20 父と母

曇りのない青空に、太陽がひとり輝いている。


「……?」


 ナギはその光景に、なぜか嫌な予感を覚えた。


「パタパタパタ」


 ヒダリは手影を作って遊んでいる。

 食卓の上には、蝶々、狐、蟹、カタツムリが出来上がっていく。


「チュンチュンチュン」


 そんな呑気な姿を、ナギはぼんやりと眺める。

 それでも、この胸騒ぎ。

 

(嵐でも来るのか……?)


 外は嵐どころか雨さえも降らなそうである。


「ヌルヌルヌル」


「…………」


 遊ぶヒダリを無視し、ナギは玄関に向かった。

 嵐が来る前には戸締りを確認するべきである。


(なにやってんだ、あたし……)


 鍵を閉めようと手を伸ばした時だった。

 突然、扉が開いた。


「あえ?」


 夏の風が通り抜ける。

 逆光に照らされたふたつの人影が、玄関に立っていた。


「えッ!?」


 再び声が漏れる。

 ナギはその姿を見つめていた。

 そして、後退りした。


「あ、ああ……」


 最悪なタイミングだった。

 嵐は来た。

 いや、それ以上のもの——。


「ナギちゃん」


 聞いたことのある声に、ナギは凍りつく。

 落ち着いた女性の声。

 この声を、ナギはよく知っている。

 数ヶ月前まで毎日、嫌というほど聞いていた声。


「あああああ……」


「お久しぶりですっ」


 ナギは女性に抱きしめられた。

 骨を折るほどの剛力だった。

 痩身に力を込めてはならない。折れるのである。


「ずっと会いたかったのですよぉ。はぁあ、ナギちゃん、元気じゃあないの……心配ばっかりかけさせて、娘の鑑ですことねっ」


「い、いたいいたい」


「あっ! なんか、良い匂いがする……なんですかこれ!?」


「や、やめてよ……かーちゃん、暑いって……」


「離しません、勝つまでは」


「何にだよ。誰にだよ……」


 ナギは全力でため息をついた。

 嵐とは、御船ナギの母親その人であった。


「なんだ、元気そうじゃあないか」


 遅れて父親が言った。

 ナギと母親の合体を尻目に、靴を脱いで奥へ上がっていく。


「あ、ああ、あああ!!」


「おお?」


 そして、出逢ってしまった。

 

「こんにちは、お父様。お邪魔しています」


 ヒダリは座ったままお辞儀をした。

 父親が礼を返すと、案の定、嵐は動いた。


「あらやだっ! 可愛い! 可愛い子がいる! こんな娘に、女の子が!」


「うぎェッ」


 突き飛ばされるナギ。

 母親はヒダリの前に正座をした。


「こんにちは、ナギの母です。娘がいつもお世話になっております」


「こんにちは、お母様。ぼくは佐野ヒダリです」


「ヒダリちゃん、ヒダリちゃん、ヒダリちゃん……」


 母親は噛みしめるように何度も口にすると、身体をウズウズと動かし出した。


(はじまった……)


 これは発作が起こる前兆だった。

 どんな発作が起こるかは、ご想像の通り。


「ヒダリちゃんっ!」


「うひゃあっ」


 ヒダリは母親の腕に抱きしめられた。

 ナギの母親は可愛い子を目の前にするとこうなるのである。決してナギが可愛いという遠回しな自負ではない。

 彼女のレーダーが「可愛い」と感知すれば、即、抱きつく。

 相手が見知らぬ人であろうと通行人であろうと、お構いなし。

 地元で「抱き魔」と言われていることを、当の本人は知らない。


「ああ……ナギちゃんのは、あなたの香りだったのね……うふふ、モチモチ……」


「あ、あうう」


 ヒダリは珍しく戸惑っていた。

 こいつこんな顔もするんだ、とナギは思う。


「ねえ、今日から私の娘にならない?」


「え?」


「でた……」


 母親がよく使う、殺し文句である。

 当たり前だが、誰も殺されたことはない。


「ヒダリちゃんのご家庭には申し訳ないけどね、今日からあなたは『御船ヒダリ』よ。異論はないわね?」


「異論しかないだろ……」


「わかり、ました」


 殺されていた。


「乗るな、ヒダリ、戻れ……」


「お母様がよろしければ、ぼくは、別に……」


 はぁぁ、とナギは顔を覆った。

 もうついていけません。


「……とーちゃん。外、行かない?」


「おう、いいぞ」


 ナギは父親と一緒に地獄を出た。

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