うんち
上海公司
第1話
無闇に白い2つの肉の塊の間から、茶色く形の整った物体がするりとこぼれ落ちるのを僕は見た。
それは日常の中に不意に現れた不可思議であった。
名古屋市中川区西日置から大須通りを東に20分ほど歩いたところにぼくの会社はあった。
いつもはゴミを漁るカラスやロードバイクで通勤するサラリーマンを横目にこの道を歩く。だから、路上で色白のお尻を露わにして、用を足しているおっさんを通勤中に見るのは日常から逸脱していることだった。
おっさんはことを済ますと、あろう事か尻の穴を拭きもせずにズボンを上げた。それから立ち上がると背を向けたまま、ふぅと一息ついたような声を出した。僕は顔を伏せてなるべくおっさんから距離を取るようにして再び歩き始めた。
腕時計をちらりと見る。急がなければ。
おっさんの横を通り過ぎる時、顔を見てみたいと思い、少しだけ俯いていた顔を上げた。
おっさんも僕の方をじっと見ていた。
僕らはしばし目が合った。痩せていて色白の顔には不潔な無精髭が蓄えられていた。僕は瞬間的に目を逸らして、早足にその場を立ち去った。
その日僕の頭にはおっさんの姿が残り続けた。色白のお尻とそこから徐々に姿を顕した茶色の物体が。
僕を現実に引き戻したのは、営業会議での部長の言葉だった。
「お前さ、今月数字足りてないの分かってる?ほんと来月もこの調子だったら仕事やめろよ。」
この会社にパワハラという言葉はない。一世代前の人間が部長や課長になっているのだから、手が出ないだけマシと考えるべきかもしれないが。
営業数字が足りていない事は分かっていた。しかしそれは僕の同僚だって同じだ。それなのに何故か上の人は僕にだけ当たりが強い。生まれ持った愛嬌の違いだろう。
その夜、僕は同僚を飲みに誘って頭がふらつき呂律が回らなくなるほど酒を飲んだ。
話を聞くと同僚も嫌味を言われるのだと漏らしていた。散々上司のグチを言い合った後、最後には二人で会社を辞めて起業しようというところまで話が発展した。2軒梯子した後、同期の心配をよそに駅の改札前で彼に別れを告げた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!いえふぐほこだからー、じゃあまた会社でなー」
僕はそう言って同僚に手を振った。
だが、同僚の姿が見えなくなったところで僕は堪えきれない吐き気を催し、駅構内のトイレに駆け込んだ。白い洋式の便器に僕は胃の中のものを全てぶちまけた。
ビール、つまみの枝豆、手羽先、キャベツ、軟骨の唐揚げ、ビール、肉……
それらが一緒くたに気持ちの悪い色の汚物になって僕の喉から吐き出されていった。
喉が焼けるように熱くなって、胃の中が空になってきても気持ち悪さから便器に頭を突っ込んだまま動くことができなかった。
一頻り吐き終えると吐物を流し、それからトイレのタイルの上に座り込んだ。
ドンドンドンという音がして、僕は意識を取り戻した。顔を上げると便所の白い扉が壊れんばかりに外側から叩かれていた。目の焦点すら定まらない中しばらくの間、誰かが規則的にトイレのドアを叩くドンドンドンという音を聞いていた。やがてその音は消え、再び沈黙が訪れる。否、耳をそばだてると微かに電車が動いている音がした。
僕は鈍い頭痛をかかえながら個室を出る。洗面台の鏡にはスーツを汚物で汚した、みすぼらしい自分の姿が映っていた。
家に帰り、シャワーを浴び、着替えて出社した。表面上だけ正常を装った服装であるが僕の身体はまったくもって正常には機能していなかった。頭痛、喉の痛み、気持ち悪さ。
出社する時にはやはり大須通りを東に歩く。その途中には形の良い茶色の塊が人知れず鎮座していた。
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