過去

 中学に行っても、僕は学校を休みがちだった。

 母さんの心配そうな顔を見ると、胸が潰れそうだ。

 けれど、この頭の中の声がつきまとってくる限り、家の外で普通の生活なんてできる気がしなかった。

『なあ、新しいゲーム買ってもらったんだろ? 俺やりたいんだけどなあ』

『学校行かなくていーのかよ? このままじゃこの先ヤバいんじゃないか?』

 あいつはニヤニヤとそんな言葉を言い続ける。

 ——僕の人生が、この声に乗っ取られる。

 そう気づきながらも、僕は頭を抱えたままどうすることもできなかった。



 中2になった夏のある朝。

 あいつは、不意に僕に言った。

『優斗。今日でお前とお別れだ』


 ……え?


『今日1日、俺の声に答えてくれたら、俺は消える』


 本当だな? 

 今日1日お前の声に従えば、本当に消えるんだな?

『ああ。約束する』

 ……うん。わかった。

『よし。じゃあこれから出かけよう』

 ずっと放りっぱなしだったリュックを持ち上げ、僕は出かける支度を始めた。

「母さん、ちょっと出かけてくるね……母さん?」

 出かけることを一言伝えようとリビングを覗いたが、母さんの姿はない。

『少し外出します。すぐ帰るから、心配しないでね。 母』

 テーブルに、そう書き置きがあった。


 あいつの言う通りに、駅へ行き、電車に乗る。

 二回乗り換えて、1時間くらい経っただろうか。

 ある駅で降り、静かな街を歩いていく。

 商店街を抜けたところに、小さなビルがあった。

『ここだよ。行こう』

 あいつの指示に従ってエレベーターに乗り、最上階の8階へいく。

 そこから細い階段を登り、ガチャリと重いドアを開けた。


 屋上だ。

 眩しい夏の空が、頭上に広がっている。

 近くの公園の木々の緑が、風にさわさわと音を立てている。


『なあ、覚えてるか?

 あの日も、こんな風に明るくて、眩しかったな』


 あいつの声が、どこか寂しそうで——僕は、黙ってその声を聞いた。


『そこの手すりから、身体を乗り出してみろよ。気持ちいいからさ』

 僕はその言葉通り、手すりに体重をかける。

 そこは思ったよりもずっと高く、下の通路の遠さに思わずぞくりと寒気を感じた。

 全然気持ちよくないだろ。こんなところで身を乗り出すなんて、怖いだけだ。

 そう答えた僕に、あいつは言った。


『俺は、気持ちよかったんだよ。

 生きていた間で、一番。

 身体が、ふわりとして。

 やっと自由になれた気がして』


 ……どういう意味だ?

 そう聞こうとした瞬間、手すりから出した頭をぐっと強い力で前へ押し出され、僕はぐらりとバランスを崩した。

 足が地面から離れ、手すりの外へ身体が大きく傾く。


「あっ……おいっ! やめろ!! やめてくれ!!!」

 あいつへの叫びが、とうとう声になる。

『な、気持ちいいだろう?

 俺は、こういう自由を選ぶしかなかった。

 生きていても、毎日苦しみしかなかった。これしか、俺が自由になる方法はなかったんだ』


 強烈な恐怖に、全身が竦む。

 ……もうだめだ。

 このまま、僕はこいつに落とされる。


「————やめなさい!!!!」


 その瞬間——背後から鋭い声がした。

 よく知っている声。


 僕を押し付けていた力が、ふっと消える。

 駆けつけたその人の手に激しく引き戻され、僕はコンクリートの地面にどさっと倒れ込んだ。


「お願い、もうやめて……許して、かおる!!!」


 僕を激しく抱きしめながら狂ったように叫んでいるのは、母さんだった。


 ……薫……?

 それ、誰のことだ?


「薫なんでしょう?

 優斗のことをずっと操っていたのは……水色の傘も、優斗の生活も、彫刻刀の傷も」


「——そうだよ、母さん。

 俺がいるって、気づいてくれてたんだね」


「……気づいたわ。

 小学6年の秋に彫刻刀で怪我したのも、薫と全く同じだもの」


 もやりと目の前に現れた淡いもやが、だんだんと濃くなり、色づいていく。

 そこに立っていたのは、涼しげな半袖のワイシャツを着てほっそりと青白い顔をした、美しい少年だった。


「許してもらえないのは、わかってるわ。

 けれど……優斗をこれ以上苦しめるのだけは、もうやめて。

 優斗じゃなくて、母さんを苦しめたらいいでしょう?」

 少年に向かい、母さんは震える声で話しかける。


「どうして?

 俺は、優斗が愛されるのが、許せないんだ。

 俺は誰にも愛されず、厳しくて苦しい時間ばかり背負わされたのに……どうして優斗だけが愛されて、自由で、そんな幸せを味わえるの?」


 母さんの目から、涙がいくつも零れ落ちる。

 そして、拳を膝にぐっと握ると、ふうっと息を一つしてから話し出した。


「——薫、ごめんなさい。

 そして優斗も。

 どうしてこんなことになったのか……これから私の話すことを、聞いてほしい」


 真っ直ぐ顔を上げた母さんは、静かに話し出した。


 母さんは、今の父さんの前に結婚していた人がいた。

 大きな病院の息子で、やがてその病院の跡継ぎになる男性だった。

 カフェの店員をしていた母さんと深い恋に落ちた彼は、周囲からの強い反対を押し切って母さんと結婚した。彼が24歳、母さんが二十歳の時だ。

 翌年生まれたのが、薫だ。

 母さんは、彼の両親に認めて欲しい一心で、薫を厳しく育てた。勉強から生活習慣、服装まで、「文句の言いようのない完璧な息子」にするために。

 薫に子供らしい自由は一切なかった。テストで思わしくない点を取る度に、母は深く嘆き、父は不機嫌になった。


「俺さ、父さんと母さんに褒められたこと、一回もなかったんだよ。

 俺は、もっと自由な服を着て、時間を忘れて友達と遊びたかった。嫌になる程ゲームもしてみたかった。

 生きているって楽しいと、思いたかった。

 ——父さんと、母さんに、愛されたかった」


 膝の拳を震わせ、母さんは胸に何か詰まるような苦しげな声で言った。

「今日はね、薫の命日なの。

 中学2年の夏、薫はここから身を投げて、自殺した」


 耐えきれなくなったように、母さんは俯いて肩を震わせる。

 気づけば、僕も強く唇を噛み締めていた。

 薫の痛みが、嵐のように強烈に胸を揺さぶる。

 目の奥が、ぐっと熱く込み上げた。


 薫の死後、心と体の調子を崩した母さんは、薫の父と離婚した。

 ひとりになり、働き始めたスーパーの主任だった今の父さんと知り合い、離婚から2年後に再婚した。

 そして、僕が生まれたのだ。

 この世に出てくる前に、既に薫の囁きを聞きながら。


「父さんは、私の過去のことを深く聞かずにいてくれた。とても温かく優しい人で、私は幸せだった。

 けれど……優斗の中に、だんだんと薫の気配が感じられるようになって。

 とても恐ろしくて、悲しかった。

 今日、この場所で何か起こるに違いないと思ったから、私はここに来たの。

 優斗を、守りたくて。

 ——そして、薫に会って、謝りたくて」


 流れていた涙をぐっと拭い、母さんは真っ直ぐに薫を見つめた。


「薫。ごめんね。

 いくら謝っても、取り返しなんてつかない。

 私を呪い殺しても、少しも構わないわ。

 でも、優斗の命だけは奪わないで。

 そして——お願い。優斗が自分で人生を歩けるようになる時まで、もう少しだけ私を優斗の傍にいさせて」


 薫の姿が、ゆらりと俯く。


「——優斗を殺す気なんて、最初からなかったよ。

 あの後すぐに手すりから引き下ろして、俺は消えるつもりだった。

 だって、俺はもう優斗の人生に口出しもできない。俺の人生の経験は、今日で終わってるんだから」


 薫の美しい眼差しがゆっくり僕たちの方へ向き、彼は淡く微笑んだ。 


「優斗。今まで苦しめて、悪かった。許してくれ。

 さよなら、母さん。

 優斗をたくさん愛してやって」


 薫の瞳に、何かが小さく光った気がした。

 そして、その姿は次第に靄に包まれ、だんだんと消えていく。


「——薫……」

 母さんの瞳から、新たな涙がいくつも落ちた。



 これ以上、我慢なんかできない。

 薄くなる靄に向かって、気づけば僕は喉が張り裂けるほど大声をあげていた。


「——待てよ、薫!!!!」




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