10 演技とキス


 講義室には、3人の男子学生がいた。


「北野さんっ」


 中に入るや否や、男のひとりがミナミの手を握った。


「きょ、今日もいちだんと、おきれいで……」


 開幕のロケットスタートに、ナギは苦笑するしかなかった。

 ミナミは困った笑みを浮かべつつ、ナギだけに聞こえるようにため息をついた。


「先輩、ごめんなさい……手は、握らないでほしいです」


「ああっ、スイマセン……」


「この手は、この人だけのものなので……」


 ミナミがナギの手を握った。

 細く、力を入れると折れてしまいそうな手だった。

 それをナギは弱々しく握り返した。

 手を繋ぐ練習をしておけばよかった、と小さな後悔をする。


「あっ……」


 初めて先輩がナギに目を向けた。

 彼はまるで熊と遭遇したような反応をしていた。


「……ウス」


 彼の身長は170cmほど。

 対してナギは185cm。

 怯えるわけである。


「ご紹介します。私の、彼氏です」


「……船見、ッス」


 そうして、沈黙が訪れた。

 先輩は口をぱくぱくとさせていた。

 取り巻きのふたりも、なぜか口をぱくぱくとさせていた。


「お誘い、ありがとうございました。ですが、こういうことなので……」


 ミナミがナギの胸に触れた。

 そこは演技でも触るなよ、とナギは苦笑いを噛み殺す。


「確かに、今日……ずっと一緒にいましたね。講義中も食堂でも、離れずにずっと……」


(あぶね、演技しといてよかったぜ)


(ナイス判断)


 目だけで言葉のない会話を交わす。

 これで諦めてくれるだろう——そんなナギの予想を、先輩は超えた。


「……証明、してください」


「「は?」」


 ナギとミナミの声が重なった。

 先輩は、泣いていた。


「僕の前で、証明してください。つまり、僕を殺してください。そうすれば、キッパリと北野さんを諦められます」


「勝手に死ん……諦めてください」


「後生です……お願いします……!」


 彼は土下座をした。

 ついでになぜが取り巻きのふたりも土下座した。

 類は友を呼ぶ——この先輩の性格がゆえの、団結力だった。

 

(いい友達ね……)


 変なところで感動してしまった。

 さて、返答。

 さすがにこれ以上の証明はできないだろう——そんなナギの予想を、今度はミナミが超えた。


「……わかりました」


「え?」


 ミナミの決意に、ナギは耳を疑った。


「先輩の最後の願い、聞きます」


「おいおい?」


「船見さん……お願い」


 ミナミはナギを見上げると、静かに目を閉じた。


「う……」


 この体勢が何を意味するか、わからないナギではない。

 彼氏と彼女——つまりは、そういうこと。


(うわっこれマジなやつじゃん!)


 は当たっていた。

 混乱の中で、ナギは代案を探した。

 もっと穏便な証明の方法はあるのではないか、と。

 しかし、考えれば考えるほど、これが最善手ではないかと思えてくる。

 作曲でもよくあることのひとつ、「締め切り直前に焦った結果、現状維持が最善だと自分の認識のほうを歪める」である。

 こういう場合、人はどうすればいいか?


(……ええい、どうにでもなれ!)


 もちろん、答えは簡単だ。

 勢いに身を任せるしかない。


「ん……」


 短い声が漏れた。

 初めて聴いた、ミナミの甘い息。


(う、うあぁ……)


 彼女の柔らかい唇に、ナギは頭が真っ白になった。

 まるでミナミとかのような心地。

 ここは現実ではなく、夢の中。

 先輩の存在もここにはなく、ふたりはふたりだけの世界で息をする。

 もうこの世には彼女しかいない、彼女のおかげで世界は回っている——そう錯覚するほどの、強烈な夢。


「これで、いいですか……?」


 気付いた時には、ミナミは唇を離していた。

 自分が演技に浸りすぎていたことを、ナギは恥ずかしく思った。


「……ごめんなさい……ありがとう……」


 先輩はさすがに認めたのか、号泣していた。

 取り巻きのふたりが、先輩を支えていた。

 最後まで良い仲間だったな、とナギは思った。


 そうして、教室はナギとミナミだけになった。

 空き教室に入り込んだ夕陽が、ふたりに影を落としている。

 ミナミは扉を閉め、鍵をかけた。


「……ずいぶん迷惑をかけちまったな。ごめん、ぎなっち」


 ミナミは机の上に座り、ロングスカートを鬱陶しそうにまくった。

 白く細い脚があらわになった。


「まさかここまできて証拠を求めるなんてな……もっと他にうまいやり方もあったかもしれねぇのに」


「う、うん……そう、ね」


 ナギはなかなか言葉が出なかった。

 目の前でいつもの様子に戻ったミナミも、どこか別人に見えてしまう。


「でも、すっげえうまかったよ、演技。ちゃんとキスしてくれて、ありがと」


 唇の感触がまだ残っている。

 偽りのキスの味は、すぐには忘れられない。


「ダンナ?」


「へ……な、に?」


「報酬。何が欲しいですかい」


 ナギは回らない頭で考えた。

 浮かんできた冗談「ミナミの全て」を却下して、言葉をひねり出した。


「……ラーメンで……」


「おいおいダンナ、そんなんでいいのか? もっと欲を出していいんだぜ。それぐらいの大仕事だったんだし」


「……今は、ラーメンのことしか、考えられない……」


 なんだそりゃ、とミナミは笑った。

 今まで見てきた彼女の笑顔の中で、一番きれいなだった。


 不思議な一日だった——ナギは重いため息をついた。


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