第五章-2
霧の中から幻が現れる。
ソラは、己の鼻を頼りに、本物の地面を探しあて、歩いた。幻の声や姿は務めて無視した。
幻の霧を突破した先には、ヒナリがいた。見たこともない不機嫌な顔をして、木にもたれかかっている。
彼女の頭上の枝には、人間……に似た何かが座っている。身体の形や衣は人間の男とほぼ同じだ。しかし、背中に、鳥のような茶色いまだら模様の翼が生えている。
「ソラくん、良かった、来たんだね」
ヒナリはぎこちなく微笑む。
「上の男は誰だ?」
「里の門番だって。あの悪趣味な幻覚を作った張本人」
門番は、フンと鼻を鳴らす。
「里の試練を悪趣味とは失礼だな」
ヒナリは白い目を向ける。
「幻を見せるって聞いてた時から、もしかすると、と思ってたけど。まさか本当にやるとはね。ああやって、ひとの傷口をえぐって良いわけ? 試練というか、ただの嫌がらせでしょ、これ」
ヒナリの非難にも、門番は全く動じない。
「心の弱みに打ち勝つ者のみ、この里に入る資格があるのだ」
「ヒナリはどんな幻を見たんだ?」
ソラは尋ねた。
「お母様が亡くなった時の幻よ」
「俺も、育ての親が出てきた。どうやって幻を破ったんだ?」
「力技で」
「……なるほど」
ヒナリなら、幻を消しとばす術を知っていてもおかしくない。
ソラは背後を振り返る。霧は立ちこめており、リエの様子は見えない。
「言っておくが、手助けは禁止だ。幻を解いたりしたら、全員、ここから追いだすからな」
門番は冷たく言いはなつ。
「リエちゃん、頑張って」
ヒナリは、祈るように呟いた。
仲間を探して、リエは霧の中を彷徨う。
前も後ろも真っ白で、足元の地面すら見えない。リエは試しに、背中に背負っていたズダ袋を地面に下ろしてみた。袋は霧に紛れ、あっという間に見えなくなる。
(霧の幻、なのかな? どこへ行けば良いんだろう?)
一歩一歩、地面があることを確認し、慎重に進む。
しかし、ふと、緑と湿った土の臭いが、鼻をかすめる。あれ、とリエは目をパチパチさせる。
リエは、瑞木の森にいた。
いつも泳いでいた滝壺。薬草をつんだ森。明るい木漏れ日も、滝の流れ落ちる音も、リエが知っている森と全く同じだ。
「これが幻? 本当の森にしか見えない……」
足元には、家へ続く道がある。リエはおっかなびっくり、歩いた。家に着くと、戸をひき、中の様子をうかがう。
バア様がいた。床の上に倒れている。
「バア様!」
リエは幻だと言うことも忘れて、バア様に駆けよる。
そして、バア様の姿を見た。その途端、リエの顔から血の気がひく。
バア様の肌は、灰色の石になっている。
リエが凍りついている前で、バア様がゆっくりと、頭を回した。
「何故、オボロ様の元へ行かなかったんだい」
いつも笑顔を浮かべていたバア様が、憤怒の形相でリエを睨みつける。
(幻だ。全部幻だ。だって私、さっきまでソラとヒナリと一緒に山にいたんだから……こんなの嘘っぱちだ!)
必死で己の心に言いきかせるリエ。しかし、怨嗟の声が、耳に入ってくる。
「里の人達もみんな、病にかかってしまった。足の指先から、みるみるうちに石になって、歩けなくなり、箸を持つこともできなくなる。ものも食べられなくなって、最後は石像のようになってしまった……私も、もうすぐそうなる……。だが、まだ間にあう。お前がオボロ様の元へ行けば、まだ助かるんだよ」
怒りの声が一転、哀れを誘う声に変化する。
「お前は流し神子だ。みんなのために、オボロ様の元へ行っておくれ。そうしないと里が滅んじまう」
リエの脳裏に、次々とおぞましい記憶がよぎる。常闇の黒い水。無数の顔の泡。金色の化け物。
「い、嫌だよ。あんなの、もう嫌だ」
「わがままを言わないでおくれ。今、リエが行けば、みんな助かるんだ。お願いだよ。私達が死んでも良いっていうのかい?」
「それは──」
リエは言葉に詰まる。当然そんなはずはない。自分とみんなを助けるために、ここまで河をさかのぼってきたのだ。
「そんなことないよ。みんなを助けたいよ。だから、世ノ河の源流へ行くんだよ」
「もう時間がないんだよ。山なんか登ったって、間に合わない。大人しく、オボロ様の元へ向かっておくれ」
リエはブンブンと首を横に振った。踵を返し、戸口まで走る。
「私が幻だと思ってるから、嫌がるんだね?」
リエは振り返った。
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