第二章-1
ひどい頭痛で、リエは目を覚ました。目が覚めた途端、強い悪臭でおえっとなり、鼻と口を手で覆った。
(オボロ様のところに着いたかな?)
起きあがって周りを見る。しかしそこは、リエが思いえがいていた世界とは似ても似つかない場所だった。
空は灰色だ。暗くどんよりとしている。舟が浮かぶ水面は墨汁のように黒い。白い岩が、水面から顔を出している。
(なんだろう、ここ。本当に、こんなところにオボロ様はいるのかな)
空いた手で衣の裾を握りしめる。何かないか、誰かいないかと周りを見るが、黒い水と岩ばかりで何にもない。岸すら見えない。
「きっといるよ……オボロ様はここにいる。絶対に」
声に出して自分に言いきかせる。リエは前を向き、オボロ様が現れるのをひたすら待つ。
舟は音も無く水面を進む。一つ、二つ……いくつもの岩の横を、通り過ぎる。岩には、何故か白い布切れが引っかかっている。
(何で布切れがこんな所にあるんだろう?)
布切れ以外にも色々落ちている。白い棒切れのようなものだ。
(あれは……骨? 犬でも猫でもないけど、なんの骨だろう?)
どこからともなく不気味な音が聞こえる。人の声に聞こえるが、何を言ってるかまでは分からない。リエの顔色はいよいよ悪くなる。
「オボロ様、オボロ様。怖いです。助けてください」
ひたすら祈り、助けを待つ。
舟が岩にぶつかった。その岩にも白い布切れが引っかかっている。リエは布を手に取った。肌触りが、今着ている衣と同じだ。
それが何を意味するか考えようとしたその時、舟が大きく揺れ、リエは黒い水面に放りだされた。
水の中、耳元でゴボゴボと泡が弾ける。その音に混じり、今まで聞き取れなかった声が、はっきり聞こえた。
──オボロサマ──
大きな揺れがリエを襲う。水が彼女の小さな身体を押しあげる。その瞬間、指先が何かを掴む。リエは無我夢中でそれにしがみつく。顔が水面から出ると、激しく咳こんだ。
リエの周りの水面に、黒い泡がブクブクと泡立ち始めた。数はどんどん増え、泡に目鼻口ができた。泡と泡の間から細い手が伸びる。
──オボロサマ、オボロサマ、オボロサマ──
泡の口が一斉に開き、低い声で口々に泣き叫ぶ。
再び水面が大きく揺れた。泡だらけの水面を割って、黄金色の化け物が現れる。
それは、今までみたどんな動物にも似ていないが、リエが知っている生き物の中で例えるならば、巨大な、金色のウロコの魚のようだ。
しかしリエがバア様と一緒に食べた魚は、目が二つで口は小さく、歯は生えていなかった。この魚は目が数えきれないくらいあって、ギョロギョロと動いている。唇は青くめくれ上がり、針のような牙が生えそろっている。牙と牙の間に泥や布切れがひっかかっている。
化け物は、咆哮をあげた。嵐の夜の、暴れ狂う風のような声。周りの泡も、それに応えて次々と叫ぶ。水面を震わせ、リエの耳朶を打つ。
リエは動けない。混乱と恐怖のあまり、身も心も石になってしまった。何も考えられず、元は舟だった板きれにしがみついている。
化け物はゆっくりリエに近づいてくる。水面が揺れ、彼女は右に左に流される。それでも瞬きすらしない。どこにも焦点が合わないガラス玉のような目で、化け物を見る。
化け物が口をゆっくりと開ける。牙と牙の向こうに暗闇がある。とてつもない悪臭がむわっと吐きだされる。しかしリエは水面に漂うまま。少しも動けないし、何も考えられない。
牙がリエの真上に迫る。その切っ先が小さな頭を砕かんと、ゆっくりと下りていく。
その時。
『この先助けが必要になったら、俺の名前を呼べ』
あの白い狼の声が、記憶の中からふ、と浮かび上がった。
リエは口を開き、生臭い空気を思い切り吸って叫んだ。
「ソラ! 助けて、ソラ!」
何度も何度も狂ったようにソラを呼び、姿を探す。でもどこにもいない。
「……そりゃ、そうか。こんな所に、来るわけないよ」
乾いた言葉が、こぼれ落ちる。
死ぬのだ。
化け物に食べられて、それでお終いなのだ。
深淵の闇が、リエの前に迫る。
「リエ!」
聞き覚えのある、雄々しい声が淀んだ空気を切り裂いた。
化け物の動きが止まる。
真っ白な狼が、岩から岩へ、稲妻のように駆け、リエのすぐそばにある岩までやって来る。
「大丈夫か! ここまで来れるか?」
「う、うん!」
リエは懸命に泳ぎ、岩の出っ張りに手を伸ばす。しかし水を吸った花嫁衣装が重く、思うように動けない。するとソラがリエの衣を咥えて、岩の上へぐっと持ちあげる。
「背中に乗れ。しっかり掴まれ。霊道を通って逃げるぞ」
ソラは姿勢を低くする。リエは必死で背中に乗る。
ソラは宙へ跳ぶ。その先には岩も何もない。リエがぎゅっと強くしがみついたその瞬間、周りが一瞬真っ白になり、次の瞬間、暗闇にいた。暗闇と言っても、化け物の口の中とは違う。蛍のような光の球が、ふわふわと浮いている。霊道に入ったのだ。
ソラは猛然と走りだす。向かい風がもろに身体に当たり、危うく吹き飛ばされそうになる。リエは慌てて頭を下げ、顔をソラの白い毛にうずめた。耳元でビュウビュウと風が吹きすさぶ中、ソラの熱と脈が伝わってくる。
(まだ、生きてる)
リエの目から涙がポロポロとこぼれ落ちていった。
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