第23話 境島署のいちばん長い日21

「ぶふぁっ!! 生きてる……おおい、ユリウス! 生きてるか!?」


 最初に犬飼が水面から顔を出し、遅れてユリウスも浮上した。

 幸いにして、貯水池はそこまで水深はなく、足がついた。装備を付けている状態で深い場所に落ちていたら、十中八九溺れていただろう。


「げほっ、げほ! い、生きてます。何とか……」


 あの状態から生きて地上に帰れるとはまさに奇跡だった。しかし、生還の喜びを噛み締める前に、腹に付けていた抱っこ紐の中身が空っぽなのを見て、ユリウスは焦ったような声を上げた。


「チビちゃんがいない!」

「嘘だろ!?」


 岸にも上がらずに二人は周りを見回した。何処にもいない。


「チビちゃん!!」


 ユリウスの悲痛な声が辺りに響き渡った時。


「キュウ!」


 ザパ!とすぐ目の前に小さな頭が可愛らしい鳴き声と共に現れた。


「ああ、よかったぁ~!」


 ユリウスの安堵の声を聞いているのかいないのか、仔竜はぱちゃぱちゃと無邪気に水遊びを楽しみ、それからユリウスの頭によじ登った。


「ユリウス、怪我とか大丈夫か?」


 身体に巻き付いた水草を煩わし気に千切って傍に来た犬飼が聞く。


「はい、大丈夫です。この子も。ありがとうございました。犬飼部長が来てくれなかったら本当に殉職でしたよ……」

「はは……。俺もマジでヤバかったけどな。チビ助に助けられたぜ……まあ、とにかく上がろうぜ。寒くてしょうがねえ」


 へぶしゅ、と犬飼がくしゃみを一つくれ、二人は水を吸って重たくなった制服に苦戦しながら貯水池から上がった。


「うぁぁ……びっしゃびしゃ。最悪」


 いつもの艶やかな黒い獣毛が水でぺそりとなって、犬飼がげんなりと肩を落とす。


「そういえば、ドラゴンは……?」


 ユリウスは辺りを見回す。三十メートルくらい離れた場所、トラックの一団が囲む中に、小山のような影が出来ているのが見えた。

 それはゆっくりと上下に動いていて、たまに羽根らしきものが抵抗するように羽ばたいている。

 怒りの唸り声は、まるで地鳴りのように辺りに響いている。

 頭にしがみついていた仔竜を胸の前に抱えなおし、ユリウスは走り出した。


「足柄課長!!」


 トラックの荷台に小柄な影を見つけて、ユリウスが叫んだ。

 影は振り向き、驚きと安堵が入り混じったように声を上げた。


「ユリちゃん!! おお、無事だったか!!」

「無事です。あの、ドラゴンは……!?」


 足柄が目線だけで指した。幾重にも縄で絡め取られた巨体が、ふいごのような吐息を鳴らしている。

 キュウ、と仔竜が鳴き、ユリウスの手から離れた。

 それでも振り返ってこちらを見る仔竜に、ユリウスは優しく声をかけた。


「行きな。お母さんだよ」


 横たわる母の鼻面に歩み寄り、甘えるかのように母の顔を舐める。怒りに満ちていたと息が次第に穏やかなものに変わり、子を見つめるその眼は敵愾心の代わりに安堵と慈愛が浮かんでいた。

 ぎしぎしと鳴っていたロープは次第に緩み、飛竜は大人しくなっていった。


「ドラゴンから敵意が消えた……?」


 足柄が驚いたように呟いた。ユリウスが仔竜の傍に立ち、母親に「遅くなってごめんなさい。子供さんは無事です。お母さんにお返ししますね」と頭を下げると、飛竜は大きく長い鼻息と共に、首肯するようにゆっくりと瞬きをした。

 そしてようやく、飛竜からは完全に攻撃する意思は消え、魔獣管理センターの管理下の元、ドラゴンの親子は無事に指定区域内に還されることになった。


 その無線を受け、境島署内では安堵の溜息と共に「総員、お疲れさまでした」という声が聞こえ、鳴りやまぬ電話に再度署員たちがまた溜息を吐いていた。


 こうして、境島署全署員が命懸けで行った飛竜誘導作戦は、誰一人として欠ける事も無く、完遂に至ったのである。

 長い長い、境島署の一日が、ようやく終わろうとしていた。


「じゃあ、すみません課長。とりあえず一回帰ります……制服びしょびしょだし……」


 ユリウスは、着替えとして置いてあったTシャツとジーンズに着替え、しとどに濡れた制服をビニール袋に入れ、地域課長である杉本へ報告した。既に時計は0時を回ろうとしている。いつもは銀縁のメガネの奥にある鋭く冷ややかな眼光も、流石に今は疲労の色が色濃く滲んでいた。


「報告は聞いていますので、そのまま明日まで非番でいいですよ。できれば怪我も心配なので病院へ行ってください。その時は特別休暇として処理しますので」

「あ、いえ……別に怪我とかは……」

「行ってください。部下の健康管理は管理職の義務です。それでは、お疲れさまでした」

「……はい」


 有無を言わさずに言い返され、ユリウスはしょんぼりと肩を竦めて踵を返した。


「ガーランド君」


 その背中に杉本の声が掛けられ、あ、はい。と振り向く。


「今回の作戦は、君がいなければ成り立たなかったとはいえ、非常に危険な目に遭わせてしまったのは事実です。申し訳ありません」

「えっ!! あ、いや、そんな……!」

「警察官として、危険な業務に就かざるを得ない事は確かにありますが、私は課長として部下を敢えて死地に送るような事はしたくありません。だから、君が無事で本当によかった」

「課長……」


 いつも淡々と感情を出さない杉本の声が揺らいだ気がして、ユリウスは目頭が熱くなった。


「では、お疲れさまでした。必ず病院で診察してもらってください」


 すぐに目線はパソコンに戻り、口調も元のトーンに戻ってしまったが、それがなんだか照れ隠しのように見えて、ユリウスは「はい。お疲れさまでした」と笑いながら頭を下げた。


 庁舎を出ると、満天の星空が広がっていて、ユリウスは少しだけそれに見惚れていた。


「チビちゃん、無事に帰れたかなぁ」


 官舎への道を歩きながら、そんな事を思う。自分が死にそうになったばかりなのに他人の事を考えてしまうのが、ユリウスの良い所でもあり、旧友からすれば悪い意味で非常にお人好しと評される所以でもあった。


「今日は疲れたな……風呂は良いからもう寝よ……」


 疲れた体を引き摺って、官舎の階段を上がる。2階の真ん中の部屋。203号室の鍵を出し、ドアを開ける。

 はぁあ~と安堵の溜息と共に、電気を点けた。


「えっ…………?」


 部屋の中は、割れた窓ガラスがそこら中に散らばり、吹き飛んだサッシ、家電が床に転がって、誰かが大暴れしたような悲惨な様相を呈していた。


「え、ちょ、ええ~……あ!!!!」


 疲労と困惑に言葉が出ないでいると、数時間前の杉本の言葉を思い出した。


『ガーランド君、犬飼君。丁度良かった。聞いてますか? 猪熊官舎が半壊したというのは』

『二階から上の窓ガラスは全滅だそうです。二階でしたよね。お気の毒に』


 べしょ、と濡れた制服を入れたビニール袋が手から落ちる。

 ユリウスはしばし無言で荒れ果てた部屋を見つめるとおもむろにスマートフォンを取り出して、どこかへかけた。


「……もしもし、兄さん? うん、僕だけど。あのさ……暫く泊めてくれない……?」


 こうして、ユリウスは猪熊官舎が修繕されるまでの間、実家での滞在を余儀なくされたのであった。

 愛する弟が帰って来て、兄王アレキアスとその近衛隊長オスカーがユリウスが辟易する程の凄まじい兄バカを発揮したのは、また別の話である。


【境島署のいちばん長い日 完】




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