とらめく彼女の歓び
フローリングの上に二枚の布団が並べて敷かれていて、奇乃はその片方に腰を降ろしている。
月見里の娘は勉強机に向かって、教科書とノート、そして宿題のプリントを広げていた。
「九時を回ったのに勉強しなきゃいけないんだなんて、高校生って大変ですのねー」
足の裏を合わせて手を引っかけて、パンダのように体を揺らす奇乃は他人事のように呑気に関心していた。
それを月見里の娘はちらりと睨む。
「今日はどこかの誰かさんの洗濯したり布団敷いたりで、時間が取れなかったからね」
「……ごめんなさい、深くお詫び申し上げましてよ」
奇乃は即座にぺたりと布団の上で這いつくばって土下座をした。
これで機嫌を損ねて、手合わせを不可能にするのなら、プライドも何も捨て去って遜った方が遥かにマシだった。
しかし月見里の娘は奇乃の情けない態度を見ることもなく、プリントにシャープペンシルを走らせている。
相手にされてないのをすぐに覚った奇乃は頭を上げて部屋を見回した。
壁には制服がかけられていて、鞄は机の足元に寄りかかっている。
本棚には、少女漫画が三シリーズほど、あと小説がびっしりと詰まっている。
奇乃はその本の中で、真っ白な背表紙を見つけた。
「あの名前のない本はなんですの?」
「え、名前がないって、どれのこと?」
月見里の娘がペンを机に置き、椅子を回して振り返った。
奇乃が本棚を指差せば、彼女はその先を精確に辿って、ああ、と頷く。
「名前がないんじゃないよ。あれは同人誌だから」
「同人……え、えっちな本ですの?」
「ちがうわよ!」
彼女に鋭い声で叱責されるが、奇乃の乏しい知識の中での同人誌は、毎年夏と冬に開催されるイベントで自分の好きなキャラを好きなようにした二次創作なのである。
「でも、薄い本ですわよ?」
「なんでそんな微妙な言い回しは知ってるのに同人誌が何か知らないのよ! 同人誌っていうのは出版社が出すんじゃなくて、アマの作家が自分で製本した本のこと!」
「あら、そんなことする人がいるんですの」
奇乃は書籍はみんな出版社を通して印刷されるのだと思っていたから、個人で本を作るなんて初めて知った。
月見里の娘は椅子から立ち上がり、大股で本棚に迫って、奇乃が見つけた本を取り出した。
その表紙には『誠言 十五言目』と記してあった。
「これは、未言屋っていう人達が書いた小説とか詩なんかが載っているのよ」
奇乃は、目の前に突き出された白い本を受け取って、ぼんやりと眺める。
「みこと、や?」
「そう、未言屋。未言っていうのは、未だ言葉にあらず、今まで言葉になかったものを言葉にしたもの。未言屋はその未言を使って創作をする人達よ」
「んー、ちょっと分かりませんの」
分からないとだけ言って本を返したら、また彼女に怒られそうな気がして、奇乃はパラパラと表紙をめくった。
厚紙の表紙は曲がり癖が付いていて、一度や二度でなく繰り返しこの本が開かれたのを奇乃に教えてくる。
しかし、普段は本なんて読まない奇乃は、紙の上に並ぶ小さな文字に、老眼のように目を細めて眉間に嫌そうな皺を寄せた。
「文学が好きなんですの?」
奇乃は手を合わせるようにして本を閉じて、彼女に問いかけた。
彼女は、何故か急にハッとして、それから頬に血を昇らせて恥じらう。
「そ、そうだけど、悪かったわね、暴力女が本なんて好きでさ」
「悪くはありませんし、闘う気が一切ない人を暴力の人とは呼べませんわー。
彼女は奇乃の顔をちらりと見て、それから腕を組んでそっぽを向いた。
その仕草が子供っぽくて可愛らしくて、それから自分に心を開いてないんだと教えられるようで寂しくて、奇乃は心に陰を落とす。
「どうして貴女は闘うのを厭うのですの?」
奇乃の問いかけに、彼女は表情を失くして顔を向ける。
「それを知ってどうするの?」
「それは勿論、嫌な理由を聞いてそれを解消して、闘ってもらおうと思ってるんですわー。
奇乃は自分の願いを叶えるためには苦労を惜しまないと言ってのける。実際、奇乃は今日まで日本中を放浪して強者を探し回ってたくさんの決闘を果たしてきたのだ。
その中で奇乃が満足出来た手合わせは、片手の指にも満たない回数だったし、前の時点からはもう二月も過ぎている。
こんな欲求不満なままで家に帰っても、また悶々とした想いに捉われてしまう。
彼女は溜め息をついて、奇乃の前にすとんと座り込んだ。
「あなたは普通の女の子になりたいって思ったことない? 力なんていらない、怖がられたくなんかない、みんなと一緒にいられる、そんな普通な女の子に」
奇乃は、彼女は普通になりたいのかと目を細めた。
それは奇乃にはちっとも抱いたことのない感情だけど、人の脳みそは人それぞれ違うんだから、自分が考えたことがないからと足蹴にするつもりはない。
でも、ここで考えたことなんてないと返すのも、彼女を傷付けるのだろうなと奇乃は言葉を選びたくて、そして何一つ思い浮かばなかった。
手の中の本にそんな気持ちを表した未言とやらはないだろうかと思いつつ、本に目を落としたらそれっきり口も聞いてもらえなさそうだと自重する。
「そうね、闘わせろって言ってくるんだから、強い自分が好きなのよね」
黙ったままの奇乃をどう思ったのか、彼女は自嘲を吐き捨てて前のめりになっていた体を引き戻した。
「貴女は強い自分が嫌いなんですの?」
奇乃の言葉に、彼女は苦しげに顔を歪めた。
嫌い、ではなさそうだけど、認められないのだろうか。
今度は彼女の方が押し黙る。
「んー。好き嫌いは自分の気持ちですから、
欲しいもの、と言われて、彼女は瞳に閃光を走らせた。
四つん這いになるくらいに勢いを付けて奇乃に詰め寄る。
腰の両脇に手を付かれて、奇乃は思わず仰け反って、左手を彼女の目の前に差し込んで防衛線を張った。
「普通の女の子になれたら、友達が出来るでしょ! 普通の友達! わたしのことを怖がらなくて、普通に笑いかけてくれて、普通に話してくれる、いつも一緒にいられる友達!」
彼女は右手を胸に添えて熱弁する。
噛み付きそうな勢いで迫る彼女の顔に、競り上がる危機感を、奇乃は喉の下で無理やりに捻じ伏せる。
「なんだ、友達がほしいんですの? それだったら、
「え」
奇乃の申し出に、彼女は虚を付かれたように目を丸くして口も丸く開ける。
「わたし、わたしだよ? わたしの友達になるって、そんな、今日会ったばっかりなのに」
「友達に、今日会ったばっかりも前世から仲良しもありませんわー。あ、でも、友達になるのでしたら、お名前を教えてくださいな。ずっとお聞きしたかったのに、まだ教えてもらっていませんの」
奇乃は彼女の両手を、自分の両手で包みこんで、額にくっつけた。
「
奇乃は思い付くだけの自己紹介を並べて、それからすぐに行き詰って彼女にお伺いを立てる。
その真摯な姿に、彼女は大いに戸惑った。
「あ、ご、ごめんなさい、わたしったら、すっかり名乗った気になってて、あの、んんっ、名前、名前ね」
彼女は何度も何度も咳払いして声の調子を整えようとして、その度に声が上擦った。
三度、深呼吸をしてから、やっとゆっくりと声を紡ぐ。
「わたしは
実景の顔はこれまでで一番真っ赤になって、冬だったら湯気を立たせていそうだった。
そんな慌てぶりが可笑しくて、奇乃はくすくすと笑う。
「よろしくですわ。実景ちゃん」
「実景ちゃん!?」
「あら? さんとか、それとも呼び捨てとかの方がよろしいでしょうか?」
「ううん! ちゃんがいい! ちゃんで!」
「わかりましたわー」
欲しがるばっかりは奇乃も気後れするから、こうして呼び方一つだけでも贈れるものがあるのが、こそばゆくも嬉しさが込み上げてくる。
それから、いきなり奇乃を抱き締めて離そうとしない実景には、本当に友達っていうものに慣れていないんだなと、心から納得をするのだった。
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