古けぐために清算する
二人の武闘家が満たしていた闘志の熱が緩やかに解けていく。
緊迫した空気が弛んで、少し呼吸が楽になったような心地さえした。
「
道場の中にいた三人の誰もがまだ動けなかったところに、入り口からどたばたと足音を鳴らしてくる子供がいた。
奇乃がぼんやりと顔を向けて、その軌道を視線で追う。
その少年は奇乃を睨みながら、倒れる景隆の前に両手を広げて仁王立ちした。
「出てけ! 父さんにひどいことをして、許さないからな!」
奇乃はぱちぱちと瞼を瞬かせる。
二秒程、少年を眺めてから、月見里の娘に目を向けた。
「貴女の弟君ですの?」
「え、はい。あの、弟はまだ幼くて、どうか無礼を許してくださいませんか!」
「こんな小さな子供の言う事にいちいち目くじら立てたりしませんわ。
奇乃は間延びした口調で空気を弛緩させる。これで少年が飛び込んできて生まれた不必要な緊迫感が消えてほしいと思いながら。
しかし、父を倒された景胤は逆にそれを馬鹿にされたと感じたのか、目を吊り上げた。
「お前、この、父さんの仇!」
「こら、影胤! 止めなさい!」
姉の制止も聞かず、影胤は拳を振り上げて奇乃に突っ込んだ。
「危なくってよ」
その小さな拳を、奇乃は人差し指一本で止めて、ぺちりと優しく額を掌でぶった。
「くぬのぉ!」
奇乃が痛みを生み出さずに音だけ立てた掌に、影胤は逆に顔を真っ赤にして怒りを噴き出させて滅茶苦茶に腕を振るった。
しかしそんなものが奇乃に通じる訳もなく、額に置かれた掌に押さえつけられて作られた空を切るばかりだ。
「仇なんて言っては駄目でしてよ。お父さんを勝手に殺すんじゃありませんわ」
奇乃は律儀なのかマイペースなのか、呑気に景胤の言葉遣いを訂正した。
月見里の娘はハラハラとその光景を見守り、体を揺すっている。
止めるまでもない茶番なのだが、姉として、そして奇乃に目を付けられた対象として、見て見ぬ振りもできないようだ。
「くっ、がふっ!」
そんな最中に、景隆は咳きこみ、意識を取り戻した。
「父さん!」
「父さん、平気!? どこか痛むところは!?」
姉弟は父の声を聞いて同時に駆け寄った。
景隆は強いて息を吸って吐き、体の調子を整えている。
「心配はいらないよ。とても上手に投げられたから、意識だけ精確に飛ばされて、痛みはないんだ……」
景隆の顔は、本人の言葉通りに穏やかだ。
しかし、痛みなく負けさせるなんて所業は、圧倒的な実力差がなくてはできない。
奇乃はクールダウンを終えて涼しい顔を取り戻しているが、それこそが景隆には恐ろしくて仕方なかった。
だから景隆は立ち上がり、奇乃の前まで近づき。
その場で土下座して頭を床に擦り付けた。
奇乃が頬を引きつらせるが、景隆の視界には床しか映っていない。
「頼む! どうか娘には無理強いだけはしないでいただきたい! 腹に据えかねるというのなら、負けた身だ、私の命ならば好きにしていい!」
負けを認め、娘を大事にするその姿はどこまでも潔かった。
だからこそ、奇乃は余計に困っていさよわしくあっちを向いたりこっちを見たり、体を揺すったり手を揉み合わせたりと、落ち着かない様子を見せる。
「そ、そんなことされても困りますわ! 元から手合わせを受け入れてくれるまで待たせてほしいと言ってますの! 襲いかかったりしませんわ!」
奇乃は心外だと訴えるが、景隆は平伏したまま動かない。
どうしようもなくて、奇乃は縋るように月見里の娘を見た。
「ほんとうですの! どうか信じてくださいな!」
勝負に勝った者が許しを請うていて、負けた者が追い詰めるという、なんとも噛み合わない状況で水を向けられて、月見里の娘は小さく息をついた。
彼女はまず、まだ憎しみの籠る目で奇乃を睨む弟の頭を撫でて、落ち着かせた。
「父さん、彼女が困っているし、みっともないからもう止めて。それと約束通り、家に泊めてあげるってことでいいんだよね」
勝敗の清算をするのが、この場を収めるのになにより早い手段だと判断して、彼女は家長である父に同意を求めた。
当然ながら、異論を挟む余地もない敗北に、景隆は温情ある奇乃の申し出は全て受け入れた。
なんとか滞在する許可を得られて、奇乃がホッと胸を撫で下ろす。
「景胤、父さんを見ててあげて。それと」
月見里の娘が躊躇なく、奇乃の手を取った。
奇乃が驚きで目を見開く。
「貴女は一緒に来て。荷物も持って」
奇乃は彼女に腕を引かれて後を付いていく。
道場を出て母屋に向かう廊下では、さっきの青年が中を覗いていた。
「
「そちらは?」
「この人、言っていることは信頼できるから。一人で平気です。女の子のことだし」
「わかりました」
擦れ違いで彼女と言葉を交わした青年は穏やかに微笑み、見送った。
彼女は振り向かずに廊下を進む間に、奇乃に声をかける。
「貴女、悪いけど、けっこう匂うよ。いつからお風呂入ってないの?」
言葉をかけられた奇乃は、戸惑いで一瞬言葉を見失った。
この半年、道場に押しかけて一番の強者を倒した後は、残る人々に怯えた視線と罵倒を浴びせられて、逃げるように立ち去るのが常だった。
それなのに、父を倒したのに、『言うことは信頼できる』と会話を求めてもらえたのが、奇乃自身が思っていたよりも新鮮だった。
「すみません、三日程ずっと歩いてきたものですから」
山の中の清流を見つけて水浴びしてからは、公園の水道を探して顔を洗って歯磨きするくらいしかできなかった。
彼女が問いかけた湯船のあるお風呂でシャンプーやソープで体を洗ったのは、一週間以上前で、正確な日数はとっくに忘れてしまっていた。
月見里の娘は聞こえよがしに溜め息を吐いた。
奇乃は申し訳なさで肩を縮める。図々しく宿泊を要求したのに、身嗜みがなってないのは、確かに女子として落第だ。
月見里の娘は奇乃を脱衣場へと連れ込んだ。
風呂に続く扉の横に置かれた洗濯機を指差して、奇乃に指示を出す。
「洗い物、全部洗濯機に入れて。私は着替え持ってくるから、そのままお風呂入って」
てきぱきと述べられて、奇乃はこくりと黙って頷いた。
そしてじっと見つめる彼女に身を竦ませながら、リュックを開き、脱いでそのままの服を洗濯機に入れていく。
その様子を見て満足したのか、彼女は脱衣場を後にして姿を消す。
洗濯機のそばのラックにあった洗濯ネットも拝借して洗濯物を全て入れた奇乃は、風呂場のドアを開けた。
稽古の後、すぐ入れるように用意してあったのだろう。
奇乃が湯船の蓋を持ち上げれば、透明なお湯が白く息を微かにたなびかせて、そして少しも長さを伸ばさずに消えている。
奇乃は桶でお湯を掬い、肩から自分にかける。
「あったかいですのぉ」
久しぶりの入浴を実感して、奇乃はぽろぽろと泣いたりしていた。
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