第四章-5
逃げる間も無く、水の中から歪な狼の頭が、ぬっ、と出る。赤い二つの目が、じっとリエを見つめる。
逃げようと、リエは立とうとした。しかし、足が石化し、感覚が完全に消え失せる。うんともすんとも動かない。
悪霊の口がぐわっと開く。リエを頭から食おうと、躍りかかる。
だが、すんでのところで、ヒナリが術を使った。水面が大きくうねり、悪霊を弾き飛ばす。そして、ソラが川へ飛びだした。
焚き火が悪霊を照らす。リエ達の目に、悪霊の姿がはっきりと映る。
悪霊は、ソラより一回り、いや二回りほど小さい。しかし、毛皮はボロボロで、腐りきり、黄ばんだ骨が見えている。リエは狼の骨を見たことがないが、それでも、骨の位置がありえないのが分かる。折れて短くなったり、明らかにおかしい方向へ曲がっている。狼ではない、他の動物の骨も混じっている。背中から突きだしているのは、うさぎの頭の骨だ。足には、大きなカギ爪がある。何の動物の骨だろうか。
胴体に対し、頭は不自然に大きい。口が裂けていて、ギザギザとした歯が見える。触れるだけで、指が切れてしまいそうだ。
ソラは悪霊の首に食らいつく。だが、悪霊は、全くひるまない。皮が裂け骨が砕けようと、意に介さずソラの毛皮に爪を立てる。
もつれあう、ソラと悪霊。その後ろに、黒いモヤが立ちこめ、形を作る。
「ソラ、こっちに! 来て、早く!」
ヒナリが悲鳴をあげた。ソラは悪霊から離れると、すばやく結界の内側に潜りこむ。直後、悪霊と化け物が突進し、結界に弾かれる。
「大丈夫か?」
ソラはリエの元へ駆けよった。すでに、足から口元まで石化している。リエは目だけを動かし、ソラを見る。
「リエ、朝までの辛抱だ」
ソラはリエの横に立つ。
ソラの背後では、悪霊と化け物が、まだ結界の破壊を試みている。叫び、唸り、突進する。それを幾度も繰り返す。
やがて、悪霊の周りに化け物が集まりだす。悪霊は瞬く間に、黒いモヤをまとった、巨大な獣の姿に変わった。結界に突進した瞬間、甲高い音が鳴り、空気がビリビリと震える。
シグレは震える手で弓を構え、矢を放つ。狙わなくとも、矢は化け物に刺さる。しかし化け物は全く怯まない。無駄だと悟ったシグレは、青ざめた顔でソラのそばにやって来る。
「こ、これ大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
ヒナリは至って冷静だ。
「だが、厄介なことになった」
ソラは呟く。
「化け物が、悪霊に力を貸したんだ」
その日、夜明けごろまで、誰もまともに眠れなかった。
朝になり、悪霊と化け物は去っていった。石化が解けると、リエは真っ先にソラの怪我の心配をする。
「ソラ、怪我は?」
「平気だ」
(そうは言っても、痛いものは痛いはず)
リエは唇を噛みしめる。
味がよく分からない朝餉を食べると、一行は出発した。
木と木の間の、細い隙間を、ソラはどんどん走る。進めば進むほど、木々は枝葉を広げ、陽光が入ってこない。昼なのに、夕方と間違えそうだ。
時折休憩のために、ソラの背中から下りる。そのたび、リエは転びそうになる。眠れず、疲れが取れていないために、足元がフラフラするのだ。
(眠いし、疲れた。もしかしてこれが、悪霊の狙いなのかな)
泉のほとりで、リエはぼんやりと思った。疲れて動けないところに、悪霊が襲いかかるのだ。
「リエちゃん、これ」
シグレが何かを差し出した。黄色い木の実だ。
「食べてみて。目が覚めるよ」
リエは言われるがまま、食べた。噛んだ瞬間、リエは震えあがった。
「酸っぱ!」
シグレは笑う。
「梅干しより酸っぱいけれど、噛むと甘くなるよ」
噛めと言われても、酸っぱすぎて噛むこともままならない。頑張って顎を動かすと、確かにほんのり甘く感じる……気がする。
「な、何ですか、これ」
「狩人の間ではよく食べるんだ。ずっと森の中を移動したり、隠れていたりすると、どうしても疲れてくる。この実はね、その疲れを吹き飛ばすんだ。ほら、そこにたくさん実っている」
ヒナリが興味津々な目でシグレをみている。シグレは彼女にも実を渡した。ヒナリは喜んで食べたが、すぐに口をすぼめた。
甘いかどうかはよく分からないが、シグレの言うとおり、疲労と眠気は吹きとんだ。おかげで、リエはいい考えを思いついた。
「ねえ、悪霊を倒す方法なんだけど、罠を使うってのはどうだろう。罠で捕まえて、逃げられなくするんだよ」
「罠? 奴は賢いからひっかからないし、仮にかかっても、無理矢理抜けだろう」
「火を使うのは?」
「火?」
ソラは聞きかえした。
「身体が燃えちゃったら、いくら悪霊でもひとたまりもないでしょ。そういう罠を作れないかなって。例えば、落とし穴に落として、そこに火を放つとか。火が出る罠を仕掛けて、悪霊を燃やすとか」
シグレはふうむ、と考える。
「火が出る罠か。せっかく火をつけても、消されては意味がない。油がないから火矢もないし。どうやって大きな火を作るか……」
ぶつぶつと呟くシグレ。
リエは、思いついた罠や方法を次々と口にする。ソラやヒナリも、それを聞いてああだこうだ、と話す。
やがて、作戦がまとまると、それを実行する場所へ向かって、一行は移動した。
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