまっているだけだ。
「ではこれくらいでどうでしょう?」
ドラゴンというのはその絶対数の少なさから、あまり頻繁に遭遇できる魔物ではない。
倒すのはともかく、出会うのはそれなりに骨が折れる。
この金貨がドラゴンを倒したときのものだというわけではないが、他の魔物を倒してドラゴン五頭分稼ぐとなると、私の実力では魔物のはびこるダンジョン最下層に不眠不休で潜っても一週間はかかってしまう。
それくらい大変なのだが、この家を譲ってもらうためにはそれくらいの誠意は見せるべきだろう。
「こっ、こんな大金受け取れるか!! 何が目的か知らんが、帰ってくれ!!」
そう言うや否や、老人はバタンと扉を閉めてしまった。
「……追い返されてしまったわ」
彼が周囲の住人とどのような人間関係を築いているか、まだその全てを把握できていない。
力ずくで奪うというのは得策ではないだろう。
仕方がないので自分で家を建てるとしよう。
この辺りは昔からある居住区で、空いているスペースといえば道くらいだが、さすがに道のど真ん中に家を建てるわけにもいかない。
「となると、地中に造るしかないわね」
私は地面に手をつくと、地中操作と創造魔法の組み合わせで、彼の家の真下に地下室を創造した。
今のところ私しか利用する予定はないので、部屋数は最低限だ。
勝手に地下室を増築するのは申し訳ないと思ったが、いずれ私も住む家になるのだ。
それにもし彼に取り壊すようにいわれたら、その時撤去すればいい。
「さて、それじゃあ彼の元に行きますか」
私は先程覚えた彼の魔力波長を頼りに転移魔法を発動した。
◇
私は人混みに隠れながら彼らを尾行していた。
きっと彼のことだ。
とっくに私の存在には気がついていることだろう。
それでも幼女の父親を演じるために、あえて接触してくるようなことはなかった。
そんな彼の優しさに、少しの寂しさは感じるものの、それ以上の誇らしさが私の中で溢れていた。
(やっぱり彼は素敵だわ!)
幼き頃と変わらない彼の優しい一面に、思わず顔がにやけてしまう。
すれ違う人々から変なものを見るような視線を向けられるが、そんなものは些細なことだった。
しばらく後をつけていると、金物店にたどり着いた。
「このお店は危ないからね。
お父さんは新しい包丁を買ってくるから、エミはここでお母さんと一緒に待っててね」
「はーい!」
手を上げ元気良く返事をする幼女。
彼はその頭を優しく撫でると、一人店内へと入っていった。
一緒に来て外で待たせているということは、今日の目的地はここだけというわけではないのだろう。
「包丁、か」
彼も料理をするのだろうか。
彼の手料理が食べられるのなら、いくらだって払うのだが。
それにしても、あの幼女はエミというのか。
いずれ退場してもらう予定だが、彼との会話の中で幼女の話にならないとも限らない。
名前くらいは覚えておいてもいいだろう。
金物店の前で二人仲良くおしゃべりをしている母娘。
その表情には本当の父親を失った悲しみの影など微塵も見られない。
大切なものを失う悲しみはそう簡単に癒えるものではないだろう。
それをそんな事実元々なかったかのように見えるほど、完璧に癒してしまう。
彼の最上の優しさを前に、私はただただ敬服するしかない。
物陰に隠れながら、幸せそうな母娘を見ていたその時だった。
「きゃあっ!」
二人の前を通りすぎようとした一人の男が、母親の持っていたバッグを奪って逃げたのだ。
白昼堂々と行われたひったくり。
辺りは騒然とし、通行人は走り去る男へと視線を向ける。
母親は慌てて男を追いかけようと駆け出したが、娘と一緒にいたことを思い出したのかすぐに足を止め店の方を振り返った。
しかし、つい先程までそこにいたはずの娘の姿はどこにもなかった。
「っ! エミっ!?」
それは当然だろう。
彼らの目的は初めからバッグなどではなく、エミだったのだから。
囮の男が目立つようにひったくりを行い、周囲の視線を引き付ける。
その隙に、もう一人の男がエミを抱え連れ去ったのだ。
豪胆な誘拐方法だが、その手際は中々のものであった。
実際、母親はエミのことを見失っているし、周囲にもエミが連れ去られた事実に気がついている者はいない。
子供の誘拐。
目的は奴隷として売るのか、それとも素材として使うのか。
どちらにせよ、エミにとって楽しい未来は待っていないだろう。
「さて、これで娘は退場したわけだけど……」
誘拐された瞬間を私以外誰も見ていなかった以上、エミが見つかる可能性は低いだろう。
となると、あとは母親だけなのだが……。
そこまで考えたところで、私は気がついてしまった。
(違う! 私の他にもエミの誘拐を把握している人がいる!)
彼だ。
いくら店内にいるとはいえ、彼が娘として接しているエミの誘拐に気がつかないわけがない。
それなのに拐われるエミを助けに現れなかった。
いったいなぜか。
(はっ!? まさか私が試されている!?
私が自分の隣に立つに相応しい女に成長したか確かめようとしてるんだわ!)
俺と結婚するなら、誘拐犯くらい一人で対処して見せろと。
だというのに、私としたことが目の前でエミを連れ去られてしまった。
(失態だわ!
目の前で女の子が誘拐されようとしていたら、彼なら真っ先に助けるはずよ。
それなのに私は犯行に気がつきながら何もしないだなんて!)
こんな有り様では、優しい彼には相応しくない。
私はぎゅっと拳を握りしめる。
犯してしまった過ちは戻らない。
今の私にできることは、一刻もはやくエミを助けて、失態を最小限にとどめることだけだ。
私は彼のついでに覚えておいたエミの魔力波長をたどって、転移魔法を発動させた。
◇
「はあっ……、はあっ……」
路地裏を走っていた男は、追手がいないことを確認すると一軒のぼろ屋に逃げ込んだ。
一見すると廃屋にしか見えないこの建物だが、実は男たちがいつも利用している秘密の通路の入口になっている。
部屋の端にある床板を外すと、街の外にある森へと続く地下通路が現れるのだ。
男は子供を攫ってはこの通路から街の外へと運び出し、奴隷として貴族相手に売りつける、闇の奴隷商人だった。
男は今日の戦果である幼女へと目をやった。
仲間がひったくりをして囮になっている間に、男が連れ去ったのだ。
床に座り込んでいる幼女は泣きわめくようなことこそなかったが、幼いながらも己の置かれている状況をある程度理解しているのだろう。
その表情は恐怖に染まっていた。
「見た目は悪くねぇ。こりゃそれなりの金になりそうだ」
見目のいい幼女というのは需要が高い。
もちろん労働力としてではなく、愛玩奴隷としてだが。
一部の変態貴族たちは、幼児にしか性的興奮を抱くことができないらしい。
男には理解不能な性癖だが、それで商売が成り立っているのだから貴族様々だ。
男は床板を剥がすと、再び幼女を抱え上げた。
「これからお前は新しいご主人様のところに行くんだ。
泣いたりするなよ、痛い思いをしたくなかったらな」
「……ひぅ」
返事をする余裕もないのか、幼女の口からは小さな悲鳴のようなものが漏れただけだった。
男としても泣き叫ばれるよりは、おとなしくしてくれた方が、なにかと都合がいい。
いつものように、街の外へと続く通路へと足を進めようとしたその時だった。
「その子を連れていくのは待ってくれないかしら?」
突如聞こえた声に、男は慌てて振り返った。
そこには一人の女が立っていた。
「誰だっ!」
家の扉は閉まっている。
他に人間が出入りできるような窓もない。
この狭い室内で誰かが出入りして気がつかないはずがないのだ。
いったいこの女はどこから現れた!?
「その子を連れて行かれると困るのよ。
いや、連れてってくれるのはいいんだけど、せめてやるなら私が対処できないような方法で誘拐してくれないと。
どうしようもないことなら諦められるけど、助けられるのに助けないのはいい人ではないでしょう?」
いったいこの女は何を言っているんだ。
このガキを連れ戻しに来たのか、それとも連れ去って欲しいのか。
気味の悪いやつだ。
だが、落ち着いて女のことを良く見ると、目鼻立ちの整ったいい女ではないか。
格好は冒険者のような軽装備で野暮ったいが、服に覆われているスタイルも悪くない。
突然の出来事に戸惑っていた男だったが、女の容姿を見て奴隷商人としての本能が働いた。
この女は高く売れるぞ、と。
男は幼女を下ろすと、腰に差していた短剣を抜いた。
奴隷商人という裏の世界の仕事をしているのだ。
剣の腕にはそれなりに自信がある。
女も帯剣しているが、未だに手を掛ける様子はない。
この間合いなら確実に勝てるだろう。
「こりゃあいい土産が転がり込んできたもんだ。
おい、女。お前も奴隷として一緒に連れてってやるよ。
大人しく武器を捨ててこっちに来な」
今日はついている。
ガキは小さくて攫いやすいが、大人の女は担いで運ぶのも一苦労だ。
故に普段はあまり扱わない商品なのだが、向こうから来てくれるとは願ってもないことである。
それにしても見れば見るほど、美しい女である。
これをそのまま売ってしまうのは少しもったいないかもしれない。
少し楽しませてもらってから売ることにしよう。
それくらいの役得はあってもいいはずだ。
「その子を解放するつもりはないのね?」
「当たり前だろう。こいつは俺たちの大切な商品だからな」
「あら、そう。なら、助けるしかないわね」
「はあ……」とため息をつきながら女が近づいてくる。
武器を捨ててはいないが、抜いてもいない。
短剣を構えている俺に対して、素手で近づいてきているのだ。
(何を考えてやがる?)
奴隷になりたいわけではないだろう。
かといって助けたいのならば、剣を抜かない理由がわからない。
馬鹿なのか、それとも素手で十分だと思われているのか。
後者だとしたらなめられたものだ。
過酷な裏の世界で生きてきた男の剣技は、並の冒険者のそれを優に凌ぐ。
こんな女に負けるはずがない。
「おいおい、俺の話が聞こえなかったのか?
奴隷になるんだったら武器を捨ててからこっちへ来いって言ったんだよ!」
しかし、女の歩みが止まることはない。
仕方ない。
少し痛い目に遭わせれば、己の無力を理解するだろう。
男は間合いに入った女に向けて、右手に持ったその短剣を横薙ぎに振り切った。
殺すつもりはない。
浅く腕を切り裂いてやるだけだ。
そのつもりだった。
ピタッ
「なっ!?」
だがしかし、男の短剣が女を切り裂くことはなかった。
いつの間にか伸ばされていた女の左手が、親指と人差し指の二本の指で挟むように短剣を受け止めていたのだ。
素手で短剣を受け止められる。
その衝撃に男は狼狽えていた。
そんなこと本当に可能なのか。
だが、実際に目の前で男の斬撃は止められている。
ひょっとして、とんでもない相手に目をつけられたのでは。
そんな考えが脳裏を過り、冷や汗が背中を伝う。
慌てて距離を取るために、短剣を女の手から引き抜こうとする
しかし、まるで岩にでも差し込んであるかのように、短剣はピクリとも動かなかった。
「随分安っぽい剣を使っているのね」
たいして興味もなさそうに女が呟くと、まるで小枝でも折るかのように、つまんでいた二本の指でパキッと短剣を折った。
「……はっ!?」
目の前の光景に思わず間抜けな声が漏れる。
(鋼鉄製の短剣だぞ!?それを指で折るだと!?
そんなこと、本当に人間にできるのか?)
この女はヤバイ。
太刀打ちできるような相手ではない。
ようやく男は理解した。
だが、それはあまりにも遅すぎた。
「別に殺したりはしないから安心して」
スッと女の右手が男の顔に迫る。
「ひいっ……」
短剣を素手で止めるような奴の手だ。
それが顔面に迫っているということは、男にとって死と同義といっても過言ではなかった。
伸ばされた女の手が、男の顔の少し手前で止まる。
そして手甲を上に向け、丸めるように曲げた中指を親指に引っかけた。
「……デコ、ピン?」
「正解よ」
ズバコオォォォォン
おおよそデコピンでは考えられないような音と衝撃に包まれ、宙を舞った男の意識はそこで途切れた。
◇
「ほら、お母さんのところに帰るわよ」
私は床に座り込んだまま呆然としているエミに手を伸ばした。
お父さんとは言わない。
彼はあくまで父親の代わりをしているだけなのだ。
必要以上にエミの前で存在を意識させなくてもいいだろう。
「……おばさんはたすけてくれたの?」
「ぐっ……、ええ、そうよ。
あと、私はおばさんじゃなくて、お姉さんだからね」
思わず頬の筋肉がひきつる。
確かにエミからしたら母親と同年代の私はおばさんだろう。
だが、その発言を認めるわけにはいかなかった。
私は今の姿が最高の状態だと考えたからこの街に帰ってきたのだ。
もし彼に年増だと思われたら、立ち直れる気がしない。
いや、優しい彼が年齢で相手を判断するはずがないのだが。
「おば……、おねえさんはどうしてたすけてくれたの?」
「……たまたまよ。
たまたまあなたが攫われるところを見たから助けただけ。
人を助けるのは良いことだから」
彼の隣に立つに相応しい優しい人。
今回は失態を犯してしまったが、見たところエミに外傷はないし、最悪の事態は免れたようだ。
寛大な彼なら今回の失態は多目に見てくれるだろう。
だが、その優しさに甘えてばかりもいられない。
二度と同じ失敗は繰り返さないようにしなければ。
「ひとをたすけるのはいいこと……。
……ねえ、わたしも。
わたしもおば……、おねえさんみたいに、だれかをたすけられるような、つよいひとになれる?」
「うん? まあ、頑張ればなれるんじゃないかしら」
知らないけど。
「ねえ、おば……、おねえさん。
わたしをおば……、おねえさんのでしにしてください!」
「弟子? なんで私がそんな……」
否定の言葉を口にしようとしたところで、ふと私はあることに気がついた。
(エミが強くなるってことは、彼の庇護を必要としなくなるってことよね?
ということはつまり、彼はエミの父親代わりをする必要がなくなるってことで……。
そうなれば彼は自由の身! これで私と結婚できるわ!)
素晴らしいことに気がついてしまった。
正直、彼の代わりになるような人物を見つけるというのは不可能に近い手段であり、またエミとその母親を亡き者にするというのは彼の意に反する行為だ。
難航するかと思われた矢先に、まさかこのような解決策が見つかるとは。
キラキラした瞳を向けてくるエミに向き合うと、私はコホンと咳払いをした。
「いいわ。あなたを私の弟子にしてあげる。
その代わり、早急に強くなりなさい。
時間は待ってくれないわ」
私の女としての魅力。
いくら寛大な彼だって、老婆になった私などと結婚したくないだろう。
いや、彼ならしてくれるかもしれないが、そんなの私が申し訳なくてしたくない。
エミには一刻も早く強くなってもらおう。
私が若さを失うその前に。
◇
ひとまずエミは転移魔法で金物屋の裏手まで連れていった。
初めての転移魔法に驚いていたエミ。
だが、経緯はどうあれ私の弟子になったのだ。
この程度のことで驚いていてもらっては困る。
強い人になってもらわなければいけないのだから。
店の前はちょっとした騒ぎになっていた。
泣き崩れている母親と、その肩を抱いている彼。
街の衛兵の姿もある。
きっとこれからエミを探そうというところだろう。
彼のことだ。
店の裏に転移してきた私たちのことには気がついているだろう。
それでもそのことを誰にも伝えないのは、おそらくエミが出てくるのを待っているのだ。
誘拐ではなく、ただの迷子。
それが彼の中にあるシナリオなのだろう。
今回の誘拐は私を試すためのものだった。
だから態々大事にする必要はない。
「ほら、お母さんのところに行きなさい」
私はエミの背中をポンと押した。
「うん! おば……、おねえさんはいっしょにこないの?」
「私はいいわ。それと修行は明日から行うから。
今日はしっかり休んでおきなさい」
「しゅぎょー! わかった!」
エミは笑顔でうなずくと、母親の元へとかけていった。
誘拐されたことなど、既に忘れてしまったようだ。
その方がいい。
彼だって、必要以上にエミが傷つく姿はみたくないだろう。
(はっ! もしかしてそれが本当の意図なの?)
エミが癒えぬ心の傷を負ってしまったら、彼はいつまでも父親代わりをやめることができない。
それはつまり、私とも結婚することができないということで。
冷たい汗が頬を伝う。
今回の誘拐は私の優しさを試すためだけのものではなかったのだ。
本当に彼と結婚するつもりがあるのか。
そのために、立ち塞がる障害をいち早く察知し回避、あるいは除去することができるか。
それらも試されていたのである。
今回は運良くエミが癒えぬ心の傷を負う前に助けることができた。
だがもしあと少し、助けに行くための行動を起こすのが遅れていたら。
傷ついたエミという、今以上に厄介な障害が彼との間に立ち塞がることになってしまっていただろう。
私は強く、そして優しくなったと思っていた。
彼の隣に立つに相応しい女性になれたと。
だがそれは本当に妥協でしかなかったのだ。
きっと私は会えない十六年の間に、彼を過小評価してしまっていたのだろう。
心のどこかで、彼の隣に立つということのハードルを下げてしまっていたのだ。
エミの修行だけでは足りない。
私ももっと鍛えなければ。
強く優しい女性になるために。
泣きながら抱き合う家族を見つめながら私は決心した。
◇
「今日から修行を始めます」
「はーい!」
エミの元気な声が訓練場に響く。
彼の家の地下。
私が造った訓練場に二人はいた。
エミの修行をするにあたって、問題となったのが修行場所だ。
幼いエミが自由に外出できるわけもない。
私が転移魔法で連れ出しても良かったが、毎回送迎するというのも手間がかかる。
そこで白羽の矢が立ったのがこの地下室というわけだ。
エミの部屋にエミの魔力にだけ反応する転移陣を設置。
それを起動させることで、エミが一人でも地下室に来ることができるようにした。
また、修行にともない、地下室の拡張も行なっている。
居住スペースとは別に、訓練場を新たに造ったのだ。
魔法の練習もできるよう、壁には念入りに防御結界を張った。
それなりに気合いを入れて造ったので、私が本気を出してもしばらくは耐えられるだけの強度になっているはずだ。
「まず初めに、魔力を感じ取れるようになってもらおうかしら」
この世界において、魔力というものはすべての基本といっても過言ではないだろう。
魔法の行使はもちろん、剣術等の肉弾戦においても、魔力で身体強化をするのが一般的である。
要するに、魔力を認識し、強化していくことが強くなるための第一歩なのだ。
「今から私の魔力をエミに流すから、何か感じたら教えてくれるかしら?」
「わかった!」
私はエミの両手を取ると、ゆっくり自身の魔力を流し込み始めた。
塞き止められていた水を少しずつ流していくように、エミの体内にある魔力を動かしていく。
「あっ! なんかきた! あったかいの!」
「そう、それが魔力よ。今度は自分でそれを動かすよう意識してみて。
ゆっくりでいいから」
「う~ん……」
エミは目をぎゅっとつむり、魔力を動かそうと試みる。
初めてのことだ。
どこに力を入れていいのかわからないのだろう。
不必要に身体が強張っていて、なんだか微笑ましい。
そういえば、私も初めはこんな感じだった気がする。
私はエミの鳩尾にそっと手を置いた。
「この辺りに意識を集中してみて」
「こう?」
言われた通りにエミが意識を向ける。
すると、少しずつエミの魔力が流れ始めた。
「そうよ、その感じ。
そのまま少しずつ魔力の流れを早くしていくの」
エミに教えながら、私は少し驚いていた。
私が自身の魔力を動かせるようになるまで数日はかかった気がする。
独学だった私と、師匠がいるエミとでは一概に比較はできないが、それでもエミが優秀であることにかわりはないだろう。
クスリと思わず笑みが浮かぶ。
「おば……、おねえさんどうかしたの?」
「いや、なんでもないわ」
きっとエミは強くなるだろう。
それは私が彼と結婚することとは別に、嬉しいことだと思えた。
◇
「《火炎の矢》!」
私は正面から飛んでくる無数の火矢を右手に持った短剣で弾いていく。
だが、この攻撃は囮だ。
そもそも正面で魔法を放っているエミ自体が、彼女の魔法で生み出されたゴーレムだろう。
火矢の弾幕に隠れて入れ替わった気配があったのだ。
本人はというと防御に徹する私の隙をつこうと、不可視の魔法を使って背後に回り込んでいる。
「ふっ!」
一切の躊躇いもなく、背後から斬りかかる剣を、私は半身になって躱す。
そのまま正面から来る火矢を当ててやろうかと思ったが、さすがに自身の魔法を食らうほど間抜けではないか。
そのまま二人の闘いは近接戦へと移行していく。
相変わらず不可視の状態で迫ってくるエミ。
その技量はなかなかのもので、今では私でも視認することができないほどだ。
だが、見えないからといって攻撃を躱せないわけではない。
うっすら感じる魔力の流れ。
斬撃による空気の揺らぎ。
それらの情報をもとに、私は丁寧にすべての攻撃を捌いていく。
そのときだった。
「っ!」
不意に私の身体が傾いた。
どうやらいつの間にか、私の足元に小さな土塊を創造していたらしい。
油断していたつもりはなかったが、魔法を使ったことに気がつけなかった。
倒れていく私を見てチャンスだと思ったのだろう。
エミがとどめを刺そうと鋭い一撃を放ってきた。
ゆっくりと流れる視界の中で、「強くなったわね」としみじみと思う。
そして斬撃が私を捉える寸前。
私はエミの持つ剣を蹴り飛ばした。
「ちょっと! 右手と短剣しか使わないってルールだったじゃないですか!」
「思わず動いちゃったんだから仕方ないでしょう」
「でもルールはルールです! 私の勝ちですよね?」
「はいはい、私の負けよ」
「やったー!」
全身で喜びを表現するエミ。
その微笑ましい姿は幼い頃から変わっていなかった。
エミと修行を始めてからもうすぐ十年になる。
エミも十五歳となり、世間では成人とされる年齢になった。
あの幼かった少女が、こんなに大きくなるなんて。
なかなか感慨深いものだ。
「それはそうと、今日の彼はどうだったかしら?」
私は亜空間からタオルを取り出すと、エミに手渡しながら尋ねた。
「お父さんですか? とくに変わりありませんよ。いつも通り元気です」
「それは良かったわ!」
彼が元気だというだけで、私も元気になる。
存在しているだけで誰かを元気にできるなんて、やはり彼はすごい。
「早くエミには私より強くなってもらわないとね」
「いつも言ってますけど、それはハードル高すぎですよ。
私が強くなるより、師匠の寿命を待った方がまだ可能性があります」
「私が死んでしまっては意味がないでしょう」
「いやまあ、師匠が寿命程度で死ぬとは思ってませんけど。
というか、仮に私が師匠よりも強くなったとして、師匠の片想いが実る訳じゃないですからね?」
「片想いじゃないわ。私と彼は結婚の約束をしたんですもの!」
「それって子供の時の話でしょう。
……はあ、基本的にすごい人なのに、なんでお父さんのことになるとこんなに頭のおかしい人になっちゃうんだろう」
「ちょっと、聞こえてるわよ」
エミはいい子に育ったが、時々私に辛辣な言葉を吐くことがある。
頭がおかしいだなんて、まったく失礼な話だ。
「聞こえるように言ってるんです!
まあいいや。それじゃあ手合わせの続きお願いします」
「そうね、次は私も魔法ありにしてみる?」
「それはいきなりレベル上げすぎですって。次は両手でお願いします」
「わかったわ」
戦士の顔つきになった弟子と向かい合い、私も短剣を構える。
この子が私を越えるまであとどれくらいだろうか。
エミは強い。
きっともう数年もかからないだろう。
そしてそれは、彼との結婚もカウントダウンに入ったということで。
私は幸せな未来を思い描く。
いつの間にかそこに彼と私以外の人物が溶け込んでいるということに、私が気づくことはなかった。
大きくなったら結婚しようと誓った幼馴染が幸せな家庭を築いていた 黒うさぎ @KuroUsagi4455
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