第35話・あるいはこんな日常を
それで麻季と篠の関係で何かが変わったのか、というと。
「お嬢さまー。朝ですよー。学校に遅刻しますよー。そろそろ期末テストとかあるんじゃないですかー」
「…ん、んー……あと五じかぁん…」
「ほんとに五時間寝たいんならほっときますが。後で『なんで起こさなかったのよ!』とか怒らないでくださいね」
「…わかったぁ…起きるぅ……んしょ」
「だから起きるなり素っ裸になるのは止めてくださいってば。カーテン開いてんすから」
別に今までと何も違いはないのだった。
そしてこれまた今まで通り、脱ぎ散らかされたお嬢さまのネグリジェを回収しつつ、麻季は声をかける。
「…にしても、お嬢さま。寝起きはいい方なのに今日は珍しいっすね。どしたんすか」
「え?んー、愛する麻季とのファーストキスを思い出すと興奮して、昨夜はなかなか寝つけなかった」
「……あのですね」
「ふふ、麻季の照れ顔、かわいーなー」
…そうでもないかもしれなかった。
「いってきまーす!」
「あ、お嬢さま!おべんと忘れてますってばっ!」
「…っ?!ごめんごめん、せっかく麻季が愛情込めて作ってくれたお弁当無駄にするとこだった」
「…ことあるごとに口説くのやめてください」
「いいじゃない。嬉しくない?」
「……ありがとーございます」
玄関先でしばしイチャつくと、篠はもう一度「いってきまぁす!」と元気よく駆け出していった。ちなみにお出かけの時の何とやら、はしていない。時間の余裕がそこまで無かったからだ。
もう少し早く朝食を済ませていればこんなに慌てなくても良さそうなものだが、食卓でさんざん話が盛り上がったのだ。篠が気付かなければメイドの自分が切り上げないといけないのに、これでは仕える者の本分が果たせているかどうか、怪しいものだ。
「まっずいよなぁ、コレ…」
篠が学校に行って静かになった部屋の中で、麻季はそう独りごちる。
お嬢さまはメイドの身たる自分を好きと言ってくれた。自分も、間違い無くお嬢さまをお慕い申し上げている。恋愛的な意味で。
だから、余計に拙いと思うのだ。朝から晩まで、あい…愛しあう二人が一緒にいるのだ。どこかで歯止めをかけないと自堕落な生活になってしまいかねない。それは、麻季の本意ではない。お嬢さまがどう思うのかはともかく。
「…あ」
右手の人差し指が、我知らず自分の唇に当てられていた。感触を思い出そうとするかのように。
そう、昨夜、この唇はお嬢さまの唇と重ねられ、ついでに右手の指は、夜中自分の……。
「…って、いかんいかん、仕事だ仕事っ!今日は何も考えられないくらいややこしい料理作ってやるっ!」
ぼんのーを振り払い、掃除を始める。
頭の中で今晩の料理を何にしようか考えながら。
「佛跳牆がいーかなぁ…いやまあ作ったことはねーけど。あと流石に時間もねーし。つか中華は一昨日作ったから、和食…んー、フランス料理って気分かなぁ…レシピ帳後で確認しねーと…お嬢さま、喜んでくれるといいんだけどなあ…」
難しい料理の調理手順と一緒に篠の顔を思い浮かべながらではなんにもならないだろうに、麻季はそんなことにも気付かず、上の空で掃除機を前後に往復させていた。同じ場所で。色ボケもここに極まれり、だった。
「しのしの。正直キモい」
「なんだとこのやろー」
昼休み。
弁当を開ける篠の顔を見て万千は心底不気味そうに、そう告げた。
それはまあその通りで、麻季の作った弁当を見つめる篠の顔ときたら、控え目に表現してニヤニヤを通り越してニタニタしてたからだ。
「まきっちの弁当美味しいのは分かるけどさー、そこまで入れ込まれると……あ、これ美味しそうだね。ちょーだい?」
「盗ったら殺す」
「……いちおうあーしもさ、しのしのの友だちのつもりではいるんよね。その友だちに対して本気っぽく殺すとかいうの、止めない?」
「……ごめん」
隣の席で同様に弁当を食していたクラスメイトが、青い顔をして机と椅子を引いて距離をおいていた。
「まあいいけど。それよりさー、今日一緒に帰んない?ミルクティーとクッキーがちょーイケてる店見つけたんよね。しのしの好きでしょ?」
「え……あー、まあそのー…うん、興味はあるんだけどね……ごめん」
「…フラれたかー。ってか、オトコが出来ると女は友だち付き合い悪くなるとゆーけれど…まさか、デキたか!」
「デキてないわよっ!…まだ、その…」
銜え箸になってごにょごにょと言う篠。何を誤解したのかは分からないが、あんまりこーいう恋愛の機微に敏くはない万千は、まさか篠が住み込みメイドとそーいう仲になったなどと想像もできず、篠からしたら若干迷惑な方向に勘違いを拗らせて、昼休みの時間は過ぎていった。
「ただいまーっ!」
放課後、終業のチャイムが鳴り終わる前に教室を飛び出した篠は、いつも乗ってる急行を待つ時間も惜しくなり、各駅停車に乗ってあやうくかえって遅くなるという失態をしでかしかけた。途中で気付いて乗り換えはしたけれど。
そうして、まだ日も傾いていないんじゃないか、という時間に部屋に着き、これまた靴を脱ぐ時間も惜しくリビングに駆け込む。
そこにいたのは、洗濯物を畳んでいた住み込みメイド。篠は、カーペットの上に置かれた洗濯物を蹴散らして、愛しいメイドにジャンピングダイブをかます。
「麻季っ、ただいまっ!」
「てい」
「あんっ…?!」
だが敵も然る者。不意打ちを食らわしたつもりだったのに、腕を取られて姿勢を崩され、標的の腕の中に抱きとめられてしまう。
上方から降った古武道の大家の、最後の継承者。技は錆び付いたとはいえ、篠のおイタくらいで揺らぐはずもないのだった。
「お嬢さま、お帰りなさい」
「…この体勢でそれ言う?」
「求めてくださるのはうれしーですけどね。せめて手を洗ってうがいをして、着替えてからにしてください」
「もー、麻季の堅物ー。じゃあ、代わりに。はい」
文句を言うために尖らした口を、そのまま麻季に突き出す。そんな可愛いおねだりに麻季も辛抱たまらなくなり、その必要もないのに周囲に誰もいないか確認すると。
「んっ」
「んふ…」
と、啄むような口づけを交わした。通算二回目。
それで気が済んだのか、篠は起き上がって麻季から体を離すと、「今日のご飯なーにー?」と健啖家なことを言いながら洗面所に向かっていった。
「わお」
食事の支度が調ったという声に、リビングのソファでごろごろしてた篠は跳び上がって、ダイニングのテーブルに向かった。
そして、その上に並べられた料理を見て、こう感嘆の声を上げたのだ。
「すごーい。いつもより手が込んでない?」
「まあ、なんつーかいろいろと思うところもあったんで。あ、ローストビーフなんでバゲットにします?ご飯も解凍すればありますけど」
「んー…バゲットで!」
「はい、かしこまりました」
手際よくバゲットを切り分け、肉を挟めるようにナイフを入れる。ついでにバターも塗ろうかと思ったが、それは篠に任せてもいいだろう。
そうして用意を終えると、行儀良く椅子に座って待っていた篠の前に皿を並べる。料理の数が多いため、皿もいつもより多いようだった。
「ローストビーフにマッシュポテトは付け合わせでどうぞ。ソースも肉汁と赤ワインで作ったものと、山葵ソースも作ってみましたけど、どうします?」
「どっちも!」
「でしょーねー。じゃあスープをよそいますから、お嬢さま、スープ皿をとってください」
「はぁい」
まあ他にも、メインの肉料理以外に、サラダは卵黄から作った濃厚なソースとカリカリに炙ったベーコンも香り高い逸品、サーモンのカルパッチョはドレッシングも麻季の手製で、これまたそこそこ贅沢に慣れた篠が悶絶するくらいの味だった。
デザートこそ切り分けたフルーツと簡素なものだったが、恋人との楽しい食事の時間、というものを二人は堪能したのだった。
そして食後のお茶は、何故か緑茶になっている。
別に拘りがあるわけではないが、なんとなく日本茶の香りが落ち着く雰囲気なのである。
「おいしかったねー……麻季、また腕を上げたんじゃない?」
「お嬢さまがそう思われるというのであれば、アレですよ。アレ」
「アレ?…あー、愛情が最高の調味料、ってアレね。納得!」
臆面も無く言ってのけた篠に、麻季も心の底から楽しそうに笑む。
何の心配事もない、楽しい二人だけの夕餉だった。
「ま、本当はもっと凝ったもの作る予定だったんすけどね。ちょっと邪魔が入りまして」
「邪魔?お客さんでも来たの?」
「いえ、電話です。仁麻から。それでお嬢さま、あたし考えたんすけど」
「うん」
やおら神妙な顔になった麻季に、篠は少し不安を覚えて顔を曇らす。
そんな内心を察してかそうでもないのか、麻季は湯飲みをテーブルに置き、そして特に表情も変えずにこう告げた。
「ええとですね。一度、実家に帰ろうと思います。お嬢さま来週試験ですよね?それが終わってからにしますけど、二、三日ほど」
いつかはそうすべきだ、と思っていた篠でも、息が止まるくらいには急な申し出だった。
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