第5話 底の見えない想いと大穴
旅館の人に事情を説明して、一日寝かせてもらうことになった。
先生のパソコンの音にうつらうつらして、聞こえなくなったと思ったら、昼食を買いに出かけると書き置きが残されていた。
またもや夢の中に入ろうとしたとき、足音が近づいてきて目を開ける。
「ただいま。具合はどう?」
「すっかり良くなりました」
「よかった。プリン買ってきたんだけど食べる?」
「はい。好きです」
「エビフライとどっちが好き?」
「エビフライ。でも今はプリンの気分です」
「エビフライにはタルタルだよね!」
「いえ、醤油です」
先生の顔が真顔になった。これは譲れない。絶対に醤油。
プリンの他には、ヨーグルトやお粥、蕎麦もある。
「近くにコンビニあったんですか?」
「ん? だね。エビが乗っているのはなかったんだよ」
「とろろも大好きですよ」
蕎麦から給食の話になったり、想い出の寄り道をしながら昼食を楽しんだ。
昨日あれだけ吐いたのは、トラウマごと吐き出したからだ。今は吐き気もなく、彼の質問に答えられるくらいまでは回復した。
「千夏は夏になるとご飯は何食べてるの?」
「冷たいものばっかりですよ。麺類もご飯も冷やして食べたいくらい」
「カップ麺も水でふやけるし、氷を入れると冷たくて美味しいんだ。あ、千夏は真似しちゃダメだからね? 身体に悪い」
「先生は食べるのに?」
「俺はいいの。これでも栄養考えているんだから。体調が良くなったんなら、明日の打ち合わせでもしようか」
「はい」
「実はさっき、香山と会ってきたんだ」
先生はちらりと僕を見て、様子を伺う。あまり良い話題ではないが、昨日のように体調が悪くなるようなことはない。
「香山はこの辺の出身ってわけじゃないから、もしかしたら話してくれるんじゃないかと思って。香山は香山で、窮屈な時間を過ごしていたみたいなんだ。田舎特有の閉鎖的な雰囲気っていうのに、どうも馴染めなくて、俺たちと会って楽しかったみたいだ」
「だからあんなに嬉しそうにしてたんですね」
「飲みに行こうって誘われたけど、さすがに断った。取材ついでに少しだけお茶してきたんだが、香山も風習のことはあまり教えてもらってないらしい」
「それが、閉鎖的な空間を感じる原因かもしれませんね」
「ああ、本人も話していたよ。同じ日本人なのに異文化すぎるって。それでも知っている範囲内で教えてもらった。村の秘密をね」
空気が張り詰めて、どこか息苦しい。
「この村のどこかに土砂も砂利も被せても一向に埋まらない、底が見えない大穴があると言われている。いつしかその穴を、地獄へ通じる扉だと言われるようになった」
「それが風習と関係が?」
「だろうね。残念ながら分かっているのはそれくらいだそうだ。仮に恐ろしい風習であっても大昔の出来事だ。知らないふりをして隠し通そうとする女将も含め、絶対におかしい。考古学者も調べ尽くせないくらいだしね」
「意図的に隠してても、そんな大きな穴なら見つかりそうですけど」
「隠されているか、すでに埋まっているかだ」
外では雷が鳴った。見慣れない土地で不安だったせいか、無意識に目の前の袖に手を伸ばしてしまった。
慌てて離そうとするも、先生は僕の手首を強く握る。
「こんな天気だ。しばらくここに滞在しよう」
「聞いてなかったですけど、ここっていくら払ってるんです?」
「まあまあかな」
質問の答えになっていない。まあまあイコール、そこそこ高いと捉えよう。
「言い忘れてたけど、明日から宿は別の場所に泊まることになったよ。予約も今日までしかできなかったんだよねえ」
「そんな大事なこと、今言うんですか?」
「昨日行った史料館あるだろう? そこに泊まらせてもらえるから大丈夫。元々よそから来たお客さんが宿泊できる部屋もあるらしいし。ただし、ご飯だけは自分で準備してほしいんだそうだ」
「……ご飯」
「そ、ご飯」
「……………………」
「あっ皿とか炊飯器とか借りられるから問題ないよ。一式揃ってるらしいし」
「……………………」
「僕が作るから大丈夫」
ばちんと大きな目でウインクされた。頼もしい。そして僕は情けない。
料理の才がない僕では、ご飯の準備はできそうにない。一刻も早く体調を回復して、何か役に立たなければ。
「明日は荷物を史料館に移動して、食料の調達に行こう。遠足みたいでわくわくだよ!」
「それは良かったですね。はあ………」
「僕のご飯楽しみじゃないの?」
「好きですよ」
「え、ほんとに? ふふ、嬉しいなあ。僕の作るみそ汁飲んでくれる?」
「もちろんです。というかそんなすごい料理も作れるんですか。はあ…………」
「やった。毎朝みそ汁! ハッピーライフ!」
英語の発音もいい。彼が半分アメリカ人だからとか、そんな理由じゃない。彼が頑張ったからだ。努力したから、日本語も英語も話せる。
自分にないものを数多く持つ彼は、普通ならば自分が劣等だらけになるだろう。けれど嫌味の一つもなく、さらっと何でもこなしてしまう彼に、いつからか僕は憧れ以上の好意を持つようになった。
あの告白はどうなったのか、僕は返事を聞けないでいる。僕にとっては底の見えない大穴だ。
離してくれない手首に、今は甘えていたい。
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