第四章-3
ヒナリは、黄色い葉をつけた木の根元に座っていた。
この木の名前は、イチョウというらしい。木がそう教えてくれた。
「あれは何をしてるの?」
ヒナリは木に尋ねた。リエは奇妙な道具を持って、棒を飛ばしている。
──弓の練習だ。人間は、矢という棒を勢いよく飛ばして、狩りをしたり、自分の身を守ったりする。人間は、足も遅いし、隠れるのも得意ではない。だからああやって戦うのだ。海ではどうだ?
「うーん、ああいう道具は使わないかなあ」
広場を囲む木々は、じっとリエ達やヒナリの様子を見ていた。彼らだけでなく、他の精霊もいる。
「生きてる人は、みんなのことが見えないの?」
──見えない。
「精霊達はどうして集まっているの?」
──悪霊がうろついていて、安全な場所がないからだ。あとは、ただの好奇心だ。特に、竜宮からのお客は珍しい。
ふと、背後に気配を感じ、ヒナリは振り返った。ソラがいた。
「結界はできたか?」
「うん、できた」
「壊れたりしないか?」
「そんじょそこらの力じゃ壊れないよ。悪霊と化け物が一緒に来ても耐えられる。真珠はあるだけ持ってきたし、何日でも籠城できるよ」
「どれくらいの量だ?」
「一日一回結界を張るとして、半年分」
「それだけあるなら、悪霊を退治……できないのか」
ヒナリはしょんぼりと肩を落とす。
「もっと弱っちいのだったら、できたと思うけど……あれは無理だよ」
「そうか」
ソラは落胆した。ここまで元気がない返事をしたソラは、初めてだ。
「悪霊はそんなに強いの? 確かに気配からして、弱くはないけど、常闇を走ってリエちゃんを助けた貴方なら絶対負けないはずよ」
「そうだったら良かったんだがな。実際、前の戦いで、後少しのところまで追いつめたんだ」
「そうなの?」
「散々戦った末、背骨を砕いた。奴はたまらず逃げだした。傷がかなり痛んだが、俺は追いかけた。さっさと奴にとどめを刺さなければ、そう思ってな。だが、それが間違いだった。俺は小さなぬかるみに足を取られた。普段なら楽々と飛びこえられるが、痛みと疲れでその時は気づかなかった。そこを、悪霊に襲われた。最初から、それを狙っていたんだろう。俺は死に物狂いで霊道へ逃げて、リエのところに行きついたんだ」
「……それなら、逃げる? 森を全速力で移動して、奴が近づいたら、結界をはるとか。真珠は山ほどあるし」
「いや。それは駄目だ。奴は悪食で、何でも食べる。生き物も、死骸も泥も、本当に何でもだ。そうして大きくなり、強くなる。今は逃げきれても、やがて太刀打ちできなくなる。そうなる前に、倒しておかなければ」
ソラの声には、決意と恐怖が混じっていた。
「分かった。ソラくん、気をつけて」
「ヒナリ達もな」
ソラはまた茂みに隠れた。もう、彼の気配を感じない。ずっと隠れていて、悪霊がやってきたら、襲いかかるつもりなのだろう。
ヒナリは、感覚を研ぎすませた。悪霊の気配を感じとる。悪霊はゆっくり、一定のはやさで近づいている。木の囁きも聞こえる。気をつけて、奴が来る、と。
シグレがヒナリを呼んだ。
「もうすぐ日が沈むよ。家の中に入って」
ヒナリは家に戻った。家ではシグレが汁物を用意していた。ふうふう息を吹きかけながら飲んだ。
日が落ち、夜になった。
リエは、小さなろうそくの明かりのもと、薬を作っていた。シグレに薬を作らせてもらうようお願いしたら、二つ返事で許してもらったのだ。リエは乳鉢で、乾いた葉をすり潰していく。
「それ、何してるの?」
ヒナリは尋ねた。リエは手をとめずに答える。
「薬を作ってるの。痛み止めと血止め、傷の治りを早める薬だよ」
ヒナリはいまいちピンと来ていないようだ。海の中には薬というものがないのかもしれない。だって、クジラのひれでは、薬草をすり潰すことはできない。
「私も手伝っていい?」
「いいよ。じゃあ、そこの細長いのをとって」
ヒナリが持ってきた葉を、リエは次々とすりつぶして粉にし、混ぜていく。
「薬作り、上手だね」
シグレが言った。彼も、リエの横で薬を作っている。
「バア様が教えてくれたんです」
ろうそくが短くなり、溶けてしまうまで、薬作りを続けた。火が消えてしまうと、三人は床に横になって眠った。
ふと、リエは目を覚ました。
格子窓から月光が差しこんでいる。窓のそばには、いつの間にかヒナリが立っていて、外の様子をうかがっている。
辺りには、薬草の臭い、森の臭い、そして例えようがない、強烈な腐った臭いがする。
(でも、この腐った臭いはなに?)
リエの本能が、危険だと告げる。枕元に置いていた弓矢を手に取る。
その時、足音が聞こえた。リエは窓に近づいた。
窓の外、茂みの奥に、赤く光る二つの目がある。
それの正体を考える前に、次の瞬間、それは吠えた。今まで聞いた、どんな獣の声とも違う。雷ように低く、憎しみのこもった声だ。
それは、茂みから猛然と飛びだした。真っ黒な何かが、真っ直ぐリエ達に向かってくる。しかし、突然、後ろへ吹っ飛んでいった。まるで、何か見えない力に吹き飛ばされたかのようだ。
結界の力だ、とリエが気づいた時には、別の茂みからソラが飛びだしていた。猛然とそれに襲いかかる。白と黒がもつれ合い、赤い血が飛び散る。
(あれが、悪霊)
ちょうど月が雲に隠れてしまい、姿がはっきりと見えない。しかし、この耐え難い腐臭は決して忘れることができないだろう。
やがて、それは茂みの中へ姿を消した。ソラは追わなかった。
リエの背後で、シグレがほっと安堵の息をつく。
(良かった、どっかに行ってくれた)
リエも胸を撫でおろした。だがその時、足が石になった。身体を支えられず、床に倒れる。同時に、ヒナリが「ソラ! 後ろ!」と叫んだ。
リエは、シグレに支えられながら、まだ動く手で格子窓にしがみつき、外を見た。
ちょうど、雲がはれ、月光が差しこむ。
茂みから、黒いモヤが立ち上り、形を作った。人、獣、魚。人の顔はのっぺりしていて、目も鼻もない。獣は毛が、魚はウロコがない。どれも、口は大きく裂け、三日月の形をしている。全身真っ黒な中、そこだけ真っ赤だ。
ソラは、すぐに結界の内側に入った。
常闇の化け物は唸り声をあげる。瞬く間にソラの眼前へ迫りくるが、ヒナリの結界が働き、悪霊と同じように、後ろへ弾きとばされる。その後も何度も結界を破ろうと襲いかかろうとするが、結果は同じだ。
(今すぐは入ってこれない……のかな)
リエは呼吸を落ち着かせる。
常闇の化け物は、近づけないと分かると、リエ達をあざけるような笑い声をあげた。そして、ぐるぐると広場の周囲を回りはじめる。
リエの石化は進む。腰が重くなり、腹の感覚が無くなった。肩が、腕が、指先が灰色になり、格子戸を掴んでいられなくなる。リエは再び倒れた。首も回らず、声も出せない。
(このまま、頭まで石になっちゃったら──)
しかし、それ以上石化が進むことはなく、リエは鼻で呼吸ができた。
全員、朝日がのぼるのを、今か今かと待ち続けた。ようやく空が明るくなり、化け物は姿を消した。石化が解け、リエは起きあがった。薬の詰まった箱を手にとり、外へ出る。
「ソラ! 怪我はない?」
朝日に照らされたソラは、四本の足でしっかり立っていた。だが、白い毛のあちこちに、血が滲んでいる。
「大した怪我じゃない」
ソラの言葉を無視し、リエは傷を診る。最初、彼に出会った時と似たような傷が数本ある。あの時ほど深くはないが、決して小さくない怪我だ。リエはせっせと傷口に薬を塗った。
「そ、その狼は、何だ? 噛みついたりしないのかい?」
シグレが戸口から恐る恐る、ソラを見つめる。
「大丈夫です、ソラは私の友達なんです」
「そうだ。食ったりしないから、安心しろ」
シグレは目を白黒させた。
「れ、霊獣様だ!」
「違う。ただの喋る狼だ」
ソラの怪我の手当をしている間、シグレはソラを畏敬の目で見つめ、「こんなものしかありませんが」と、木の実をあげた。ソラはもそもそと木の実を食べ、自分が霊獣ではないという説明をしていた。
一方、ヒナリは昨日埋めた真珠を、一つずつ掘り返した。四つ掘りかえすと、首を振りながら、リエ達の元へ戻ってくる。
「真珠が全部割れてる。また埋めなおさないと」
「あと半年分だったな?」
「うん」
ソラはじっと何かを考えていた。
「あの、霊獣様」
シグレは恐る恐る話しかける。
「違う。俺はソラだ」
「えっと、ソラ様。あの悪霊を倒すのです……倒すのかい?」
「ああ。何が何でも、奴を粉々にしてやる」
ソラは悪霊が去った方向を見る。
「また夜、奴は来るだろう」
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