四分の一の女

久賀広一

その彫金は奇跡だと、多くの者が認めていた。


アンセルム大陸イスマス国にあって、まだ駆け出しのために国土をまたぐような噂ではなかったが、すでに彼女の工房は予約でいっぱいだった。


「あいつ、ハーフドワーフなんだって?」

「なんだそりゃ。新しいダジャレ種族か何かか?」


「……まあいいじゃねえか。彼女が剣のさやに彫金加工すりゃあ、攻撃力が最低二割はアップするってんだからよ」


それはまさに絶後の技術だった。

彼女ーー クラーネ嬢は、その少し無骨な指で、驚くほど緻密な”上位ウォルド語ハイ・ウォルド”と呼ばれる古代文字を、意匠化して彫り込んでいくことが出来たのである。


さらに彼女が刻んだ魔刻は、剣を半時ほど鞘に収めておけば、見違えるような切れ味になるという、戦いに身を置く者にとってはまさに福音のような仕事だった。


「いや、お前らはまだクラーネの凄さを何も分かっちゃいねえよ。あの子の技はな……」


三人の男が工房の入り口で順番待ちをしていると、突然会話に割り込んできた中年がいる。


ハーフドワーフを馬鹿にした態度の男が、いぶかしげな表情を作ってその年配のオヤジを振り返っていた。

「あの子のウォルド語がすげえのは、最も過酷な戦闘中のことさ。剣の鞘が血まみれになるような戦いでなあ……クラーネの彫金に、そのすべてのみぞになった箇所に血液が行き渡ると、どうなると思う?」


勿体ぶった話し方で、その長槍のオヤジは肩を広げていた。

「一か八かで試したことのある奴しか、その効果は知らねえ。

……クラーネのほどこす魔刻のすべてに持ち主の血が通った時、その鞘に一瞬でも武器を収めた者は、”四聖獣”の玄武げんぶすらも やすやすと断ち斬ったと言われているぜ」


「なんだと!?」

「あのアダマンタイト級のかたさの甲羅を持つという、大亀をか!?」


血相を変えたように、三人のうち、脇にいた二人が詰め寄ってくる。

もしそれが本当なら、自分たちはもうすぐ伝説的レジェンダリーウェポンを予約して手に入れようとしているのではないかーー!


これは来てよかったと、まだ若い男たちは仲間うちで拳をぶつけ合ったのだった。






そのように、業師クラーネに感謝の心を抱いて各々おのおのの旅に出る輩は多い。

具体的なところでは傭兵、賞金稼ぎ、トレジャーハンターなど……。

戦いが避けられない生業で生きている者は、あとほんのひと押しのところを鎧に阻まれたために、敵を怯ませられず頭を砕かれた味方を見てきた男もいる。

モンスターの動脈に数ミリ届かず、ふところで爪の餌食になった者も。


そんな彼らからすれば、一度短い旅に出るほどの代金で武器の威力が割り増しになるなら、喜んで財布を放り投げるだろう。

金を持って死ぬより、無一文で戦場に立つ方がまだ未来はある。


「……いやあ、クラーネの加工剣には、ほんとに助けてもらってるよ」

「ああ、そうだな。一度武器を休ませておけば、無理な使い方をしない限りは、三度の連戦でも力を発揮してくれた」


そんな風に、彼女の《華燭かしょくの鞘》店は、順調な経営を続けていこうとしていた。

皆も、それを望んで応援していた。


ーーだが、人間というものは勝手な生き物で、充分なとくを得ているにもかかわらず、それだけでは納得できない者もまた、少なからずいたのである。




「さて……今日の予約は、と」

職人のクラーネは、いつものように鞘を彫りすすめるたがねを持ち、先の予定を確認していた。

冒険者たちには悪いが、彼女は何より自らの作業に対して、マイペースを保つようにしている。

もっと仕事を早めてくれ、というリクエストはお客から上がってはいるのだが、そうしてしまえば、仕事に波ができて平等な作品が仕上がらないこともあるのだ。


自分は命を預かっているーー

それが彼女の彫金に対する誇りでもあった。


「ーーおい、クラーネ!」

「こんなもので、俺たちに納得しろっていうのかあ? こういうのはサギって言うんじゃねえの!? 」

そのタチの悪い二人連れは、彼女が加工用に調達した、銀板に火を入れているときに訪れていた。


クラーネは、その短いオレンジ色の髪をかき上げ、高温になっている骸炭コークスから目を離す。

ふき出すような汗が、薄着のシャツの胸元までを濡らしていた。


とつぜん飛び込んできた旅人のような彼らは、どうやら仕上がりを終えたばかりの、彼女の客のようである。

さも金を返せ、と言わんばかりに、店を二つに分けているカウンターに武器を叩きつけていた。


”何だこれは! 他のやつらのものよりも、切れ味が悪いぞ”

”そのくせ加工料だけは高く取りやがって……なめてるのか!”

ダラダラと文句を言い続けていたが、おおむね彼らの言いたいことは、その二点のようだった。


「ええっと……それはですね」

クラーネは、顔を暗くしながらも、真摯な心でその客の言葉に耳を傾けていた。

……そもそも、攻撃力アップの割合は、武器によってバラつきがあることは作業に入る前に伝えていたし、鞘の表面積によって彫金に使う台板の材料費についても、高くなるのは了承済みのはずだった。


ーーしかし、そこは人間。クラーネの店では、二十人に一人はこういうクレーマーが現れたり、《華燭の鞘》の悪評を広めようとする輩が、生まれたりしていた。

(……うう。ちゃんと、注文書にも書いてあるのになあ……)

せっかく高温にした骸炭が冷えてゆくのを横目で見ながら、まだ二十歳を過ぎたばかりのハーフドワーフは、悲しげに説明を続けていくのだった。




これが他の店なら、簡単に丸くおさまる話だったのかもしれない。

クラーネはいつも、どんな相手にも真摯に対応してきたし、その懸命な作業姿は、見る者に何かを訴えかけるような真剣な眼差しであふれていたのだ。

店をかばうがわに立つ客も、相当な数がいたのである。


(ーーそれにしても、なあ。クラーネちゃんの武器には、二割ほど攻撃力があがるものもあれば、中には四割を超えるものもあるって言うぜ?)

(……そりゃあちょっと、穏やかじゃいられねえかもなあ……。何しろ、同じ武器、同じ技量のヤツが戦場で向き合ったら、負けは決まったようなもんじゃねえか)


なぜか性格が陰湿なものほどその最低ラインの武器補正”二割”になりやすい、という情報はあったのだが、さすがに血で血を洗うような戦場を渡ってきた男たちである。

友を後ろから斬りつけたり、ダンジョンから帰ってくる者だけを狙うトレジャーハンター・ハンターなど、己の後ろぐらい生業と命に固執する客は、クラーネの仕事の波に文句を言い続けた。


短剣なんぞならまだ許せてもーー大剣の攻撃力補正二割の差は、たしかにでかい。

でも、彼女だって、手を抜いて仕事をしているわけじゃない。

……やがて、そんな意見が煮詰まった頃、一人の男が打開策を打ち出すことになったのだった。


「彼女、まだ『恋』を知らないんじゃねえの?」

「……は?」

「何を言ってるんだコイツは。昨日きのうくらったサソリの毒で、脳がただれちまったのか?」

いや、ちゃんと話を聞けよ、とその提案を持ちかけた男は語っていた。


あの子ーークラーネが毎日真剣にやってるのは、皆が知っていることだろう?

どんな依頼だって手を抜くことはないし、でもその内容は、客によって大きな開きがある。

ふむふむ、と昼の定食屋にあつまった野郎どもは頭を寄せ合っていた。


「たぶん彼女は、自分の精神や体調を、まだ深い部分でコントロールできねえんじゃねえかな? それをどうにかするには、月の影響で女の体調をどうこうされるより、男により深くからアプローチしてもらって安定するというーー」

「……はっ!」

「何をバカな……」


ほとんどの男は、その意味不明な案を却下していた。

まるで話にならない。

たとえ、本当に原因がその”深い部分で彼女は自分をコントロールできていない”ということだとしても、異性によってそれが改善される保証がどこにある。

いや、それどころか、悪くなる可能性の方がはるかに高いんじゃないか?

……シビアな勝負を毎日している職人作業に、ほかの男が気を入れて濁らせるなんぞ……


だが、その話がいくらか大きくなった頃、突拍子のないそんな意見に、賛同する者が出てきたようである。

「うむ……結果はどう出るかわからんが、一度くらいは試してみてもいいんじゃないか?」

どうせこのままでは、不平を言う人間、悪くすれば殺してでも良い武具を奪おうとする不埒者も、増えてくるかもしれん。


「……」

本音のところでは、彼らの言い分は、身勝手な思いから出たものではない。

その客たちは、誰よりもクラーネのことを心配していたのだった。

彼女の技は、このアンセルム大陸で過酷な生き方をしている者にとって、恩寵とも言える奇跡である。

それが陰湿なクレーマーなんぞのせいで乱されてしまっては、たまったものではないのだ。


「あんまり気乗りはしないが……何もしないよりはマシかもな。いっちょ、その方法でいくかあ」

「でも、誰を送り込むんだ? いくらちっこくて可愛いと言っても、あの子はハーフドワーフだぜ? 肩はけっこうがっしりしてるし、ちゃんとクラーネを愛してくれる男じゃねえとーー」


「俺にまかせろ。”相手がメスなら、たとえリザードマンでもいける”というヤツを知っている」

リザードマンの雌なら、リザードウーマンじゃねえの……?

どうでもいい突っ込みをけとばしながら、彼らの『クラーネ、幸せで仕事補正』計画は、秘密裏に進められていったのだった……。





さて。

その貴族風の男は、女性にとって振り向かれれば手荷物を落としそうなほど整った顔立ちをしていた。

その上、立ち振る舞い、異性へのおだやかな目線、相手が何を求めているかを理解する能力は、他者の追随を許すことがない。


ついた異名は、”世界の半分を手に入れられる男”。

彼は、どんな相手だろうとそれが女の属性を持つものなら、とろけさせずにはおかないようだった。

少し話をするだけで、その男に相対する女性は、頬と身体の中心に、経験したことのない熱を持ち始める。


「おお……あいつならいけるんじゃねえの?」

「クラーネちゃん、大丈夫かなあ。身体を傷つけられて、すぐポイされるなんてことは……」

その貴族風の町人”フェレン・デ・エンシーナ”は、皆の要求に力強いうなずきとともに答えたものである。

青年は、多くの心配をよそに、じつのある目を男たちに向けていた。


「……彼女を幸せにすること。それが、厳しい世界で生きる冒険者のためになるんだね? ボクはこれまで、誰か一人のものになんて、なったことがなかった。でも、そうすることでたくさんの人の助けになるのなら、どんな役割でもこなしてみせるよ」


どうやら彼には、自主性というものは存在しないようだった。

ただ流されるままに生き、それがほとんどの男が望む、女性を抱きまくれるような花道を約束されているという、やや退屈なバラ色人生を送っているものである。

ーーいろいろ問題は出てくると思うけど、金銭面ではみんなも後押ししてくれるんだね? それじゃあ、行ってくるよ。


男ですら癒されるような微笑みを向けられて、クラーネの店の客たちは、そのフェレンを見送ることになった。

「……」

わずかに、父親のようなさびしい視線が、華麗な青年の背中に集まっていたのだったーー



(……だっ、ダメですっ!)

まだ成人したばかりの彫金士である店主は、とうぜん夜のベッドでの幸福など、経験したこともない。

仕事に夢中だった彼女に、自然な恋がおとずれるのは、まだ先のことであるはずだった。


ーーところが世界は、クラーネの感傷の速度に合わせて回っているわけではない。

(私、子供のころに自分の出生のことでいじめられて……この身体、あまり見られたくないんですっ……!)


声を抑えて抵抗する彼女は、宿のランプにすがるような目を向けていた。

クラーネの肌はやや浅黒く、身体の曲線は女性としてそれなりに魅力的だったが、たびたび仕事で鎚をふるうため、右肩だけが一回り固くひきしまっていた。


いつもなら一瞬で、今回は数日がかりで女性を寝所に連れこんだフェレンは、土壇場で激しい抵抗にあっていた。

……もっとも、彼にとっては、そんなものは心地の良い涼風と変わらなかったが。


「キミは、ずっと他人の痛みも知らない、無駄に歳をとった大人の、子供じみた言葉に何度も傷つけられてきたんだね。……そんな昆虫みたいな無神経なヤツらは、きっと女性に嫌われる人生を歩んでいるに違いない。キミはもう、今までとは同じではいられない自分を、女としての魅力が隠せないことを、ちゃんと認めなくちゃ」

(そんな……)


初めて間近にした男の胸板の前で、オレンジの髪がやさしく撫でられていた。

やがて手を取られ、そのひたいにキスをされて、彼女は息がつまるような思いのままベッドに座らされていく。

「あっ!」


初めての行為の中で、そのまま彼女は過去のすべてから癒されるはずだった。

男というものを知って、自分とは違う温かさに満たされて、ずっと心の中に抱えていた闇が、隙間なく明るさで埋め尽くされていくはずだった。


(えっ? 何だこれは!?)

そこで驚く事態が起こったのは、男であるフェレンの方だったのである。

(なんーーだって? まさか、僕が! この僕がーー!?)

青年の身に、その行為の高まりに、思いもよらぬことが起きてしまったのである。

彼は予定していなかったはずの、射精ファイナライズに至ってしまったのだった。








「だからどうだってんだ!」

「そんなもの、女の中で果てるのは、男なら当たり前だろう!!」


フェレンをけしかけ、彫金士を愛で満たそうとした店の客たちなら、そんなことを言ってののしっただろう。

というか、ただのふざけ話にもならなかったかもしれない。

……だが、この”フェレン・デ・エンシーナ”という青年には、それはあってはならない事態だったのである。


(ーー僕には、決して普通の女性では、きわまらない理由があるーー)

町人生まれであったにもかかわらず、貴族もかくや、と言われる風貌の彼には、呪われた記憶があったのだ。

……ずっと、女性に怯えながらも、その当人らを、青年は喘ぎ声の中に翻弄していった……。


抱きしめるはずの相手に抱かれて、フェレンは今、子供のように丸くなっている。

「そう……。とても辛いことがあったんですね」

少し痛みをこらえていたが、やがて彼とつながったことで心にぬくもりを覚えたクラーネは、まだ戸惑ったままではあったが、枕を共にしていた。


そして、彼の言葉を、そのおぞましい過去を聞くことになったのだ。

ーー確かにそれは、失われるべき思い出だった。


幼かった頃から、まるで精霊のように上質な美しさを備えていた彼は、町の女性たちや一部の種族の異性などを、とりこにしていったという。

皆が、時には男すらが彼に手をのばし、その陽光にかがやく金色の髪に触れ、お菓子を食べさせてくれた。


……そんな中、事件が起こったのは、彼が自分の特別な価値を理解しはじめるころだったらしい。

町を通りかかった旅芸人の中に、三人の軽業かるわざ師がいた。

男慣れした彼女らは、フェレンでも目をキラキラさせるような衣装を身にまとい、町の人間にも親しみ深い道具を使って、拍手がやまぬような芸を見せてくれた。


その場所に逗留した三日間、芸を変え、主人公を変え、巧みな語り口と軽業で、町人の心をつかんでいった。

……フェレンの表情は、日ごとに曇っていくことになったが。


たとえ少年であり、客として衆人の中にいたとしても、彼の光が差すような笑顔と、異性の胸をくすぐる横顔は、無視できるものではない。

フェレンは、最初の夜に彼女らに呼び出されると、旅の話を聞けることを喜び、三人のもとに胸をはずませて通った。

そこで行われる行為が、とくに少年に近づこうとする大人が彼に求めていたことだと、知るよしもなく。


軽業師らが逗留のためにとっていた広い部屋で、フェレンはまず腹から胸を露出させられ、初めて身体を舌で濡らされる行為を教えられた。それが遠いユグナの友愛の証だと、彼女たちに囁かれて。


それから明かりを消され、汗がかすかににじんだ肌しか感じられない中でキスを、ひざのうらを後ろから二人にゆっくりとさぐられ、知らぬうちに震えていた身体を女性たちにあずけることになった。

反抗することなど、濃い香水と彼女たちの息づかいに満たされた中で、できるわけもない。

彼は二日目の夜には、想像もしていなかった場所に舌を這わされ、やめてくださいと懇願しながら、相手にあらがうこともできず精通させられていた。


「ーーそれで、僕は女性を恐がるようになってね。みんなが不思議がってたよ。あんなに人懐ひとなつっこかったフェレンに、何があったんだろうって」

枕元で話す彼を、ハーフドワーフであるクラーネは、じっと見つめていた。

すでに机の上にあったランプは獣脂をきらし、火は灯っていない。


「そのままずっと、母以外の異性とは、口もきかずに生きていくことになるかもしれなかった。母にだって、そんなことがあったなんて言えずに、一人で夜に震えていたんだ」

今になって思えば、他の男からすれば、ずいぶん良い思いをしたことになるんだろうけどね。


ハハッと笑って、フェレンは片手で自分に腕枕をした。

その話の続きを、クラーネは促した。

もうやめようかと青年は言ったのだが、彼女は今の彼が、どうやって立ち直ったのかを知りたかったのだ。

それもまた、感動する話じゃないよ、とフェレンは語っていた。


……自分に何が起こったとしても、町で会う人と、ずっと口をきかないわけにはいかない。

その頃も今も、通りを行き交う女性たちは、都市などの外に仕事に出る男に比べて、圧倒的に数が多かったのだ。

まず彼の異変に思い当たったのは、身近な従姉いとこの一人だった。

……彼女はわりに早い段階から、フェレンに何が起こったのかを察しているような所があった。


「その人は、もう結婚していてね」

まだ子供はいなかったけど、少年の母と同様に、綺麗な人だった。

彼の家系は男子はそれほどでもないのに、女系だけはやけに見映えのいい顔立ちの子が生まれる。フェレンは特別だったのだ。


「従姉だったその人が、僕にぜんぶを話すことを強要してきた。別に恐くせまってきたわけじゃないけど……でも彼女は、いつも求めるものはごくわずかだったけど、絶対にゆずらないようなひとだったんだ」

そして、すべてを打ち明け、はじめてあの夜から泣くことができずにいた少年を、彼女はその胸で思いきり声を上げさせてくれたのだ。


彼はそれだけで、多くを救われたと言える。

しかし彼女は、そのままだとフェレンが女性に対してゆがみをかかえたまま育つ可能性が大きいことを懸念していた。

そして、絶対に内緒だという約束で、本当に愛のある思いで、彼を一度だけやさしく抱いて、導いてくれたのだった。


「なんか、たんにただれた話にも聞こえますけど」

クスッと息をもらして、クラーネは隣にいる青年を眺めた。

フェレンは、そうかなあ、ととぼけたようにゴロンと転がるが、さして怒ったような所はない。


もともと、異性に対する欲の量も才能だろうと思う。

仕事や趣味に夢中になりすぎる者もいるし、結局、このみの相手をどれだけでも抱ける、ということになったら、大抵の人間は飽きていくものじゃないだろうか。


……ただ、フェレンは、自分の行いで人が喜んでくれることを求め続けていっただけである。その一番手近なものが、女性の性の歓びだったに過ぎない。

「あなたは、たくさんの異性の間を渡り歩いていく人なの?」


クラーネは、フェレンの過去を知ってしまったことで、いくらか態度がくだけてしまったようだった。

経験のなかったはずの夜なのに、気楽な口調で彼にそう尋ねることができた。


「ーーいや? 僕は、君と家庭を築いていくことが、現在の僕の望みだと思っている。 みんなが、それですごく助かるんだと言われたし、なぜか君との触れ合いだけが、従姉ねえさんを想う以外で、僕を導いてくれる」

……やっぱり、あなたってよく分からないわ。

クラーネはそう言って、彼の腕をとり、自分の腰に回させていた。

まだ身体の奥に違和感はあったが、他者と多くの面積で肌を触れあわせ、それを心地よいと感じていたのだった。



ーー彼らは、この後すぐに、本当に婚約を果たすことになる。

電撃的な発表だったが、フェレンは思いのほか家庭人に向いていて、妻の仕事を助け、子供をもうけたあとには娘と男児を一人ずつ、町役場の勤めにと育て上げることに成功したようだ。


クラーネが経営する《華燭の鞘》は、押しも押されぬ名彫刻店として、各国の筋者すじものたちに愛されることになったという。

……最後に、なぜ夫になった青年は、クラーネだけに特別な魅力を感じてしまったのかーー?

それは、まだ見ぬ未来にも、そして忙しく過ぎていく現在にも答えの浮かばない真実であり、思い出すことをやめてしまった記憶の狭間に、消えていくことになった事実だった。


あの夜ーー彼女が、処夜にいた夕方。

声を殺そうとするその横顔に、秘密が隠されていたのだ。


頬を染めて、痛みを我慢する彼女をゆっくりと揺らし、わずかに持ち上がることになったそのあごは、四分の一の角度によって、フェレンの従姉のものに酷似していた。

そして、彼女の歯の隙間からもれてくるかすれた声は、こちらも青年は気付いていなかったが、自分に生涯初の女を教えてくれた、旅芸人の女性が抑えていた声と、そっくりだったのである。


その呪いのような二重の魅力は、カラフルないましめとなってフェレンの心を妻にとどめ、激動の半生、そしておだやかな波にたゆたうような後世を、彼が全うすることに貢献したという。





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