第24話・うれしはずかし水着回…だけで済むわけがない
「なんでお金持ちってこーもアホなことを考えるんすかね…」
目の前には陽光を反射して煌めく水面。
そしてその光は、キレイに磨かれたガラスを通して差し込んでいる。
ついでに言えば、そのガラスの外は目もくらむほどの都会の眺め。
とある高層ビルの最上階にある、富裕層向けのフィットネスクラブのプールにいるのだから、それは当然と言えたのだろうけど。
「アホなことって、別に他のお客さん追い出して占領してるわけじゃないわよ。会員向けに普通に時間貸しもする狭いプールじゃない」
「そうは言いましてもねー…あたしみてーな庶民じゃ存在すら知らない場所でこんな格好してるなんて、去年の今頃からは想像もつきませんて」
「いよっ、しのしのお大尽っ!」
急なことで水着もろくに用意出来ず、ありもので済ませていた鹿角万千が、篠を伏し拝んで「やめてよバカ」と頭をはたかれていた。
プールに遊びに行こう、と誘われ、まあお嬢さまが元気になるならそれくらいいいかな、でも市民プールだと他の男どもからお嬢さまを守らないとなー、くらいに考えてた麻季は、「はい、これボーナスの前渡し」と押しつけられた水着の布地の少なさに「うわぁ…」とドン引きしてるうちに、都内某所のこのビルに引っ張ってこられた。
現地で合流した万千がにやにやと笑ってたのは、水着のことが頭から離れていなかった麻季の内心を見透かしてのことか、それとも仲良く腕を組んで現れた主従の姿に思うところでもあったのか。
ともかく、麻季がビルを見上げてぼーぜんとしてるうちに一行は目的のフィットネスクラブの受付を済ませ、さて更衣室で水着を着用した麻季が相変わらず自分のサイズを把握されていることに半ば恐怖を覚えるとゆー場面を経過して、三人は並んで水面を眺めてる。
「…いつまでもこうしてるのもなんだし、そろそろ正気に戻ったら?」
「え、あーいえそのー…なんつーか、本当にいいのかなー、と…」
「なにが?」
産まれに少々ややこしい経緯があったとはいえ、篠も育ちは正真正銘の「お嬢さま」である。生粋の一般庶民の麻季の心情など理解出来るはずもなく、かわいく小首を傾げてるその身は、なんか各所の紐がややこしい造詣になってる黒のビキニに覆われていた。
「あー、まきっちはしのしのの水着姿がまぶしくて正視できんのでしょ。でもまきっちも結構なモンだから引け目を感じる必要はないよっ!」
と言ってる万千は、学校指定の水着である。
まあ他に男子の目があるわけでもなし、本人が気にしてなければいいのではないだろうか。出るトコはやたらと出て自己主張の激しいボディを見て、「着痩せするコだなー」とぼーっとしながら麻季は思っていた。
その麻季である。
篠はよく食べる。高校生の胃袋なのだから当然とは言えるが、それでも平均的な女子に比べれば、麻季の現役当時を思っても普通以上に食べている、と思える。
その篠にしても、こーいうフィットネスを一定量心がけてプロポーションを維持しているのに、麻季の方はときたら自然体に暮らしていてこの体型なのである。
いつぞや麻季の起きぬけの裸身を見て嫉妬するようなことを言っていたが、こうして鮮やかな真紅のビキニに身を包んだところを見ると、自分と同じようなものを食べてさして運動もしてないのにこの姿なのは…と、謙遜する麻季に嫉妬するレベルなのだった。
とにかく、メイド服からは想像できないくらいに足が長い。確かに篠より上背はあったが、腰の位置ときたらそんなアドバンテージを上回るくらいに高い。
胸回りは女子高生の二人より控え目ではあるが、背の高さと引き締まった四肢のバランスにかけては、十人が見たら十人とも麻季の方に視線が釘付けになるだろう。
本当に、他人の目のあるプールなぞに来なくて良かった、と自慢のメイドを独り占めしたいお嬢さまは心から思うのだった。
「あたしの体なんか見て喜ぶひといるんすかね」
そんなお嬢さまの内心など知ったことかと、ひとり麻季は黄昏れてはいたけれど。
「ままま、それはいーからとにかく泳ごーぜぃっ!一番手、いきまーすっ!」
「あ、こら万千っ!準備体操くらい……あーあ」
ざぶん、と水飛沫も派手に立てて早速飛び込む万千。
他にひともいない貸し切りプールのこととて、迷惑をかける心配なぞない。代わりに足がつって溺れても助けてくれるひともいないが。
「まあそんなこと気にしても仕方がないっすか。お嬢さまもどうぞ。あたしはここで見てますから」
「…もしかして麻季、泳げないの?」
「得意ではねーですけど、泳げはしますよ。海無し県民は意外と泳ぎは達者なんで」
「そういえば群馬だったわね」
「伊勢崎っす。……そっすね、泳げないと思われてんのも面白くねーんで、ほいじゃあたしも遠慮無く、っと!」
話すのも面倒になったのか気が変わったか、肩にはおっていたバスタオルを放り投げ、麻季も続いて水に飛び込んだ。一度潜ってから頭を出し、「おじょーさまもー!」と呼びかける麻季の周囲は、すっかり見慣れた金髪が水面に反射してキラキラと輝いているように、篠には見えていた。
「しのしの、まきっちー、あーし体冷えたからあったかいもんでも飲んでくるー」
万千は飽きっぽい性質なのか、三人で競争だの水の掛け合いだのに興じること三十分足らずでプールから上がり、乾いたタオルを背中に更衣室の自販機のもとへ向かっていった。
篠の返事も聞かずに急いでいったところを見ると、花摘みが本当のところなんじゃないかと不躾なことを思う麻季である。お嬢さまの手前、口にはしなかったけれども。
「…なんすか?」
そして、お嬢さまはおトイレ大丈夫ですか?などと尋ねることもなくそのお嬢さまを見やると。
「ん、なんか静かになったね」
なんとも形容に困る視線を自分に向けていた。
「そーですねぇ…鹿角さまが一番賑やかでしたし。元気なのはいーことです。お嬢さまも元気、出ましたか?」
「うん。ありがと」
とても元気には見えない、何だか思い詰めた表情だった。
体を鍛えるため、というよりくつろぎの場として供されるプールではあるが、流石にそこはフィットネスクラブの設備である。篠くらいの身長で底に足をつけても、胸元の下は水の中だ。
だからお嬢さまの顔が物憂げに、けれどひどく眩しく思えたのは、光が水に反射しているせいなのだろう。
「…なんですか?」
もう一度、同じことを聞いた。
「うん。わたしね、麻季に感謝しないといけなくて」
「…ちゃんと頂くもの頂いてますからお気になさらず。それよりあたしみてーなガラの悪い女にお嬢さまがそんな顔向けるもんじゃねーですよ」
「そんな顔って…どんな顔よ」
「それはそのー……まあいーじゃねーですか。とにかくあたしはお嬢さまとは仕事上の関係で…」
「麻季。好きだよ」
何かを弁解するように口にした言葉はさえぎられた。
それから、何を言っているのだこのひとは、と思った。
意味が分からない、とも思った。
なんかこう、おじょーさまがむっちゃキラキラしてるっ、なんか見てられないのはそのせいだっ!…と言い訳して目を逸らした。
「ちゃんとこっち向いて、麻季」
お嬢さまはそれを許さず、麻季の顔を両手で掴んでぐいっとこちらに向けさせる。
せめて目だけは合わせないようにと逸らしたら、つい肌もあらわなお嬢さまの胸元に視線がいった。
それは自分の胸のすぐ下に折り重なるようにぴったりとくっつき、気がついてしまえばその部分がひどく熱く感じる。
「麻季」
ぐいっと力任せに顔を寄せられ、逆らえずに距離を縮めてしまうと、お嬢さまの息づかいを鼻先で感じた。
(…なんか、ヤバくねっ?!)
何がヤバいのかは考えなかった。考えたらえらいことになりそーだった。
篠の吐息は熱くて、一方自分の呼吸は止まりそうだ。
そんな中で、篠の呟きににた告白が脳内でリフレインする。
『麻季。好きだよ』
何度も何度も繰り返し響いて、その度に頭がしびれていく。
しびれていくにつれて、自分の体の中心部からすぅっとこみ上げるものと、お腹の下にきゅうっと染み入るもの、両方が溢れていきそうになる。
なんだこれ、と思ううちに篠は、麻季の顔を両手で挟み持ったまま、目をつむった。それが何を意味するかは、麻季でも分かる。
期待してる。期待されてる。どーすんだ。これお給料以上の期待だよなあ。もらってる以上に期待されてるのか、働き以上に与えられているのかは分かんないけど…と、意を決しかけた時だった。
『…おかあさん』
間違い無く恋情のこめられた「好き」が脳内で鳴り響く中、つい数日前に聞いた涙声が一回だけ聞こえた、気がした。
(あ……)
そうしたら、思った。何でか分からないけど、何がいけないのか分からないけど、とにかくこのままじゃダメだ、と。
「……麻季?」
期待していたものが届かないことに戸惑った篠が目を開ける。
怯えた色がそこにあった。
それで、麻季は自分が間違わなかったことを知って、安堵した。
「……お嬢さま。いけません」
なるべく優しく、そう言った。
コスプレじみた仕事の時も、本職の時も含めて一番真剣に、そう言った。
その場限りの仮初めのご主人さまには決して抱かない、真摯に主を思う心がけを込めて、そう言った。
「なんで…?」
拒まれた、と思ったのか、篠は体も声も振るわせて、麻季に縋る。
麻季の顔に当てられていた手はとうに落ち、自分の二の腕を掻き抱いていた。
「どういうおつもりかは分かりませんが、それはお嬢さまがまだ整理のつかないうちに示していい心ではありません。よく考えて、そして出した答えでしたら麻季はお応えします。でもまだその時ではありません。お嬢さま、よく、よく御身のことをお考えください」
「縋ってもいいって、言ったじゃないっ!」
「はい、申し上げました。ですがそれは…お嬢さまが強く在るためにお手伝いするためのものです。麻季はお嬢さまが何もかも打ち捨てて逃げてきた先にお待ちするために、お仕えしているのではありません。どうか、お心を強くもってください」
「いやよ!わたしは麻季がいればいい、麻季のいる今の生活が大好きなの!」
仕方の無いお嬢さまですね、と今にも泣きそうな篠の肩を抱く。必然的に、肩のところに篠の顔があたる格好になる。お嬢さまの鼻先はひんやりしてて、そこがあたってる自分の肌が熱く感じたりは、しなかった。
「お嬢さま。一晩、よくお考えください。ご自身の胸のうちをよく思い、今まで成してきたことを思い、まだ成していないことを思ってください。それでもその先に麻季の顔が浮かぶようでしたら…そうですね、なるべくならお嬢さまに嫌われてしまわないようにはしたいと思います」
「麻季ぃ……」
泣いたかなー、泣かせてしまったかなー、と目線だけで様子をうかがう。
耳が真っ赤だった。今さらながら、何を言ったのか思い出して恥ずかしくなったのだろうか。
(かわいいお嬢さまだなー…もー)
すっかり余裕を取り戻した麻季は、少し胸の奥の方でチクリとするものがあって、その正体に気付いて思わず、お嬢さまの頭にほおずりをするような真似をしてしまう。
「そろそろ鹿角さまが戻ってこられるかもしれません。お嬢さま、お部屋に帰るまでは我慢できますね?」
「……うん、分かった」
麻季の肌から離れた篠の顔は、プールの水滴だか涙だか分からない液体に塗れてはいたけれど、それは麻季にはやっぱり綺麗に見えて、むしろ自分の方が我慢出来るのかどうか、なんとなく不安にはなったけれど。
まあ、メイドの矜持ってもんがあるわなー。
お嬢さまに我慢をお願い申し上げたのだ。やせ我慢だろうがなんだろうが、やらなけりゃならん時なのだと思い直して、なかなか戻って来ない万千を待つことにした。
そしてその晩は何事も無くいつも通り…いや、篠がほんの少しテンション高くは見えたのだけれど、それ以外は何事もなく、二人はそれぞれの部屋で布団に入り。
(あああ───────っっっ……ガラにもねーこと言ってしまったやってしまったぁぁぁぁぁぁっっっ!!)
…と、麻季はひとりのたうち回ったのであった。
斯くも、場の雰囲気と水着の少女の涙とは、恐ろしいものである。
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