人と関わる、人格と関わる
私は今日、ありがたいことに高校の同級生から一緒に遊ばないかとお誘いをいただき、一緒にゲームをして遊びました。(ご時世的なものには充分注意していたので許してください。)なんともこうやって他人と邂逅を果たすのは実に数ヶ月ぶりのことで、引きこもりを続けている自分としてはなかなかない機会ではありました。
その帰りにちょっと思ったことについて、今回は話していこうと思います。
その帰り、私は同級生の親に送迎を頼み、一足先に帰宅することになりました。同級生、詳しく言えば背高男子と元気な女子の2人と遊んだのですが、私が帰ったあと、その2人は何をするのだろうと、うつつながらに考えていました。もしかすると、私が帰った後に2人でお楽しみなのかとまるでませがきかのような思考をしてみたり、普通に2人でその後もゲームをするのかという安定思考もしてみたり……と、まぁ色々なことを考えました。
そんな思考をしつつ、なんでこんなに不安定に想像上の同級生達が行動をするのかと不思議に思っていたのですが、ふと我に帰ってみれば、自分の中での彼らの人格がわからなくなっているのかもしれないという結論に辿り着いたのでした。
「本当に他人の人格がわかるのは、その人と大喧嘩をしたときだ。」
こんな言葉を聞いたことがあるのですが、自分自身他人の人格に疎い節があるとしても、何ヶ月とその人に会わないでいるとどうしても他者の人格もわからなくなるものなのだなと思いました。
他者の人格を把握すること。他者と関わりながら社会を生きる人間にとって、他人に迷惑をかけず円滑に物事を進めるために、もっと言えば他人が笑っていられるようにするためにとても重要なことです。うつ初期の頃、私自身の中で疑心暗鬼になってしまい、他人の人格がわからず信用できないから他人と関わらない、という結論になってしまった私なのですが、その反面、他人と関わることが人格把握の一歩というのなら、今私がやっていることはあってるようで大間違いということになります。
まぁ実際においては、他人と関わらなければ他人の人格を把握する必要もなくなるわけです。それは他人を笑わせることができなくとも、他人を泣かせることはないだろうというものなのです。
以降自分の行動に直結するかはまた別の話ですが、人格把握が苦手な私にとって他人と関わるか関わらないかはどうも大きな問題になるのかもしれません。
どうも自分語りが多くなる、話がまとまらない、相手に問題提起もできていないという形で他人に思考を投げる形になってしまっているわけなのですが、この状態でも、他人が自分の思考回路をどう思って見つめているのかは気になるものなのです、許してください。
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